5 桜
毎年決まって会いに行くお気に入りの桜がある。
初めてその桜を見つけたのはもう十年以上も前の事だ。
ゴールデンウィークの中休みにどうしても桜が見たくなって探したのだ。
平地では4月の中頃までに桜は散ってしまうが、ひょっとして山へ向えば会えるかも知れないとバイクを駆って出掛けたのだった。
出発から一時間も駆ってようやく出会ったその桜は山奥の一本桜だった。
九十九折の峠道の途中に少しだけ開けた処があって、向かい側には廃校になった山の分校が崩れそうに建っていた。
分校の狭いグランドの横の小高い山には村社があり、路を挟んだ向かいには廃寺もあって以前は小さな村の中心地だったのかも知れない。
辺りにも何軒かの家が有ったのだろうが、今は主が土地を離れ家は取り壊され荒れ放題の敷地に家の基礎が朽ちかけて残っている。
例の桜はそんな一軒の家の庭先に立っていた。
山の斜面に石垣を積んで盛り土した敷地はそれなりの広さが確保されており、往時は立派な家が建っていたのかも知れないが、建物は跡形も無く壊され、桜だけが主の去った庭の隅で小さな花を満開に咲かせていた。
向かいの分校の入り口は30p四方位の板ガラスを格子にはめ込んだ引き戸で、戸の下半分位は木の板がはめ込んである昔懐かしいスタイルだった。
引いてみるとその戸は軋みながらも何とか開く事ができた。
麗らかな初夏の日差しを薄い板ガラス越しに受け、誰も訪れる者の居ない校内の空気はカビや埃の臭いを含んで暑く淀んでいた。
板張りの廊下には埃が積もり、古い足跡が見えた。
腰板、白壁、薄い板ガラスの木枠窓。
教室の入り口には小さな横長の黒い表札が突き出していて白い文字で教室の名前が書かれていた。
教室の入り口も学校の入り口と同じような造りの引き戸だった。
開けてみると、思ったより小さな教室は机も椅子も教壇も無くガランとしていたが、赤く錆びたダルマストーブが部屋の隅にポツンと放置されていた。
抜け殻のような教室には真っ黒な黒板が正面にあって、チョークの文字で幾つもの書き込みがあった。
墓参りに来て懐かしくて寄ってみた。というような種類のこの学校の卒業生らしき幾つかの書き込みには、名前と誰に宛てたか解からないそれらの伝言を書いた昭和の日付が添えてあったが最近の日付は見当たらなかった。
廊下の窓から外を見ると、狭いグランド越しにさっきの桜が満開に咲き誇って見えた。
「栃折の姥桜」と勝手に名付けたその桜を以来毎年のように訪れているが初めて訪れた時のような満開にはその後何年も出会う事が無かった。
タイミングを見計らって出向いているのだが散った後だったり、まだ3分咲きだったりと満開に数日ずれてしまうのだ。
それでも毎年訪れる度に二抱え以上も有ろうかという苔むした大木に「来年も必ず来るよ。今度こそ満開に会わせてくれ」と話し掛け峠を下っていたのだった。
そして今年久々の満開に会った。
近年になって傷みのひどかった分校は解体され更地になっている。
桜の立っている家の敷地にはどこからか運ばれて来た種が芽をだし、今は背丈以上に伸びていた。月日が過ぎればここが家の跡地であることすら見分けが付かなくなるかも知れない。
狭い九十九折の峠路も不用に思えるような広い路がすぐそばに出来て脇道になり孤桜はますます人の目に触れる事が無くなってしまった。
誰も眺めてくれる者の無い主の去った庭の隅で、それでも古木は毎年小さな花を満開に咲かせているのだ。
陽だまりの庭先で満開の桜を眺めていると、何処からとも無く唸りが聞こえてきた。
その声はだんだん大きくなり、やがて辺りの木々の穂先を揺らす風になった。
更に数秒の時をおいて、風は一陣の大きな塊になって山々の木々を大きく揺さぶりながら近付き、通過列車が駅のホームを過ぎて往くような勢いで目の前を通り過ぎていった。
「トトロ」の「ねこバス」を思い出しながら一陣の風の行方を見送った。
誰かに呼ばれたような気がして振り返ると、満開の桜が雪のように真っ白な花びらを散らしていた。
今、部屋のテーブルの上の一輪挿しに桜の小枝が差してある。
その花びらはよく目にする「ソメイヨシノ」の花びらより二周りも小さく白い。