2005年第50回大学祭報告号6月9日発行

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一面

第50回大学祭大いに盛り上がる!

大学祭実行委一年生の感想

映画上映 &
綿井健陽監督特別講演会

本の紹介〜石原知事に挑戦状

空中線

二面

不二越訴訟第6回公判報告

投稿〜沖縄を訪れて

DVD紹介
〜おばあちゃんの家

第50回大学祭大いに盛り上がる!

 記念すべき、第50回の富大祭が、5月26日〜29日までの4日間、晴天に恵まれて行われた。今年の大学祭のスローガンは「深めよう!富大交流の和!!〜日本一の大学へのKAKEHASHI〜」だ。富大祭でありながら、富大生があまり大学祭に参加してないのではないか?そんな大学祭を変えよう!医薬大、高岡短大との3大学統合を前にしての、富山大学として最後の大学祭。これを何としても盛り上げたい!そんな思いから作り上げられたスローガンであり、今年の大学祭の内容だった。そのため、今年は芸人を呼び、ジョイントライブを行うことを執行部として提案、大きく宣伝が行われた。500枚のチケットは完売、500人収容の黒田講堂ホールは、いっぱいになった。その他、今年はステージの位置を共通教育棟の駐輪場に一カ所設置、正門から入って来るなり、ステージでの演奏などが鳴り響き、盛り上がる様相を見せた。
 再編統合後の、大学祭や学生団体がどのようになっていくのか、現段階ではまだまったく学生には知らされていない。大学当局は、まだわからないの一点張りだ。その中で、来年も第51回の自主大学祭を行いたい!そんな思いを胸に、大学祭実行委員会一年生は流しそうめんの模擬店を出店。一年生同士の団結を深めつつ、本格的な流し台をつくり、模擬店の中でも注目を集めた。また、来年も大学祭をやるぞ!と、富大生や来客者から一言カードを書いてもらうことも行われた。それは、学生会館入口に張り出され、立ち止まって読んでいる人の姿も見られた。
 大学祭が終わった翌日、30日の日は、授業があるにもかかわらず、日曜日のように静かだった。この学生のエネルギーで来年の自主大学祭も期待したい。

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大学祭実行委一年生の感想〜大学祭をおえて〜

 学祭実行委員でした流しそうめんの企画は人数が少なく、準備する期間も限られていましたが、たくさんの人が来てくれて楽しかったです。その他のいろいろな企画も裏方としていろんな形で参加できてとっても楽しかったです。(しのしの)

 4日間の大学祭は長いようであっという間に過ぎ去っていった。前半2日間は流しソーメンをやっていたが、自分達の計画性の無さが露呈してしまう結果となった。麺を茹でる時間を考慮に入れずに開店してしまい、客の数に麺が追いつかずお客さんを待たせてしまったり、買い出しの量を間違えて途中で慌てて追加の買い出しをした結果、質の悪いものを買ってしまい不評をくらったり、発案・企画に対して甘い考えをいだいていたのか。それともただ経験不足なだけなのか。いづれにせよ反省点はいくつもある。これからの大学祭を担っていく一人として熟考すべきところである。全体的な実行委員会としての仕事はさほど忙しくなかった。「先輩が去年から計画的にやってきた賜物か」と思っていたが、そうではなかった。自分達のうち一人や二人に仕事が集中していたのだ。それを知って、自分はしっとにも似た感じを覚えた。もっと仕事が欲しかった。もっと働いて参加している気持ちが欲しかった。しかし仕事はなかった。半日寝られるほど仕事がなかった。しかし、こんな事を言っても仕方がない。仕事が出来るひとから優先的に仕事を割り振るのは上に立つ人にとって常識である。嘆いても仕方がないのだ。次回からはもっと仕事を与えられるだろうか。(さっさ)

 まず始めに、皆さんお疲れさまでした。
 たくさんの人々の笑顔が見れ、第50回富大祭は満足いく結果となりました。(…と思います、はい。)
 実行委員(一年)で企画した流しそうめんも、企画倒れせず、順調に商売(笑)することができました。大学祭実行委員・保護者の皆様のご協力のおかげです。本当にありがとうございました。
 実行委員としての仕事をちゃんとやれていたかどうかは、私自身定かではありませんが、“終わりよければ全てよし”ということで無事に大学祭を終えれたことを喜ばしく思っています。
 今回の大学祭が来年のKAKEHASHIとなるよう、今のうちに期待を膨らませておきます。
 本当にありがとうございました。お疲れさまでした。(ほい)

 今回の大学祭は、50回目で富山大だけの最後の大学祭でした。学祭実行委員会の一年生は、最後の大学祭とあって一生懸命に流しそうめんに取り組みました。毎晩夜8時半頃まで残って、竹を削ったりいろいろな方針を決めました。当日はみんなとても頑張っていました。しかし、それは楽しく、みんなの忘れられない思い出になりました。(しょー)

 私が今回の富大祭で一番思い出に残ったのは一年学祭実行委員で出した、流しそうめんの模擬店です。準備など大変なことも多かったけど、終わった後の充実感は言葉では言い表せません。何よりも楽しく大学祭に参加することができて良かったです。(Θ)

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映画little Birds 上映会&綿井健陽監督特別講演会

 5月29日、大学祭の最終日に行われた綿井健陽氏の映画上映と講演会は、会場の7番教室に学生・市民約100名が集まった。
 この企画前半に上映された映画、「Little Birds」は綿井氏自身が03年3月イラク戦争開始の前後何度かイラクを訪れ、その際に撮った映像をつなぎ合わせたドキュメント映画だ。映画を作成する際、彼は一切ナレーションやBGMは入れなかった。現場の映像・音声、ただそれだけの中から、その場の状況を読みとって欲しいからだそうだ。アラビア語や英語で話される言葉も、最小限しか文字スーパーとしては流れない。言葉を読むのではなく、映像を感じ取って欲しい。そう彼は訴える。
 この映画のタイトルは、バグダッドへの空爆で殺された3人の子どもを埋葬した際、埋葬を手伝った人たちがそっと墓標の裏に書き添えた言葉「お父さん泣かないで、私たちは天国の鳥になりました」からヒントを得ている。実際に映画の中で聞こえてくる小鳥の鳴き声、それとは対照的に「空爆・戦争」がイラクを包む。聞こえてくる鳥たちの鳴き声は、イラクの人たちの泣き声でもある。映画のタイトルを決める際、「Little Birds(小さな鳥たち)」以外にもいくつか候補があったという。英語版では、その中の一つ「How many chirdren have you killed? 」が採用されているそうだ。これはは、イラク戦火の中、人間の盾となってイラクにいっていた一人の女性、ウズマ・バシルさんが米兵に向かって何度も叫んだ言葉を取りあげたものだ。
 彼は、映画上映後の講演で言う。「戦争は破片だ」と。イラクでは空から爆弾が降ってくる。それに直接あたって殺される一次的な被害だけではなく、その爆弾の破片がその周辺に広がり、その破片によって二次的な被害、家が壊され、脳や体に貫通することで、人が死んでいく。劣化ウラン弾もそんな爆弾(クラスター爆弾など)同じだと思うという。
 テレビなどの報道では、ゲリラ(武装勢力)の人たちの行動だけが「残虐」だとして取りあげられる。彼らだけが「残虐」なのだろうか。ボタン一つで爆弾を落とすことは、攻撃とか空爆とか言われるが、あれは「残虐」な行為ではないのか、彼は問いかける。イラクを語るとき、枕詞のように使われる「治安の悪化」という言葉。それは「戦争」の悪化ではないのか、と彼は言う。「私は第二次イラク戦争だといっている」と。
 イラクの男性は、皆、元軍人か旧軍人、現軍人に分けられる。家やお店には銃があり、自分の身は自分で守っている。テレビなどでよく言われる「武装勢力」。イラクでは、みんなが「武装」していることになる。米軍は片っ端からイラクの男性を「武装勢力」として身柄を拘束していく。これが、イラクの本当の現実。
 今回の講演と沖縄とは実は関係がある。沖縄の米軍基地からイラクに米兵が行っているのだ。日本は中立を取ることはできない。彼はイラクで「おまえとブッシュは同じだ。百年覚悟しとけ」とつきつけられたという。戦争に中立はない。暴力に中立はないと彼は言う。中立の立場を取ることは、戦争を黙認すること。戦争に協力することになる、と。
 この映画は、5月28日より東京などで上映が開始された。残念ながら富山での映画館での上映は行われない。そのおかげでこの自主上映会が開催できたわけでもあるが…。自主映画上映会としては今回が全国初となった。普段、あまり関心のない人たちにこの映画を見て欲しいと彼は言う。そして、少しでもこの現実について考えて欲しいと…。少しでいい、この現実に目を向け、考える時間を作りませんか。 

綿井健陽氏 プロフィール

1971年生まれ。
日本大学芸術学部放送学科卒業後、97年からジャーナリスト活動を始め、98年からアジア、そして世界の様々な問題を伝えていこうと活動するフリージャーナリスト集団「アジアプレス・インターナショナル」に所属。
スリランカ民族紛争、パプアニューギニア津波被害、スーダン飢餓などを取材。03年3月からは、空爆下のバグダッドから、「ニュースステーション」「筑紫哲也ニュース23」などで映像報告・中継リポートを行う。2003年度「ボーン・上田祈念国際記者賞」特別賞、第41回(2003年度)「ギャラクシー賞」(報道活動部門)「イラク戦争報道〜空爆下のバグダッドから『戦後』まで」最優秀賞受賞。
綿井健陽Web Journal:http://www1.odn.ne.jp/watai/

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本の紹介〜石原知事に挑戦状〜

 05年7月3日、準国政選挙と言われている東京都都議会議員選挙の投票日が行われる。東京都は石原都知事の支配下にある、といっても言い過ぎではないだろう。そんな東京都で、石原都知事に挑戦状を叩きつけた一人の男性がいる。都政を革新する会代表の長谷川ひでのり氏だ。彼が、今回都議選に立候補するにあたって一冊の本を発行した。それがこの本、「石原都知事に挑戦状〜とめよう戦争教育 うばうな介護〜」だ。
 石原都知事の言動、政策からは、本気で戦争をする姿がうかがえる。日本政府も、教育基本法を変え、憲法を変え、「二度と戦争をしない」という誓いを破り、ブッシュ政権と並んで戦争の道に突き進んでいる。その先兵の役割を果たしているのが石原東京都知事だ。
 この事態に危機感、怒りを抱いている人たちの力を一つに集めたい。そして、真っ正面から石原都知事に対決し、そして打ち倒そうではないか。そんな思いで書かれた一冊です。
 今年の2月6日に発売以来、どんどんと書店に並び、売れているという。この機会に、是非書店でお買い求めあれ。
都政を革新する会→WWW.tokakushin.org 

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空中線

▼4月25日、一〇七名がなくなるとても悲惨な尼崎での列車脱線事故が起こった。
▼千葉県のJR電車運転士、電車の検査・修繕に携わる労働者を中心に組織されている動労千葉(国鉄千葉動力車労働組合)の田中委員長は語る
▼「尼崎事故の根本原因は何か、一〇七名の命を奪ったのは誰か。国鉄分割・民営化という犯罪的政策によって殺された!…国鉄分割民営化がもたらしたものは、二〇万人に及ぶ国鉄労働者の首切りと鉄道輸送を利潤追求の手段としてしか考えない発想、組合つぶし・団結破壊を一切に優先するJRという歪んだ企業であった」
▼利潤追求と組合つぶしのため、徹底的に要員削減、業務の外注化がすすめられ、「安全」が無視される形の中、とうとう今回の悲惨な事故、いやJR資本による殺人がおきた。
▼しかし、このことはJRに限ったことではない。現に今、国会では郵政民営化が焦点になっている。国立大学も法人化された。第2の国鉄分割民営化が、今社会の全体に広がろうとしている。法人化された富山大学でも、競争原理と利潤追求、効率化が強調されている。この先には何があるのだろうか。
▼再び動労千葉の田中委員長は「分割された本州三社の中でもっとも経営基盤の弱かったJR西日本は、もっとも露骨に競争原理一本槍で突っ走った。…競争はマスコミが報じるような私鉄との関係で煽られているだけではない…JR各社が…同じJRでも支社どうしで…職場どうしで競い合いが行われ、そして一人一人の労働者の間でも蹴落とし合わされるということだ。その結果生みだされるのは、団結を解体され、自分のことしか関心を持たない人間像である。… 闘いなくして安全無し。今こそ職場に団結を取り戻さなければならない」と語る。
▼我々学生も、そして労働者も、民営化の嵐の中団結して闘い立ち向かっていく必要を深く感じる今日この頃だ。  

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不二越訴訟第6回公判報告
〜強制連行・強制労働への謝罪と補償を求めて〜

 去る4月13日、富山地裁第一号法廷にて不二越第2次強制連行訴訟の第6回口頭弁論が行われ、原告の意見陳述が行われた。マスコミや支援の陣形を含め、約50人が集まり、傍聴席は一杯となった。
 今回意見陳述したのは、73歳になる朴小得(パク・ソドク)さん。朴さんは意見陳述で次のように述べている。「不二越に勧誘された当時、私はまだ12歳でした。なにも分からず、『日本に行けば勉強ができる』と言われて、日本に連れてこられ、空腹に耐えながら重労働を強いられ、指に大怪我をした経験は、60年たった今も忘れることはありません。不二越で味わった悲しみ、辛さ、悔しさを知っていただき、謝罪と補償を受けたいと思います」。陳述の終わりには、涙ながらに訴えた。

■強制連行の実態

 意見陳述に続き、原告第12準備書面「被告ら(国・不二越)の行為の違法性、関連共同性について」が弁護士から提起された。第2次大戦中の不二越による朝鮮人強制連行は、不二越のみではなく、アジア侵略戦争と朝鮮半島の植民地支配という国策のもとに行われたことの違法性を証明するものだ。第1次訴訟が不二越のみを相手取ったのに対し、第2次訴訟は国家(政府・法務省)をも相手に謝罪と保障を求めている。
 準備書面では主に3点にわたって提起された。
 第一に、国・不二越による違法行為と被害の実態である。
 不二越に連行された朝鮮人少女たちの平均年齢は13.8才であり、小学校(当時は国民学校)卒業程度の若年であった。また、勧誘に際しては自らが進んで募集に応じるように仕向けた非常に計画的なものであったということが指摘されている。欺罔・脅迫という手段で勧誘が行われたのである。「日本に行けば、働きながら進学できる」などの甘言の他、「日本に行かなければ親や兄弟を代わりに連れて行く」などの脅迫が行われていた。そのため、「進学したい」「働いて実家に仕送りをしたい」などの理由から、中には両親には黙って家の印鑑を持ち出し、応募書面に捺印した原告もいたという。準備書面では、「強権的植民地支配のもとでの計画的・組織的強制連行であり、拉致・監禁に等しい」と断じた。
 また、原告には富山空襲に対する非常な恐怖心がある。富山には空襲があることが秘匿され、「安全な場所」という宣伝がなされていた。原告らは朝鮮から日本へ行く船の中で防空訓練をやらされたという。一日8〜12時間という重労働に加え、空襲への恐怖が睡眠不足をもたらし、労災が日常化した。空襲については旧舟橋村の資料より、当時の勧誘の実態については筆者自身が朝鮮半島で教師であった『二つのウリナラ』(池田正枝著)より引用している。
 厳しい労働と、劣悪な生活環境によって原告は毛髪が抜けるなどの皮膚病やジフテリアにかかるものが多かった。不二越の社史には徴用1089名(うち3名逃亡)とあるが、帰国できたものは1027名。労災や病気で死亡するものが多かったのである。
 そして、帰国後の原告の境遇は非常に厳しいものであった。韓国では「女子勤労挺身隊」=「日本軍軍隊慰安婦」という認識が強い。正確には両者はイコールではない。しかし、上記の勧誘の方法など(そもそもの問題として、「挺身隊」という名称)から考えるに、朝鮮の人々が両者を同一視してしまう「誤解」は、「挺身隊」を宣伝した被告・日本政府にあるとした。
 第二に、民族差別である。日本人にも「女子勤労挺身隊」は存在したが、幼少であった原告に対し日本人の場合は国民高校卒以上の年齢であった。日本人女性には夜勤を禁止していたが、朝鮮人であるということで原告は昼夜二交代も含めた夜勤を強要された。
 これは明らかな民族差別であり、戦時中のこととはいえ決して合法化できるものではない。
 第三には、国の責任である。
 まず、官あっせんや植民地支配の統制システムを駆使した徴用であったということである。これは一企業だけではできることではない。まさに、国策として戦時下の労働力の徴用として行われたと言える。
 不二越は日本の軍需産業の中核であった。現在も自衛隊への部品供給を行っている。不二越は、原告に賃金を一切支払っていない。「帰国する際に支払う」などとだまし、賃金を貯金させるなど違法な供託を行ったのである。こうしたことは国家総動員法のもとで行われた行為である。
 以上から、不二越のみならず日本政府と一体となった「関連共同性」が指摘できる。日本政府の戦争責任を真っ向から問う問題である。
 今回の口頭弁論において、原告の主張(法律的主張も含む)は一通り終わったことになる。最後に原告側から、9名の証人尋問を要求して閉廷した。原告側の科学的かつ具体的な主張を受け、今後の反論の準備のめども立たず国・不二越側の被告席は非常に焦燥した雰囲気であった。

■歴史的事実の抹殺狙う不二越

 被告=不二越・国の主張は、「法律的問題のみで解決する」というものである。つまり、日韓条約による「国家無当責」や「時効」「除責」であり、「事実関係はこの際は関係ない」というものだ。原告側の求める証人尋問も必要ないとしている。
 不二越は責任の居直りの上に、事実の抹殺をも狙う動きに出ている。今年2月に行われた株主総会(原告も株主であり、出席)において、井村社長は原告のことを「元挺身隊と称する方々」と呼ばわった。自らが「挺身隊」として強制連行しておきながら、そのような事実はありえなかったかのように振る舞っている。これは社史にも明記されている史実である。第1次訴訟の第一審においても、事実関係は判決において認められている(その上で、時効を根拠とした不当判決を下している)。
 侵略戦争と植民地支配に対して時効を主張すること自体が許し難いことだが、不二越は歴史的事実すら抹殺しようとしているのである。現在不二越は、タイなどから「研修生」として労働者を日本に連れてきて低賃金・劣悪労働条件で働かせている。不二越の体質は、戦後も変わっていない。

■アジア民衆との連帯を

 現在、韓国や中国で抗日運動が爆発している。日本政府は今、イラク侵略戦争へ自衛隊派兵という形で参戦し、ブッシュ政権の世界戦争戦略との一体化を強めている。また、マスコミは独島や釣魚台の領有権や東中国海(「東シナ海」)でのガス田開発をめぐり、韓国や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、中国への敵対感情をあおっている。東京都をはじめ全国で「日の丸・君が代」が学校現場で強制され、文部科学省は『新しい歴史教科書をつくる会』の歴史・公民教科書を検定合格させ、アジア侵略の歴史を国家として賛美し居直っている。その先にあるのは教育基本法の改悪(戦争教育)と憲法9条の改悪だ。
 抗日運動は「再びアジア侵略を繰り返すのか?!」というアジア民衆の怒りの当然の声ではないか。韓国では「日帝強占下強制動員真相糾明特別法」が制定され、被害深刻と調査が行われている。不二越訴訟に関しては「早期解決を求める大韓民国国会議員署名」が取り組まれている。
 私たちのとるべき立場は、アジア民衆と連帯し、アジア侵略の歴史を繰り返さないことではないか。戦争の原因は何か、戦争によって利益にあずかっているのは誰なのか・・・これは、アフガン侵略戦争やイラク侵略戦争とブッシュ政権を見れば明らかである。
 歴史に学ぶことは実践であろう。不二越と国の責任を私たち日本の民衆自身が糾さなければならない。
 次回公判は7月6日(水)午後1時30分、富山地裁である。傍聴を呼びかけます。(投稿・Y)  

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投稿〜沖縄を訪れて

 沖縄の基地の近くは英語の看板が目立つ。ドル表示の飲食店なんかは計算がややこしい。夜、僕が店に入った時にアメリカ人の兄ちゃんがいた。ぶっとい腕をしていて、肩が触れたのでぶん殴られるかと思ったら「sorry」と言って謝ってくれた。いい人だった。けれど、先刻の兄ちゃんもイラクに行って、人を殺してきているかもしれない。また逆に殺されてしまうかもしれないと思ったら、ズ〜ンと重くなってしまった。沖縄とはそういうところなのだ。そう考えると沖縄は未だに戦中であることがわかる。しかも、その傷跡を未だに残している。これは、未来の人たちに向けられた二度と起こさないでくださいという願いなのだが、50年経った今の沖縄には未だ新しい傷がつけられ続けている。沖国大のヘリ墜落が一番新しい傷だ。死傷者は出なかったと米軍は言っているが、現場を見たら絶対にパイロットが無事なはずがない。と疑ってしまうほど悲惨な現場だった。これからも戦争が続く限り、いや沖縄に基地がある限りこういった事件・事故は続き、さらなる犠牲者が出てしまう。そうなる前に何とかして基地を撤去させなければならない。
 5月15日は沖縄の返還の日であるが、返還とは名ばかりの、沖縄の「所有者」がアメリカから日本に変わっただけで、基地の返還はほとんどなされなかったのである。基地が無くならなければ戦後すぐの沖縄と何も変わらない。それ故に沖縄にとって5・15とは重大な日なのである。
今年の5・15で、午前中からお昼にかけては「人間の鎖」に参加し普天間基地を囲んでやった。ただそれだけなのだが、普天間基地はとてつもなくでかく、百人、千人では囲めない。今回の人間の鎖に参加した人は名簿に名前を書いた人だけでも2万3千人もいた。実際は何万人集まったのか見当もつかない。自分から見える範囲は限られていたし、2万という数は全く実感できなかった。普天間基地はちょっとした市町村ぐらいあり、僕の実家がある市を想像してみるととてもじゃないが、囲めそうでない。というかムリだろう。というわけでどれだけスゴイか想像してもらえただろうか?ただ、「人間の鎖」を行ったからといって何が変わるか、そういったわけではない。「人間の鎖」で気持ちを高め、これだけの人が基地は不要だと感じていることを世界に訴え、次につなげるために行うものだと僕は思っている。
県民集会に参加して、僕も偉そうなことは言えないが、最初のあいさつのところで各党の党首レベルの人が話をするのだが、実際に行動している人とそうでない人でとは全然説得力が違った。何だコイツって人と、その通り!っていう人がいる。基地の返還に関しても普天間基地のことは言うのだが、移設後の辺野古のことは全く言わないような人は自分たちのことしか考えてない。と受け止められても文句は言えない。色々な背景・思惑がある中で、自分の意志を貫くのは大変だが貫き通してほしい。僕も見習わなければ。
チビチリガマ(洞窟)は戦争の悲惨さを物語っていた。同じ村の人たちが逃げ込んだもう一方のガマ、シムクガマというのだが、ここに逃げ込んだ人たちは全員生き延び、逆にチビチリガマに逃げ込んだ人たちは集団自決させられ、百数十人の人たちが犠牲になった。当時の教育で、アメリカ人は鬼だ鬼畜だ。男は捕虜になったらすぐさま首をはねられ、殺されてしまい、女は強姦され、殺される。と教えられていた。チビチリガマでは追いつめられ、逃げ場を失ったとき、我が子が捕虜になるぐらいなら自分の手で殺してしまおう。という歪んだ考えで悲惨な事件が起こってしまった。シムクガマではハワイ帰りの、アメリカを知っていた2人の人がガマの中の人たちを説得して捕虜になることを決意させた。おかげで、誰も死ぬことがなく太陽の下に出られた。なぜ、同じ村に住み、同じ教育をされた人たちなのに、こんなにも違った結果となってしまったのだろうか。100人の中にたった2人、その考えは間違っていると堂々と声をあげて叫び、殺されるかもしれないのにアメリカ兵の前に姿を出して説得した人がいたからだ。その当時、日本の教育は間違っている。と叫ぶことは、もしかしたら殺されるかもしれない。その中で、間違っていることを間違いだと言う事はスゴイ。もし、自分がこの人の立場だったら言えるだろう? きっと、言えずにガマの中で自決しあっていただろう。
今、辺野古の海上に普天間の基地が移設され新たに新基地がつくられようとしている。生物の人は結構知っているだろう。辺野古はジュゴン(!)が見られる世界最北端の土地なのだ。おまけに、珊瑚礁はキレイだし、海は透き通っていて、空は高く、のんびり時間が過ぎていく。沖縄は観光地として有名だが、基地としても有名だ。沖縄の人が住める所はほとんど基地であり、山の下なんかは弾薬で埋め尽くされ、弾薬庫となっている。国道は全て基地に通じていて、有事は道路を滑走路にして飛び出すことも想定している。観光に行くのにこれほど危険なところは世界中探しても沖縄だけだろう。島全体が一つの基地になっているのだ。さらに、戦後沖縄は年に2回のペースで大きな事件・事故が起きている。去年は沖国大にヘリが墜落して愕然とした。基地があるということは、それほどまでに危険なのだ。そこで、普天間基地をなくすのは良いが、辺野古に新しい基地をもってくるのはもってのほかである。現地の人たちもどんなに危険かわかっているから、基地をつくらせないように闘っている。おばぁ、おじぃは陸で毎日座り込みを、若い人たちや動けるおばぁ、おじぃは海上に出て阻止行動をしている。基地を建てるには、まず、ボーリング作業をしないといけなくて、そのためにやぐらを海上に60カ所ほど建てると言っているが、まだ4カ所しか建てさせていない。ボーリング作業もさせていない。毎日毎日施設局が来るため、辺野古には休みがない。倒れる人も続出した。しかし、倒れてもやぐらにかじりついてでも闘おうという強い意志で、今もなお戦い続けている。僕が行った時はなかったが、何も作業をさせていないわけだから、施設局の方も限界が来て強制的に作業をやることもある。時にはそれでケガをしたり、本当に死ぬ思いをした人までいる。辺野古の人たちは生活がかかっているため行動するのはわかるが、現地の人たちでない人たちまで闘っている。その人たちは、基地があると自分たちにとって良いことはないと思っている人たちで、自分たちはアメリカに協力して加害者になりたくない。とか、二度と戦争を繰り返したくない。という考えを聞くことが出来た。誰も戦争なんてしたくないし、やりたくないと一言言えば誰も戦争をやらすに済むのではないか。それなのに未だ戦争を続けてしまっている。その現状を僕はどうにかして止めたい。(ロック)

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DVD紹介〜おばあちゃんの家

 ちまたでの韓流ブームにのって、今回は一つ、韓国映画を紹介しましょう。「おばあちゃんの家」という映画です。ミニシアター系の映画としても人気があり、あるレンタルショップでは1位の映画として紹介されています。
 この映画は、言葉をしゃべらず、文字も書けないおばあちゃん(キム・ウルプン)と、都会ソウルからやってきた男の子サンウ(ユ・スンホ)の2人の生活を描いた作品です。母子家庭の親子は、ど田舎の山の村にある、おばあちゃんの家にたどり着きます。テレビも電気もない、そんな小さな家。お母さんは出稼ぎのため、子供を預け、ソウルに戻ります。初めて会うおばあちゃんとはじめての田舎での2人暮らし。友達と交流がなかったのか、周りの家にすむ田舎の子供たちともなかなか仲良くなれず、家から持ってきた電池で動くゲームで日々、遊ぶ男の子。食事も家とは違い、なかなか食べようとしません。そんな、なんでも自分の思いどおりになってきた今までとはまるで正反対の世界、おばあちゃんの家。そこで彼は、おばあちゃんにいたずらを始めます…。
 おばあちゃんの深く豊かな心を最大限スクリーンに映し出され、自分までもがほんわかしてくる、最後にはほほえんでエンディングを迎えられる映画です。男の子も、徐々に心を開いていく姿がとても感動的。02年、韓国で公開されたこの映画は韓国のアカデミー賞にあたる大鐘賞最優秀作品賞、最優秀脚本賞、最優秀企画賞を受賞、海外の数々の映画祭でも上映されて、世界の注目を集めた、そんな作品でもある。
 この映画に出演している、おばあちゃんや男の子は素人同然。特におばあちゃんは映画を見たことさえないという。そんな人たちで、おばあちゃんが実際に住む村で、そこの村人たちも参加して撮られたのがこの映画。監督のイ・ジョンヒャンは、韓国では数少ない女性監督。彼女は脚本も手がけた監督デビュー作「美術館の隣の動物園」(98)で、大鐘賞新人監督賞を始め数々の賞を受賞し、実力を認められている。今回の作品は、2作目だという。
 このおばあちゃんを捜すのにも、なかなか苦労があったらしい。監督は「何となく、そこへ行けば私の理想のおばあちゃんが待っていると思った」といっているが、韓国中部の忠正北道・永同(ヨンドン)の村でキムおばあちゃんに出会ったのだそうだ。作品の出演者が素人でも、彼らの人生そのものを引き出して物語をつくりたかったのだという。
 一度、この感動を味わってみてください。

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