2002年(平成14年)4月27日〜28の遭難の記録(事実を書き残し、自分自身の戒めと教訓にと思う。
2022年1月、20年の時を経て、改めて、皆さまにご心配をご迷惑をおかけしたことをお詫びし、
皆さまのおかげで助かったと、心から感謝申し上げる次第である。

出発前 4月28日の都合が悪く、友人達との山行が無理であった。ということで、27日に単独行を決定。
朝は2時30分に起床。ほとんど寝ていない状況であった。
食卓に「早月川から、早乙女、大熊」と書き置きする。28日は早朝から家に居ることになっているので、いくらなんでも日帰りであることは家族は分かっていると判断し、日程は書かなかった。ただし、その時点ではできれば大日岳へ行こうと思っていた。
装備 単独行ということで、装備はしっかり持っていくことにした。
着替え一式、防寒具、雨具、ツェルト、非常食料(チョコレート大袋1、大福1。朝食は食べてから出発したが、パン2個、おにぎり2個、チョコレート1箱はその日の分として持参)、水1.5リットル、ガス燃料中1個、10本ツメアイゼン、ピッケル、25,000分の1の地図、コンパス、医薬品(外科用、頭痛薬など)、特大ゴミ袋10枚、携帯電話。
ライトは車に忘れてしまった。
その日はかなり寒く、下着は速乾性の新素材の上下(いずれも長)とした。
出発〜頂上 5時01分林道車止め手前に駐車して、出発。出発前後のことはあまり覚えていないのだが、途中でヒトツバカエデの花が咲いており、朝日に映えてきれいだったので写真を撮ろうと日差しを待ってみたが山陰でうまくいかなかったことを不思議とよく覚えている。6時5分コット谷出会い。雪はかなり上に行ってから出てくる。雪は硬い。鞍部手前の急坂を見る頃、アイゼンを装着する。7時15分1500m鞍部。朝食から4時間経っているので軽く食事をとる。アンパン大1個を食べる。水は1リットルはエネルゲン+クエン酸入りなのでカロリーの補給にはなっている。テープ(赤)をザックから取り出してチョッキのポケットに入れておく。7時25分鞍部出発。尾根の合流点を中心にテープをつけながら進む。この時点では視界は誠に良好。
頂上のほんの手前でコンパス紛失に気づく。しばらく尾根を行ったりきたりして探すが見つからない。ちょっと逆上していることが自分でもわかった。
8時40分早乙女と前大日への尾根の分岐につく。8時48分早乙女頂上着。
ここで山の写真をとる。視界は良好。大日の雄姿を見て心がはやったが、コンパスがなくなったのに行くところではない、ガスって絶壁で雪庇を踏み抜いてはひとたまりもないと、自重する(この日の唯一の好判断であった)。
頂上〜前大日頂上〜分岐(ほぼ頂上) かわりに、前大日へ行くことにする。9時出発。9時50分着。ここでパンを一個食べる。かなりガスが出始めてきた、10時出発。10時55分早乙女・前大日分岐着。この時点でもうガスは濃く、真っ白の状態である。しかしまだ不安はほとんどなく、むしろここまで帰ってこれば何とかなるという思いだった。腹がすいておにぎりを一個食べてから下ることにした。
下山へ。 下り始めてすぐ、自分のつけたはずのテープがまったく見つからないほどのガスとなる。自分の足元もよく見えないひどいガスだった。木に近づいてから確認するが見当たらない。尾根が広いので遠くから見つけられないともう無理のようだ。コンパスがないと地図だけあってもどうしようもないのだ。しかしなんとかなるだろうと下ること1時間。不安からだろうか、小走りで降りているので早い。道が良く分からないため心がはやり、普段よりかなり早く降りているのだ。そのうちに、もう走っているようなものであった。700から800mは下っただろうか。ここまで降りると少しは視界がきいてきた。下に変な谷がでてきて、これはだめだと思い、引き返す。この引き返しはつらかったが朝よりは早く登っていると感じる。引き返しながらもテープを探すが、上に戻るとまたガスがひどくなり、結局頂上横の早乙女・前大日分岐まで戻る。途中で家に電話する。「道に迷ったようだ」と連絡。かなり平常心を欠いているのが自分でも分かる。この分岐が2時。しかし上に着いた段階ではここがどこか分からなかった。ここもガスで真っ白なのと逆上して冷静に地図も読めない。しかしテープはすぐ分かる。このテープを頼りにもう一度下る。20分以上下ってまた分からなくなり、また上りなおす。今度は頂上横の分岐だと分かる。もう一度分岐からくだり直すと、今度はかなり自分のつけたテープを確認しながら降りることができた。このころ家に電話する。「道が分かった。しかし確実ではない。もうすぐ谷だから電話は通じなくなる。」旨連絡。しばらくして、自分の足跡を発見。ああ、さっき降りたのと同じ道なのだ!!!頭は真っ白!
しかし、その後途中の分岐の目印のテープを発見。さっきはここで間違えたのだと納得し、安心しさらに下っていく。ガスがまた最悪になってきた。藪がでてきたので、左の谷側に回り込んでからもう一度尾根に戻り、下っていく。(ここでもう一つ上(東)に尾根があったようであり、その尾根にでなければならなかったようだ。西へ向かう尾根にトレース跡があったと後ほど航空隊の人から聞き納得した。)もうすぐ、鞍部のはずなのにおかしいと思いながらもさらに下っていく。これは、思ったよりまだ上の方にいるのかと不思議に思いつつも下っていった。左からの谷に出会う。かなりの急坂を降りて谷に入る。おかしいと思いつつ、もうかなり疲れており、もう上に戻る気力もなくなっていた。また、もう戻っては時間もないので自力で夕方までには着きそうもない。このときおかしなもので「これはまずい。捜索となれば新聞にも出てしまう。何とかしなければ」などと思ってしまい焦っている自分がいた。「このままいけばコット谷に出会うのだろう。ええい!行け!行くんだ!」と谷に沿ってどんどん雪の上を下って行ってしまった。そして、かなり急な崖をくだり、ついには元に戻るのが不可能な谷に降り立ってしまった。
川を下る。そして流される。 始めのうちは雪の上を下っていたのだが、そのうち雪も少なくなって、場所によって徒渉しなければならなくなってくる。雪渓はまだまだあるのだが、うまくその上までいけない場所があるのだ。谷と谷が2度出会ったが、二度目の出会いではかなりの急勾配を下っている。徒渉も始めは浅かったがそのうち腰までの徒渉があり、もう靴の中はびしょびしょで冷たくて足が痛くてならなくなっていた。結局最後の徒渉(4時30分頃)も腰に近い深さで、足の疲れと冷たさで痺れ始めたため、ちょっとの苔に滑った際体勢を立て直すことができず、流されてしまった。流されると一気に首から水が入ってきた。顔も水につかりゴオッと流されていく。しばらくして流れのゆるいところでうまく雪にピッケルを刺すことができてとまることができた。しかし、そこは雪渓の下(中)だった。上に戻ろうにも流れが速すぎて戻ることができない。下は雪渓も深く薄暗く先がどうなっているか分からない。しかし光が見える。雪渓の一部に割れ目があり人1人が何とか通れそうな幅がある。そこを目指して川の中を歩く。そして雪の壁に這い上がろうとした。しかし上がれない。何度も何度も、10回以上は試みたが上がるどころではなかった。足を上に上げようとしてもカッパズボンの中は冷たい水が入ってパンパンに膨れて重くてならないのだ。臍の上ぐらいまでの深さで下半身の感覚がだんだんなくなってくる。「このままでは凍死だ。もう、だめか。」「45年の人生だったか」と思うと小さい頃のこと、小学生、中学生、高校、大学のころ、そして就職、結婚、こどもの誕生とつぎつぎと思い出されてきた。妻と子供に「すまない。もう帰れないかもしれない」ともうあきらめの境地になっていた。しかし妻と子供のことを思うと、もう一度頑張ってみようと思った。水が入って重くなった45Lバックを流すことにした。バックルをはずしてバックを流した。すごい速さで流されていくバックを見ているとさらに恐怖を感じた。カッパズボンを上に引き上げるとスパッツが少し緩みカッパの中の水が流れていく。何とか足が動くかもしれない。しかし、それでもなかなか水からでることはできなかった。やっと何度目かにようやく水から上がり、ピッケルを使って少しずつだが上にあがる。しかし雪の壁はなかなか上に登らせてくれない。左足のアイゼンは外れてしまっていたが、右足のアイゼンがあったおかげで、雪のあいだを斜め上にゆっくりとゆっくりと上がっていくことができた。途中で体が通らないところもあったが、雪の突起をピッケルで削ったり、その間に下に落ちないよう体を支えたりして30分はかかったと思う。何とか雪渓の上に這い上がった。「助かった」とまず思った。本当に雪渓上に上がれたのは偶然であった。
ビバーク 上にでて岸まで四つんばいのまま移動した。しかし、ここからなかなか動けなかった。「死地に入ってしまった。何とかしなければ確実に死ぬ」そう思いながら体をガタガタと震わせて、寒さに何とか耐えていた。この時点がほぼ17時ころだと思う。ビバーク用の品々は全てバックの中だ。何もなくなった。このままではやっぱり凍死してしまう。なんとかしなければと、とにかく着ているものを全部脱いだ。もう寒くてならなかった。衣服、下着(速乾性)の水を絞れるだけ絞り、下着で体を拭いて、もう一度力いっぱい絞ってからまた下着を着た。冷たかった。下はその上から綿のトランクスを穿きカッパズボンを穿いた。上は下着の上にもう一枚着ていたアクリルの長袖シャツを着てカッパを着た。ズボンはもうびしょびしょではくことをあきらめた。上は3枚。下も一応3枚だった。そのまま崖に向かっていき、風を避けながらじっとしていた。だんだん薄暗くなり日没が近いことが分かる。体は相変わらず寒くてならない。しかし、腹が減ってきた。「腹が減ってきたのが分かるようなら、だいぶ元気が出てきたのではないか」と勝手に想像して、希望をもった。「まず食料を確保しなければ」と思うが、ウエストバックには何も食べるものはない。メモと地図と笛と頭痛薬が12錠とガスコンロ(燃料はバックの中だった)が入っているだけである。チョコレートを1箱入れてきたのだが、もう食べてしまっていた。目の前に小さな小さなコゴミゼンマイが数本出ていたので、これをちぎって食べた。うまくなかった。しかし何度も何度も噛んでいると不思議と元気が出てきて動けるようになった。
コゴミゼンマイがまだないかと思って探す。結構あるようだ。このやわらかい部分をとってきて又食べる事にする。さっきの崖に向かって中腰でうつむきながら食べていると、足元に蟻がいた。これをつぶして食べてみると、すっぱいが唾液も出てきて食欲が出てきた。その辺にいる蟻をどんどん集めて、コゴミゼンマイと混ぜて食べることにした。一口百回くらい噛んでから飲み込んだ。ゆっくりとだがかなり元気が出てきた。しかし寒さはいよいよ厳しくなってきた。濡れているので一層厳しく感じた。天気予報では明日の最低気温は10度のはずだと思い出し、ここが1,000mとして4度となる。しかし、雪だらけで川の流れもありさらに下がるだろうと推測した。(実際には富山市で8.0℃。ビバーク場所は雪も横にあることから1℃に限りなく近かったのではないかと推定している。)しかも谷風も吹いており、ぬれた体にはまるで吹雪のようにつらかった。助かるかどうかは賭けのような気がした。
このままではかなりつらい。明朝までに凍死か肺炎になってしまうのではないかと思った。生きていても肺炎になったら動くこともできず、へりが来ても何か振ることもできず、救助の確率が一気に低くなると思った。何とかしなければと周りを見渡すと、杉が何本かはえていたのでこの枝をたくさん集めてくることにした。小さめの枝は体に入れた。下着とカッパズボンの間に、下着とシャツ・パンツの間にできるだけ詰め込んだ。木が崖から横にでていたのでその上に大き目の杉の枝を置く。また川上(風上)側にズボンをつるし、杉の枝を立てて風除けとした。地面にも敷いた。
これで少しは暖かくなった。落ち着くと、頭痛がしているのに気づき、熱が出てくるとやばいと思い、頭痛薬を飲むことにした。1錠飲むと頭痛が治まり体も温かくなってくる感じがした。かつて教養部の授業の雑談ではあったが、教授がほんとかどうか知らないが体が暖かくなるらしいと言っていたのを思い出した。刑務所で冬の寒さに備えて溜め込んでいる囚人がいるとのことであった。また安部穣治の著述を読んだとき本当にそのようにしていたと書いてあり、妙に納得したのも思い出した。(ただしこれには科学的根拠はなさそうである。)一回2錠、1日3回までとなっていたはずなので、6錠を2〜3時間に1錠の見当で飲むことにした(結局5錠飲んだ。)あとは次の夜のためにとっておくことにした。これまで1日に2錠しか飲んだことがないので、自分としては飲みすぎである。しかし、体がおかしくなるほどの量ではないと思い、安部穣治にかけることにした。
夜明けまで、中腰のように屈んで膝を前上がりの地面(杉の枝の上)について足をガタガタ震わせていた。腹を冷やさないように太ももと腹をくっつけて足を抱いていた。時折体勢を入れ替えて、何度も水浸しの靴を脱いで靴下を絞って、足に息を吹きかけて暖かくした。
水が飲みたくてならなかったが、夜の間は川に近づくのが怖くてならなかった。雪のあるところまで降りねばならず、この真夜中にもう一度落ちれば確実に死ぬと思った。しょうがないので、濡れたズボンを口に含んで水を吸った。水を吸うと寒くて体中が震えた。しかし頭の中ではおかしなもので「ATPのため我慢しろ、ATPだ」と呟いていた。
小便がしたくなる。喉が渇いていても出るときはでるのだ。寒さと渇きを凌ぐため、小便を手で掬んで飲んだ。濡れて冷え切った足指にもかけた。汚いなんて思う余裕はなかった。2度の小便は本当にありがたかった。
ときおり、ザザッツと獣が近づく音がする。こんな状態で熊だったらどうしようと思い、来るんじゃないと願いつつ笛を「ぴーっ!」と何度か吹いた。
このまま凍死するのではないか、朝になっても救助に来てくれるかなんか分からない。そう思うとパニックになりそうだった。しかし、妻と子供のことを思い、とにかく『今晩一晩乗り切れば、救助される可能性が高いんだ』と心に何度も何度も言い聞かせた。そして妻と子供の名前を呼びながら、「生きるんだ!生きて帰るんだ!」と心の中で叫んでいた。
ほんとうに長い長い夜だった・・・。
夜明けから まだ暗いのだが、鳥の声が聞こえてきた。もうすぐ朝だ!生きているぞ!と思った。しかし、この時間帯が一番寒かった。体はがたがた震えたままだった。
だんだん白み始め、空の青さが目についた。いい天気だ。寒いはずである。腹が減ってならないが、まずは水だ。川に行ってごくごくと水を飲んだ。冷たいなんてもんじゃない。腹が冷えてしまい、具合が悪くなった。少しずつ飲めばよかったようだ。
しばらくして治ってくると、今度は食料を探し始める。雪が積もりにくい場所では若干だが、タチツボスミレがあった。花が咲いており、これは硬かった。しょうがないのでまたコゴミゼンマイを集め、蟻と一緒に食べることにした。時計がないので時刻は分からないが、夜明けが5時頃だったから、5時30分頃だろうか。辺りを見回してみた。山々がよく見える。どうやらまったく違う谷(千石谷)に入っていることが想像された。この谷まで救助に来てくれるだろうかと不安になった。もう一度山へ戻るか。無理だと思った。昨夜は一睡もしていない上、同じ体勢を長時間とっていたため足が痺れており、腰が定まらない状況では徒渉で失敗するのが目に見えるようだった。もう2度と雪渓の下には入りたくない。腹も減っている。体力も限界に近いと思い、ヘリの救助があることを信じてそれに賭けることにした。
しかし、この沢ではヘリが来ても見つけにくいことこの上ない。右岸の山に登ってみることにした。水を入れるものがないので、重ね履きしていた靴下一組を水に濡らしてウエストバックに入れていった。かなりの急坂だが、木につかまりながら何とか登っていった。途中にカタクリの葉が何故か一枚だけ生えていたので食べた。ヤブカンゾウらしき葉も少しだけあったので食べた。森に入るとリョウブの新芽があったので食べたが、しばらくして吐いてしまった。なかなか生で食べられるものは少なかった。200mほど登っただろうか。ちょっとした崩壊地が見えたので、そこまで行く事にする。途中でヘリの音が遠くで聞こえた。捜索してくれているようだ。ありがたい!かなり強い藪こぎだったが、遠くではあったがヘリの音に励まされてなんとか行くことができた。この藪を早く出てしまわなければ、ヘリが来たって見つけてもらうことは無理だと思い焦って歩いた。
崩壊地を見つけた。これならヘリもホバーリングが可能だろうと思った。その上の若干木々のあるところで着ているもの全部脱いで干すことにした。7時はもう十分に過ぎている。(へりは7時から出動したとあとで聞いた)まだ寒いが陽があたると暖かくなった。靴も脱いで靴下も乾かす。体を焼いて少しでも体を温めようと木の上で陽に当たった。下手をすると、もう一晩ビバークかもしれないので。元気をつけるため、木を登ってくる蟻をつぶして食べたがコゴミゼンマイとまぶすのが一番口にあうようだった。遠くに聞こえるヘリの音を聞きながら、暖かくなってくると眠くなり、木の上(といっても少し崖なので横に伸びている木である)でうとうとと居眠りしてしまった。突然かなりの上空ではあるが頭上をヘリが通過する音が聞こえた。こちらの谷も捜索してくれるようだ。崩壊地に飛び出そうと思ったが、靴を履いておらず飛び出せなかった。もちろん丸裸でもあるがそんなことはどうでもよかった。今度ヘリがきたときに備え、服を着て、靴を履いた。これで崩壊地に飛び出す準備ができた。
救助 しかし、ヘリが来るのを待っているとなかなか来ないものである。かなり時間が経ったように感じたが、それほどでもなかったかもしれない。今度は右上空からヘリがやってくる音がした。低めに飛んでいる。早速、崩壊地に出て待っていると、ほんとうに近くを通ってくれた。帽子を持って両手を振った。力いっぱい振った。ヘリが前の方を通過して行く。と、転回してまたこちらに来てくれた。『怪我はありませんか』と拡声器から声が聞こえる。両手で丸を作って大丈夫だと伝えた。そして、へなへなとその場に大の字になってしまった。これが9時20分頃とのことだった。
山岳警備隊の隊員の方がヘリから降りてくる。うわ言のように「ありがとうございます。ありがとうございます」と何度も何度も言っていた。その方に救助用のシートとでもいうものにくくりつけてもらって、ヘリへ上がって行った。クルクルと体が廻り、ヘリに頭をぶつけるのではないかと思ったが、上の方がちゃんとうまくヘリに引き上げてくれた。また、「ありがとうございます。ありがとうございます」と念仏のように唱えていた。
本当に神様のように思え、ありがたくてならなかった。
上市警察署にて ヘリの中から美しい山並みが見えたが、怖かったので見ないようにしていた。まず上市署の近くの運動公園のグラウンドに着陸し、そこから上市署に向かった。
上市署には、妻、両親のほかにも立山会の人々、上司がみえており、到着と同時に皆「よかった、よかった」と喜んでくれた。大変ご心配とご迷惑をかけたが、皆さんのやさしい思いが心に沁みた。
皆さんにお詫びやら、お礼やらを申し上げ、その後事情聴取となった。終わってから、
「道を失ったときは上に戻ってじっとしていることだ。それが助かるコツなのだよ」と、しみじみとおっしゃられた言葉に本当にそうだったと感じた。頭でセオリーは分かっていてもなかなかそのとおりに行動できなかったのだ。何度も上に戻っても、結局は下ってしまったのだ。
「怪我はないか」と最後にもう一度聞かれ、ないと思ったので、そのように言ったところ、体力の消耗が激しいので、とにかく家で休みなさいと、帰された。皆さんにもう一度お礼とお詫びを申し上げ、立山会の方の車で帰った。皆さんのお気持ちが本当に心にしみた。
自宅に帰る 家に着いて、すぐに風呂に入る。裸になってみて自分でも驚いた。朝は気もつかなかったのに、膝、向こう脛、肘などが真っ赤に腫れている。つめも若干割れている。歯も本当の歯が1本、差し歯が1本、歯茎の中で折れている。手の指は6本もつき指。そして、右足が痺れて足首から下が殆んど動かない状態であった。よくこの状態で、早朝、あの高みに登ったものだ。火事場の馬鹿力の一種だろう。右足と歯がもっともひどいと思った。ヘリに見つけてもらったとたんに腰が抜けたようになったが、実は足が動かなかったためもあったのかと思う。それでも体を温めるのに風呂に入った。腹はへってもすぐに食べると吐くと言われていたが、食べられないのだ。おかゆを本当に少しだけ食べることができた。あれも食べたい、これも食べたいと頭では思うのだが、胃がついてこないのだ。とにかく寝て起きたら、もう足が動かない。筋肉痛まででてきているのだ。考えてみれば、道を失って何度も頂上近くまで登っており、合計では2,600〜2,700m以上は登っていると思うし、下りもかなり下っている。同じ姿勢で震えていたのも効いているはずだ。
ちょうど目がさめた時に、M氏ご夫妻が夕食用にといろいろと折に詰めてもっていらした。これは女房にとってもありがたかったようだ。私は自業自得だが、女房もげっそり、ぐったりで、何もできない状態であった。一晩中心配していたのだろうなと思うと申し訳なかった。若干熱が出てきたが、夜中まで寝て、起きたらもうすっかり熱は下がっており、ストレッチをしてまた寝入った。
後日、上市警察署、航空隊にて 後日、お礼とお詫びに上市警察署と航空隊におもむいた。
救助には夜の10時頃から行っておられたとのことであった。山に何人も入り、尾根筋を中心に名前を呼んでいたのだそうだ。ヘリでの捜索に備えて、一晩中捜索場所を検討されたりと大変だったのだそうだ。改めて心からお礼を申し上げた。署長さんからは、「まだ死んだらあかん、と神さんが言っているのだから、これからいろんなことに頑張って、力いっぱい生きて行くように」と励ましの言葉までいただき、今後人のために何かお役に立ちたいと心から思った。これは本当に偽らざる思いである。
航空隊では、ヘリコプターでの捜索の仕方、救出される方法論を教わった。はじめに遠巻きでヘリでとおり、ヘリが来ているぞと遭難者に知らせ、次に一つずつ谷、尾根を見ていくのだそうだ。このときまでに、森から出て、目立つものを振る準備をしてもらうよう誘導しているのだそうだ。私は、まさにその誘導に従った行動をしていたというわけだった。また、振るものは、雪渓では赤色、緑の中では白色のものが良いとのことであった。
これまでの捜索のエピソードも聞かせていただき、こころからのお礼を申し上げて帰ってきた。
この場でもう一度、県警の皆さんにこころからお礼を申し上げたい。「ありがとうございました。」
それにつけても、多くの方にお迷惑をおかけし、申し訳なかったと思うと同時に、県警の機動力と豊かな経験に感嘆した。
怪我の状況 怪我はやはり、右足と歯がひどかった。他の打ち身やらは1週間で治ってしまったが、右足は腰椎をいためており2ヶ月はかかりそうだ。20日経った時点で日常生活には支障はなくなってはいるが、まだ足首が前には1mmほどしか動かない。完全に戻るのは時間がかかるとのことであった。しかし、ほんの1mmでも動けばしめたものである。下手をすれば4、5年は動かないかもしれないと言われていたのだから。
45歳にしては治りが早いほうだと慰められながらのリハビリである。歯は中で砕けており、まだまだ治療中である。
(平成18年追記:4年以上経ったが右足の痺れはまだまだ治らない。いや、リハビリを怠けているとよけいに悪くなったと感じている。)
(平成19年4月追記:もうすぐ5年経ようとしている、右足の痺れはまだ残っている。)
改めてお詫びとお礼 終わりに、たくさんの皆さんにご迷惑とご心配をおかけしたことを深くお詫び申し上げたい。
また、救助にあたっていただいた県警の皆様、救助の際に来てくださった方々、暖かい励ましのお言葉をいただいた方々、山と花の仲間たちに心からのお礼を言いたい。
「ありがとうございました」
追記:コンパスの帰宅 あれだけ尾根で探したコンパスだったが、4月28日にA&Aさんが見つけてくれた。それをIさんが5月16日に遠いところをわざわざ持ってきてくださった。4月28日もいろいろとお世話になっており、改めて御礼を申し上げた。これさえあればなあ・・・・・と思ったが、そこが既に慢心であったのだと反省する。


何故遭難したか。1年の終りにあたり、改めて振り返ってみた。(平成14年12月記載)

もちろん、コンパスを無くしたことは大きかった。コンパスがあれば違う谷をここまで降りることはありえ
なかったとは思う。しかし、原因はコンパスの喪失、それだけだろうか。
遭難という重大結果の前に、遭難の原因を矮小化しようとしていないか?
川に流され命を落としそうになり、夜の寒さに死にそうになるという重大な結果に至るには、
小さなミスがいくつも連続し、そして大きなミスを呼び込んだのだと思う。
一言で言えば、慢心以外のなにものでもない。

まず、何故一人で行ったか。夜になって急に早乙女岳(本当は大日岳)に行くことを決めている。
かつて条件のいい日に一人で行って、下りで地図を見ることも無く、
そしてもちろん何事も無く帰ってきている。そんな成功体験が、心を緩ませていた。

何故ペナントの数は少なかったのか。初めての山の単独行だったら、テープをたっぷりつける他に、
赤のスプレーで、木や雪に印をつけている。いつもやっているように、力一杯雪を蹴りトレースを
しっかりつけるなどの歩き方をしていたとも思う。やはりこれも気の緩みなのだ。
コンパスと地図さえあれば何とかなるという、何の根拠もない慢心なのだ。

コンパスは何故落とすことになったか。コンパスを何度もチョッキのポケットから出し入れしているうちに、
どこかで落としているのだ。要所要所、地図で場所を確認しながら登るのが私のスタイルなのだが、
慣れてくるうちに、紐で結ぶこともなくなっていた。そんな大切なものを何故と思うが、最近の私は、
気が緩んでいた。この山行の直前の山行でも、地図を落とし、後続の仲間に拾ってもらうという失敗
をしている。そんな失敗になぜ思いを致さなかったのか。

コンパスが無くなったのに、何故登山を続行したか。これも慢心以外何ものでもない。晴れた条件の良い
成功経験がこの山を甘く見る原因となっていることは言うまでも無い。
大日岳へ行かなかったのは当たり前として、前大日に行かねば、まだガスのかかる前に降りることが
できたはずである。

下りでガスにまかれたとき、何故上に留まれなかったか。これはセオリーは頭で分かっていても駄目だ、
ということだ。結局、頭に血が上り、早く帰らねばという思いに負けてしまっている。
もう一人一緒にいたらどうか。きっと、セオリーにしたがって行動していたと思う。
単独行の怖さは、ここにもあると思った。複数人おれば、お互いに相手を気遣い、お互いがセオリーに忠実に行動できる
と思う。あのような急勾配の坂を下ることは無かったと思う。

すべては慢心からきた、小さなミスの連続が、重大な結果を招いたと思う。
今、ここに改めて反省をしたい。


もう一つ。では、何故助かったのか。
それはもちろん救助にあたってくださった県警の皆さん、多くのご心配いただいた方々のおかげである。
この他にあるかと聞かれることもあり、よく考えてみると、それは、新素材の速乾性の下着のおかげかも
しれない。綿の下着であれば、決して乾くことも無く、あの夜の寒さでは体がもたなかったと思う。
そして、「運」である。次の日、晴れていなければヘリは飛ばなかった。夜、雨や雪が降っていたら、
凍え死んでいたと思う。
そして、この運は、心配してくださった皆さんの「思い」のおかげであると思えてならない。
本当にありがとうございました!!!