ますのすしとは
 
 富山の名産みやげとして有名なますのすしとは何でしょう。
 「すし」といえば例えば、「握りすし」「巻すし」「押しずし」「散らしずし」「稲荷ずし」などが思い起こされますが、この「ますのすし」は「押しずし」の仲間に属します。
 この「押しずし」など我々が知っている「すし」は総じて「早やずし」と呼ばれるもので、江戸時代中頃に開発された時間のかからない米の料理方法なのです。
 それ以前はというと、「馴れずし」と呼ばれるものが主流で、米は魚を発酵させる(馴れさせる)ために用いる、魚の保存食用料理だったのです。すなわち、発酵に利用した米は廃棄されるわけです。現在でも、「馴れずし」として名産となっているものもありますね。
 多分、江戸時代のある人が、米に魚肉の旨み成分が浸透し、米自体がおいしいということに気づいたのでしょう。完全に馴れる前の状態で米ごと食することを開発したわけです。
 さて、富山県(越中)では古くから(平安時代)、宮中に鮭ずし(馴れ)が献上されていたことが延喜式に記されています。その後も、鯖や鮎、鱒などが献上されていたことが残っています。
 越中史料第2巻には「鮎の鮓の発明は、実に享保年間(1716〜1736)にあり」とあります。富山藩士吉村新八が作った「鮎ずし」を富山藩主前田利興が将軍吉宗に献上したところ大変褒めたところから、翌年は「鱒すし」を献上。これによって一躍富山のますのすしは有名になったとされます。
 最初の頃は、神通川の舟橋の茶屋等で出されていたようです。舟橋は現在の愛宕町や舟橋地区に渡し場があり、当時の橋は舟を鎖で結び、その上に板を渡していたことからこの名がついたようです。ちなみに、そんな浮き橋なので歩くのはなんとかなるが、牛車などは渡るのが危険だったようです。
 江戸時代後半から明治期にかけては、この舟橋周辺で茶屋の食事として出されていたほか、一般の家庭でも作られるようになっていたようですが、明治45年になって最大手「源」さんによれば、初の「ますのすし弁当」が発売されたそうです。 
 また、千歳さんのHPでは現在のご主人が5代目とか。逆算すれば明治初期くらいから商売を初めていた計算でしょうか。ちなみに商売は川魚料亭としてだったそうで、純粋なますのすし屋ではなかったようです。
 こうしてみると、現在のようなますのすし屋としてのスタイルを確立されたのは、明治の終わり頃からではないでしょうか。一般家庭においても昭和に入るとほとんど作られることはなかったようです。