もうひとつの「こころ」課題1
もう一つの「こころ」 お嬢さんとKと「先生」の人物像をめぐって
○○高校 第二学年国語科 1988・10・20
はじめに
夏目漱石の「こころ」は不思議な作品です。七十年以上前の作品であるのに、いまだに人々の心を惹きつけ続けてます。今年の夏休みにも何人かが感想文を寄せてくれました。1年生の時から再度読み直したことで、深く読んでくれました。
それらから、この小説のテーマの一つであるエゴイズムについての意見を紹介します。
感想から
「金銭や恋愛などに関するエゴというテーマ自体が軽いものではない。・・・金銭的エゴによる行動は黒白をはっきりさせることができる。さて次に、恋愛に関するエゴについてはどうであろうか。・・・恋人を得たいという自我と友情と僕ならどちらを選ぶだろう。わからない、そういう現実に実際引き込まれぬ限りわからない気がする。はじめから全てを見通せる恋などある訳がない。だからこそ、”先生”の取った行動も単純に黒だ白だとはいえまい。」
と主人公の行動に反発しながらも断罪出来ないと考え込む人、
「『先生』は誠実な人間として生きようとしたが失敗した。・・・私には明治の精神というのは、自分の狡さを許さない誠実な心だと思える。」
と、むしろ主人公の自己を見据える視線の誠実さを指摘する人。更には、
「私は人間には利己的な所もあるさと思っている。でもそれは、あきらめているのかも知れない。そう思っていることで、自分の利己心を甘やかしておけるから。」
と自分と重ね合わせ、比較し内省しながらも、そうした自己を認めざるをえないとする人などなど、様々な意見が交錯しました。
「遺書」の受け手
こうした意見から、皆さんが「先生」の残したひたむきな自己探求の産物である遺書を、真剣に受け止めていることが印象に残りました。明治時代に生きた主人公が後の世代のために残した言葉が、少しも古びず、ストレートに我々の胸に届きうるということは、驚くべきことです。
明治以降の時代に生きる我々は、等しく「先生」の遺書の受け取り手なのかもしれません。小説「こころ」の時代を越えた魅力がそこにあります。
課題
三学期の授業では「こころ」をとりあげます。教科書にとりあげられた部分だけでは、小説の理解としては不十分なので、この補習期間から冬休みにかけて、「こころ」全文を読んでおくことを課題とします。
又、遺書という作品の性質上、「先生」にとらわれがちな作品理解を打ち破る方法として、「K」と「お嬢さん」の人物像を表わす部分を本文から拾ってみました。ここに示すプリントの課題を原稿用紙に書いて、冬休み前に提出すること。
「こころ」は書き手の視点が主人公の視点に限定された小説であす。全ての出来事は主人公の眼を通して描かれるため、他の登場人物の行動・心理は間接的に描かれています。こうした限定視点の小説を読むポイントは、他の作中人物の心理をどう捉えるかにあります。生き生きとした小説空間をつかみだしていってほしいと考えます。
第三部 先生の遺書より
◇先生とお嬢さんの出会い
Q 「例の叔父」とはどういう人物か。あらすじを参考にまとめよ。
Q 「先生」はどうして「生花」や「琴」が嫌でなくなったのか。
Q お嬢さんが「子供ではない」とはどういうことか、先生をどう思っていたのか。
◇奥さんとお嬢さんへの疑い
◇お嬢さんの着物を買いにいった日の翌日のエピソ−ド
(下、17〜18)
我々は夜に入って家へ帰りました。その翌日は日曜でしたから、私は終日室の中に閉じ籠っていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調戯われました。いつ妻を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君は非常に美人だといって賞めるのです。私は三人連で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。
18
「私は宅へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし
定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな風にして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時
自分の考えている通りを直截に打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私にはもう
狐疑というさっぱりしない塊りがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと留まりました。そうして話の角度を故意に少し外らしました。
私は肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分重きを置いているらしく見えました。極めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それからお嬢さんより外に子供がないのも、容易に手離したがらない原因になっていました。嫁にやるか、聟を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会を逸したと同様の結果に陥ってしまいました。私は自分について、ついに一言も口を開く事ができませんでした。私は好い加減なところで話を切り上げて、自分の室へ帰ろうとしました。
さっきまで傍にいて、
あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その後姿を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして坐っていました。その戸棚の一尺ばかり開いている隙間から、
お嬢さんは何か引き出して膝の上へ置いて眺めているらしかったのです。私の眼はその隙間の端に、一昨日買った反物を見付け出しました。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
私が何ともいわずに席を立ち掛けると、
奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解らないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然した時、私はなるべく緩くらな方がいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。」
Q 「さだめて迷惑だろう」といった奥さんの意図はどういうことか。
Q 「自分の考えているとおり」とはどんなことか。
Q 「狐疑」とは誰に対するどういう疑いか。
Q 「あんまりだわ」とは何のことか。
Q 背中を向け、私の買ってあげた反物を眺めているお嬢さんは何を考えているのか。
Q ただの下宿人に過ぎない「私」に、奥さんが「どう思うか」と聞くのは何故か。
◇Kの同居
Q Kが同居する前にはどういう状態であったのか、あらすじを参考にまとめよう。
Q Kは「先生」の下宿に同居するのは誰のためだと考えているのか。
Q 奥さんがKの同居を「私のために」反対するのは何故か。また奥さんの苦笑は何を意味するのか。
Q 何故「私」はお嬢さん達に、「なるべくKと話しするように」頼んだのか。
Q Kが「私」を軽蔑するのは何故か。下宿する際の「私」からKへの言葉と考えあわせて説明せよ。
Q お嬢さんと奥さんの「満足」の内容を説明せよ。
◇お嬢さんとKと「先生」の不安
Q お嬢さんが「また笑いだした」理由はなんだろう。
Q お嬢さんが「私」を「変な人」という理由を、これまでの問いを読み返して答えよ。
◇Kとの房総旅行
Q Kの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」というのは、
1「私」のどんな態度に対しての言葉か。
Kを下宿に連れて来る際の「私」の言葉と重ね合わせて考えてみよう。
2また、こうした言葉を放つK自身の考え方はこの時どんなものなのか。
◇房総旅行の後
Q お嬢さんが私を先にしてKを後にしたのは何故か。
Q 今まで「私」の手前慎んでいたKとの会話について「お嬢さんの態度がだんだん平気になって」きたのは私に対してどう思ったからか。
Q 自己の勉学のためには、親との縁を切ることも辞さない、意志堅固なKが、大学を休んだり、早退したりするのは何ゆえにだろうか。
Q 「私」の「どこへ行ってもおもしろくないような心持ち」とはどんな感情か。
Q 「どこへ行ったかあてて」みろと「不真面目に」いうお嬢さんは、「私」のどんな気持ちをつかんでいたのか。
Q Kはこの時「私」の気持ちに気づいていたのだろうか。
Q 「私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません」とすると、お嬢さんの「私」に対する「技巧」はあったのか、なかったのか。
−−−教科書を参照のこと p148〜 p151 l7−−−
◇Kがお嬢さんへの恋を、私に告白した夜。
−−−教科書では省略された部分 p151 l7と8の間−−−
Kの顔が心持ち薄赤くなったのはどうしてか。
襖をはさんで声を掛け合うKと「先生」は互いにどう思っているのか。
<この部分は、授業の際に取り組みます。(資料参照)>
◇Kの自殺の後
「先生」の「私が悪かった」という詫びの言葉について、「先生」はどんな意味で言ったのか。また奥さんはどうとったのか。
◇お嬢さんとの結婚の後
「自分が悪かった」と繰り返す「先生」は何を思っていたのか。
「先生」が建てたKの墓を「立派だ」という妻(お嬢さん)は何を考えているのか。
「Kさんが生きていたら、貴方もそんなにはならなかったでしょう」という妻はKが生きていたらどうだというのか。それに対して「そうかも知れない」と答えた「先生」は何を考えているのか。
「先生」の寂莫とはどんなことか。
自殺する際にKが「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」とはKのどういう状態を表わすか。具体的に述べよ。
「私は妻には何も知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから」という小説末尾の「先生」の言葉について、君はどう考えるか。共感・同情・批判・反論等などの立場を自由に選んで答えよ。