|
生年月日 |
文化10年 |
|
没年月日 |
明治7年12月18日 |
|
記録 |
上野の彰義隊に参じた後新選組に加盟。 野州から会津と転戦し仙台に残留した。 |
|
生年月日 |
天保15年1月1日 |
|
没年月日 |
大正4年9月28日 |
|
記録 |
|
|
没年月日 |
慶応3年6月14日 |
|
記録 |
新選組入隊は元治元年年10月15日頃。 慶応3年6月10日に幕府の召し抱えに反対し 京都守護職屋敷で大石鍬二郎に腹を刺されるが 必死の抜き打ちで大石に手傷を負わせた。 |
|
生年月日 |
弘化2年 |
|
没年月日 |
慶応4年9月1日 |
|
記録 |
新選組の入隊は慶応元年4月27日土方、伊東 らが帰府のとき。 伊東ら御陵衛士の新選組分離後伊東らと合して 名も佐原太郎利秀と改称 死刑説や殺害説などがある |
|
生年月日 |
文政11年10月10日 |
|
没年月日 |
明治44年6月13日 |
|
記録 |
江戸赤羽藩邸に入りその後伊東甲子太郎らと 新選組に加盟。近藤勇の広島出張に2度随行。 伊東とともに御陵衛士となって隊を分離。 後に近藤を狙撃、赤報隊に参じていた。 |
|
没年月日 |
慶応2年6月23日 |
|
記録 |
新選組加盟は元治元年10月15日伊東甲子太郎 らと一緒である。脱走によって切腹。 |
|
記録 |
慶応3年6月10日幕府の召し抱えで平隊士に名を 連ねている。横倉甚五郎の記録に「柴山徳三郎江戸 にて脱走」と記してある |
|
生年月日 |
文政11年1月5日 |
|
没年月日 |
明治33年3月20日 |
|
記録 |
心形刀流坪内主馬の門人。大垣藩島田歳に望まれて 島田姓を継いだ。 新選組加盟で探索方として池田屋騒動に活躍。 慶応3年6月10日幕府の召し抱えとして平隊士 として名を連ねる。 三条制札事件、油小路の血闘や鳥羽伏見の戦いから 甲州勝沼の戦いに参戦。 宇都宮の戦い後、負傷の土方に付き添い会津、函館 へと渡る。弁天台場で降伏し名古屋預かりとなった 後、釈放され後に京都西本願寺の守衛として働いた 「島田魁日記」「新選組英名録」「京都ヨリ会津 迄人数」等の遺品を残す。 京都浄福寺の長円寺に埋葬。 |
|
生年月日 |
天保8年7月15日 |
|
没年月日 |
大正8年7月11日 |
|
記録 |
伊東甲子太郎の実弟。 兄とともに新選組を離脱。 その後赤報隊に入り偽官軍事件に連座するも 難を逃れ維新後は酒田警察署長を歴任。 |
|
没年月日 |
文久3年9月18日 |
|
記録 |
清河八郎らとの上洛時、3番小頭となり 土方、近藤らを率いた。清河が帰府と決した時 芹沢は水戸一派と近藤一門とともに京都に残留 した。 大阪力士と乱闘、熊川熊次郎を殺害 大和屋を焼き打ちなど様々な事件がある。 土方、沖田により殺害される。 壬生寺埋葬される。 |
|
生年月日 |
天保14年 |
|
記録 |
京都新選組の最後の新入隊士。 近藤勇が板橋に連行された時土方に随行して 勝海舟を訪ねた。そして松涛権之丞差出しの 封書を近藤に届けて捕らえられ近藤に付き添 っていた野村利三郎とともに釈放。 明治2年3月25日南部宮古湾海戦に参戦。 以後は函館市中の警備役として弁天台場に入り 新選組頭取に任ぜられた。五稜郭の開城後は 榎本らの大幹部扱いとなり新選組同士とは別 扱いで東京送りとなり坂本竜馬殺害の取調べを うけ新島流刑になった。 |