Vol.1『チャップリンの魅力』
彼の映画はなぜここまで人を引きつけるのだろうかと、たまに考えたことがあった。Gurasanが第一に思ったことは、彼は大衆の気持ちというものを、とてもよく理解しているのだ。大衆がどうすれば喜ぶのかということを、彼は知り尽くしているような気がする。大衆というものはいつの時代になっても、権力に縛り付けられ、そして権力というものに反対意識を持っているものだと僕は思っている。反対意識を持っていながらも、それを相手にぶつけることができない、そしてそれはストレスとなり、心が満たされないまま不満な日々を送ることになる。だがそのストレスを、その不満を吹っ飛ばしてくれるのが、映画というものである。そのお手本がチャップリンの映画だとGurasanは思っている。
不満の原因とは人それぞれに、いろいろあると思うが、そのひとつに先程述べたように、権力というものがあると思う。その権力による不満を忘れさせてくれる要素が、チャップリンの映画の中にはたくさんある。よくあるのは、警官をつかったものがある。『キッド』などを見てもわかるように、チャップリンの映画には警官がよく出てくる(まぁ、他のサイレント映画にも警官はよく出てくるが・・・)。チャップリンの映画に出てくる警官はいつも雰囲気が悪い。いつも警棒を目の前でちらつかせ、ちょっとでも妙な行動をしたら、すぐにブチそうな連中ばかりだ。つまりこれは、暴力をつかった権力である。チャップリン扮する放浪者は、その暴力をつかった権力にどう対処するかというと、相手の尻を蹴り飛ばすわけだ。これは警官の暴力とは違い、滑稽さがある、そして何と言っても相手をとても馬鹿にした行為である。警官ばかりでなく、金持ちや政治家が持つ権力に対しても、彼は同じように対処してくれる。本当は奴らのを尻を蹴り飛ばしてやりたいが、そんなことはとてもできるわけがない、大衆は皆そう思ってると思う。しかしチャップリンの放浪者はそれを見事にやってくれるのである。これが気持ちよくないわけがないではないか。本当に最高の気分であろう。
しかしながら、チャップリンは映画が売れてからは大金持ちだった。でも彼は金持ちを皮肉る作品をいくつも生み出している。やはりこれは、彼の少年時代の貧しい生活から生み出されたものだろう。貧しい大衆の生活を知っている彼だからこそ、このような作品が作れたに違いない。
現代の映画はどうも観点がはずれていると思う。チャップリンの映画のような権力の尻を蹴り飛ばすような作品が、今のこういう時代にこそ必要なのではないだろうか。