桜ヶ丘中央病院前。
また偲の様子がおかしい。
知り合いらしい比良坂という少女に自分の兄だという男を紹介された辺りから、表情を歪め苦しみだした。
偲は仲睦まじい兄妹の姿を嬉しく思うのに、自身の中から湧き出る血塗られた悲しい心象を打ち消す事が出来なかった。
浮かび上がる不吉な映像を抑えようとすればするほど、頭痛が増していく。
警鐘が鳴る。
違うと、これは嘘だと。
一方でこの優しい世界を壊したくない。壊してはいけないと声がする。
息が詰まる。
立っていられなくなり身体が傾ぐと、暖かい腕が支えてくれた。
「大丈夫かよ?偲」
何時の間にか名前で呼んでくれるようになった京一。親しくなれた証だと言うのに『偲』と呼ばれる度に自分ではない誰かを呼んでいるように感じる。
確かに自分の名前だと言うのに。
返事を忘れているうちに身体がふわりと浮いた。
「え、と紗夜ちゃん。
悪ィ。こいつ調子良くないみてえだから失礼するわ」
「あ…はい。緋勇さん、お大事に。
それじゃあ…」
気付けば京一にお姫様抱っこをされていた。
「緋勇サン。無理しちゃダメだよ」
「本当だぞ。俺たちがいるんだから何かあったら遠慮せずに教えてくれ」
「そうよ。緋勇さん。
具合が悪かったら我慢しないでね」
いつもいつも優しく労わってくれる友達たちに囲まれ、喋れない不自由さえ感じた事がない。それなのに淋しくなるのは何故だろう。
「辛いんだったら寝ちまってもいいぜ」
「そうしたら、緋勇サン。
まだ、顔色良くないし」
「心配しなくても、皆で家まで送るぞ」
「そうね。もし良かったら私と小蒔はお家で看病させてね」
心の奥底に沈む不安を手繰ろうとしても、次々と差し伸べられる優しい手に阻まれて探ることは叶わなかった。
「あ…。緋勇さん。
こんにちは。
……あの…わたし、どうしてももう一度会いたくて。
少し…、わたしと話をしてもらえませんか?」
珍しく偲が一人で帰ることになった放課後、門の前で紗夜が待っていた。
どこかで自分に会ったことがあると言った少女。
何故か偲も同じ思いを抱いていた。
誘われるままに連れ立って歩く。
水族館から公園へ。
まるで一度経験した事をトレースしている様な不自然な感覚。
この少女に会う度に見覚えのある、でも記憶にない情景が浮かび上がる。
「緋勇さん…。
ひとつ聞いていいですか…。
緋勇さんは、奇跡って信じますか?」
問われて偲は頷いた。
紗夜も頷く。
「…わたしも、信じています。
きっと、奇跡はあるって…。
いったい、何が奇跡と呼べるのかわかりません。
でも…、わたしは信じています。
奇跡を…」
同じ想い。
なのに、違うと感じる。
紗夜はそう言わなかった。だからそう想ってくれるのが嬉しい。
在りえない世界であろうとも壊したくない。自分はどうなろうとも。
どうして自分はこんな事を想うのだろう。
同じ絵でカットの違う二つジグソーパズル並べ、ピースを互い違いに枠にはめたみたいにつじつまが合わない出来事。よく似ているけれど、かみ合わない。
そして相反する想い。
探ろうとすると酷い頭痛が偲を襲う。
偲の異変に気付かず紗夜が微笑む。
「ねェ、緋勇さん。
わたしね…、夢があるんです…。
えへへッ、
笑わないでくださいね。
それはね…、」
偲には、紗夜の夢が何であるか判っていた。
看護婦さんになる事―――。
その通りの言葉が紗夜の唇から紡がれる。
水飲み場で嬉しげに水を飲む紗夜。
幼い頃事故にあった事、どうして看護婦を夢見るのか語られる。
同じ場面を知っている。
「人は、みんな何かを得るために、何かを失いながら生きている。
現在の生活を護るために―――。
愛する人を護るために―――。
どうして、人は、失ってしまうのかしら。
大切な記憶さえも―――」
自分は何を失った?
何を―――否、誰を?
激痛が増す。
「緋勇さんッ!!」
紗夜の声に世界が砕け散る。
自分がいるのは死蝋影司の地下実験室。
紗夜と死蝋がいる。
「止めてッ!!
止めて…兄さん」
この間会った英司と同じ姿でありながら狂気を瞳に宿す男。
妹を想うあまり禁忌に手を染めた科学者。
「…お前も、僕を裏切るのか?
薄汚い人間たち同じように…
強欲で身勝手な人間たちと同じように…」
妹の声すら届かなくなるほど、闇に囚われてしまった兄。
このままではいけない。
このままでは紗夜も英司も失ってしまう。
先に待っているのは哀しくて悲しい結末。
そうだ。
自分は知っている。二人はいない。この後、共に喪われてしまうのだ。
出来るのであれば何とかしたい。
出来なくとも何とかしなければ。
想いとは裏腹に偲の身体は呪縛されたように動かなかった
「紗夜は僕を裏切ったりしない。
僕が愚かだったんだ」
突然、白衣に身を包んだ男がもう一人現れた…。
「どうしたんだい?緋勇龍麻君。
君は僕の理想には賛同してくれなかったくせに、こんな茶番には付き合うのかい?」
呪縛が解ける。そう自分は龍麻だ、偲ではない。
偲も自分の名ではあるが、それを知る者は、この場にははいない。 今、その名で呼ばれるはずはない。
自分を取り戻した龍麻が新たに登場した死蝋を見る。
同じ姿、同じ声の人物。
始めからいた死蝋と何ら変わる所はない。でも、同じではない。
「それからそこの偽者。
とっとと消えたまえ。迷惑だよ。
これ以上紗夜を悲しませるようなことはしないで貰おうか」
淡々と話を続ける。
二人目の死蝋は、英司だ。
紗夜を見る瞳が優しい。龍麻も兄からいつも向けられていた慈しみの眼差し。
ここにいるのは死蝋影司ではなく、紗夜の兄たる比良坂英司だ。
「腐童…、こいつらを殺せッ」
新たに現れた自分に動揺した死蝋が声を張り上がる。
緑色の腐肉の巨体が死蝋の命令で龍麻と英司を襲う。
腐童が最初に狙いを定めた龍麻に迫る。
「危ない、緋勇さんッ」
紗夜が飛び出す。
今の自分が力の無い只の娘であることなどかまわなかった。
紗夜を護る為、無我夢中で技を放つ。
迸る金の奔流―――秘拳・黄龍。
「うおぉぉぉ―――ッ」
腐童の身体があっけなく散っていく。
奥に立っていた偽の死蝋の身体も煽りを受けて崩れ始める。
「ば…ばかな…。
これ程の《力》とは…。
さすがは、《器》の資格を持つ者よ」
崩れると同時に声が変わる。もう、死蝋のモノでも英司のモノでもない禍々しい響き。
『偽りとは言え貴様等の願いを元に作り上げた世界を否定し、壊すの か。
緋勇龍麻よ。
仲間が望みし、貴様が戦わずに済む世界を。
何より貴様が願ったその兄妹の幸せに在る世界を』
龍麻が怯む。
確かに自分は願った。悲しい結末を迎えた兄と妹の幸福を。
手遅れで叶わないと知りながら。
その想いを捨てる事は出来なかった。
此処には、それが在る。
壊したくない、壊せない。
凶星の罠が龍麻を絡め取る。
その時、朗々と言葉のない旋律が紗夜の口から木霊した。
龍麻を呑み込もうとした闇を紗夜の歌が祓う。
暗い夜を照らす月光の如き声が閉ざされた世界を啓く。
『ふっふっふ・・・』
あと僅かで龍麻を封じられるところを邪魔されたと言うのに、平然と嗤う。此処で龍麻を封じる気はなかったとでも言うように。
『待っているぞ。
貴様が帰って来るのを。
その時こそ、雌雄を決しようぞ―――。
あーはははははッ!!』
嗤笑を残し、虚構の姿と赤い凶星の齎す陰気も消え去った。
「龍麻さん。ありがとう」
全て決着がついてしまった。
この世界は壊れてしまった。もう、無くなってしまう。
今さら、紗夜を護ったって何にもならなかった。
責められこそすれ、感謝される事などしていない。
紗夜の笑顔が龍麻の胸に刺さる。
「……。
自分がいた世界へ…戻るのね」
此処が壊れてしまえば、自分は元の世界に帰れるのだろう。
元の世界―――紗夜のいない世界へ
今、目の前にいる紗夜を置いて。
自分はなんて情けない人間だんだろう。力及ばず護れなかった―――喪ってしまった人の幸せを願い。そして、それを壊したのも自分なのだ。
そのくせ元の世界の皆に会いたいと思っている弱い自分。
無責任で我侭でなんて自分勝手なんだろう。
許されるとも許されたいとも思わないのに、唇が動いた。
「ご…、ご…め」
声が出た。
「がんばって…。
たくさんの人が、あなたの《力》を必要としている」
龍麻の謝罪を紗夜が遮った。
「龍麻さん―――、これ持っていて」
差し出されたのは、綺麗な鏡。
「これも持って行くといい」
英司から渡されたのは、銀色のロケット。
「兄さん…」
紗夜の頬を英司が優しく撫ぜる。
「僕は心配だ。
くれぐれも道を踏み外さないでおくれ。
龍麻君はお前の王子様にはならないみたいだからね」
この台詞に紗夜が龍麻を振り返る。
セーラー服姿の龍麻。
「龍麻さん。
わたしに本当の王子様が現れたら、協力してね」
「え?う、うん。もちろん」
何度も頷く。
紗夜は自分を慕っていてくれたのだった。正体を知らずに。
そのつもりはなくとも騙してしまったのだ。
思い当たれば、何とも申し訳ない。出来るのであれば、どんな事だって協力してあげたい。
だけど…。
「わたし、気付いたの。
わたしにも―――、あなたのために使える《力》があるんだ…って。
龍麻さんの進む道が、つらく苦しい闇の道でもわたしが、照らしてあげる」
空間が収束しはじめたのだろうか、視界が狭まり暗くなってくる。
「きっと、照らしてあげるから…」
紗夜達の姿が翳む。
「きっと―――」
足掻こうとしても迫る闇に呑まれ、龍麻の意識は遠のいていった。
「龍麻さん…」
声がする。
「龍麻さん―――」
誰かが自分を呼んでいる。
ゆっくりと目を開ける。
「よかった…。目が覚めたのね?」
桜ヶ丘だろう。見覚えのある部屋だ。
紗夜が看病してくれていたのだろうか。
…紗夜が?
「3日も眠ったままだったから、すごく、心配した…。
六道さんは、まだ目を覚まさないわ…。
でも、良かった…。龍麻さんが無事で。
体調はどう?」
おかしい?
判然としない。
何で紗夜がいるのだろう。
いや、何故紗夜がいることに疑問を感じるのか。いて当然ではないか。仲間なのだから。
「どうしたの?ヘンな顔して…。
まるで・・・幽霊にでも会ったみたい。
ヘンな龍麻さん」
幽霊?とんでもない。
目の前に紗夜がいてくれるのが嬉しいのに。
龍麻がぼうっとしているのを身体が本調子じゃないせいだと取った紗夜が席を立つ。
「それじゃ、わたし行くね。まだ、ゆっくり休んでて」
ドアの前で龍麻を振り返る。
「じゃ、またね」
ドアが閉まると、龍麻は眠りに引き込まれていった。
幸せな想いを抱いて。
どうして、そんなに嬉しいのか考えもせず。
紗夜はまだ龍麻の部屋の前にいた。
黄泉返り、只一人全てを知る少女は呟いた。
「龍麻さん…。
ありがとう…」
ありがとう
届かなかった手を―――すれ違った想いを繋げてくれて
ありがとう
奇跡を―――僕の願いを叶えてくれて
ありがとう
【end】