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ある不良外国人に捧げる「時の娘」①

 実際、それは某財務官僚ならずとも「それはいくらなんでも」と言いたくなるような代物でして(え、何のこと? とお思いの方はぜひ「『横浜新報もしほ草』第18篇の謎」をお読み下さい)。ここは論より証拠、杉山栄が『三代言論人集』所収の岸田吟香の評伝でユージン・ミラー・ヴァン・リードについて描き出すところを紹介するなら、まずは「この商人に関する研究は概ねなお不充分で、暗翳に鎖された面が多く、謂わば『伏せられたるカード』」であるとして、その出身や浜田彦蔵との関係、そして「予てから東洋で一稼ぎする希望を持って」いたというヴァン・リードが来日して本覚寺のアメリカ領事館で書記官として働き始めたことを記した上で――

 然し、ヴァン・リードは間もなく領事館を辞し、爾来、民間の商人として、専ら外米の輸入、汽船売買の仲介、諸藩への武器の売り込み、京浜間の航海事業、日本商品のハワイ輸送、日本移民の斡旋等に関係し、時には危い綱渡りもし、時にはまた濡れ手で栗をも掴み取った模様である。なかんずく、幕末の戦乱時には、政府、幕府、諸藩が競うて武器を購入したので、武器のブローカー業は随分と儲かったらしく、オランダ人エドワード・スネルの如きは、英・独・仏・伊人などと時に応じて仮称し、新潟港を根拠に東北諸藩に多量の武器を売りつけて、巨利を掴むと同時に、東北諸藩が官軍に抗戦するのを助けて、後で問題を起こしたが、ヴァン・リードはスネルほど露骨ではなかったけれども、金儲けのために日陰道を歩くことを躊躇しなかった

 ね、すごいでしょ? このもう少しあとには「かように暗い裏街を歩き続けたヴァン・リード」なんて表現まで飛び出すんだけど、おいおい、W・R・バーネットかよ⁉ 著者の杉山栄は戦前は岡山の山陽新報で編集局長を務め、その山陽新報が政府の新聞統制によって他紙と合併し合同新聞となるとその副社長に就任。しかし政府の新聞統制に協力したことで公職追放となるなど、戦後は新聞界から身を引き、永らく日本大学で社会学を講義。この原稿を書いた頃は故郷の美作女子短期大学で教鞭を執っていたらしいんだけど、実はその傍ら変名で『マンハント』に寄稿していた――としてもワタシは少しも驚かない(笑)。ともあれ、こんなギャング小説のヒール然としたイメージを被せられるほどにはユージン・ミラー・ヴァン・リードの「不良外国人」という評価は徹底的なものとなっている。しかし、それが本当にこのアメリカ人の素顔かというと……。

 そもそもワタシがこの人物に興味を持ったきっかけは、「東武皇帝」即位説をめぐるペーパー・ディテクティヴの過程で、この人物こそは奥羽越列藩同盟とアメリカ公使館の間で情報を仲介していたgo-betweenではないかと考えたこと。実際、ヴァン・リードは奥羽越列藩同盟が起草した「奥羽越列藩軍務総督等謹告」の配布に協力している。また一時期、星恂太郎(仙台の洋式軍隊「額兵隊」の隊長)を寄宿させていたことも知られている。そういう疑いを持つ客観的状況は揃っていたと言っていいと思うのだけど、ただ結論から言えばこのワタシの見方は完全なハズレ。奥羽越列藩同盟とアメリカ公使館の間で情報を仲介していたのは……、ま、そこは『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』を読んでいただくこととして、しかし一度はヴァン・リードこそは奥羽越列藩同盟とアメリカ公使館をつなぐキーパーソンと睨んだワタシはその素性を洗うことに全力を傾注。その結果、浮かび上がってきたのは1人の愛すべきアメリカ人青年の姿。その軽快なフットワークに魅せられたワタシは密かに「青い目の坂本龍馬」と呼んでいるくらいなのだけど(2人は和暦で言うならばともに天保6年生れのタメ)、しかしそうしたワタシの思いとは裏腹にこれほど評判の悪い外国人も珍しい。杉山栄のヴァン・リード評は「それはいくらなんでも」の類いとしても、明治文化研究の第一人者・石井研堂も1944年刊行の『明治事物起原』で「不埒を敢てせる『彼是屋』なりしが如し」。

 その一方でこの人物に対して少しばかり異なった視線を注ぐ向きもある。仙台生れの郷土史家で仙台郷土史研究会副会長などを務めた逸見英夫は「仙台とヴァンリード」(『明治仙台人物誌』所収)で仙台藩とヴァン・リードの関係を縷々綴った上で「仙台藩の敗戦で、ウェンリードと仙台の関係、ウェンリードのことなどは、史料的に抹殺されてしまった」。ここには戊辰戦争の「負け組」である仙台藩に与したがゆえにヴァン・リードの姿は正当に後世に伝えられることがなかったという無念が滲む。確かにヴァン・リードに限らず、戊辰戦争中、「賊軍」に与したものたちは「官軍/賊軍」史観が幅を利かすこの国の近代史に不当に歪められた姿で記載されてきた。あの新選組も永らくただの白色テロ集団のように描かれてきた。ユージン・ミラー・ヴァン・リードが札付きの「不良外国人」だったように語られているのも、つまりはその類いではないのか? というのが逸見英夫氏(やワタシのようなもの)の見方なのだけれど……。

 ただ、ここに一つ皮肉な事実(あるいは、ヴァン・リードに思いを寄せるものからするならば〝不都合な真実〟)がある。実はユージン・ミラー・ヴァン・リードが札付きの「不良外国人」として日本近代史に名を残すにあたって決定的な役割を果したのが当の「賊軍」である仙台藩出身の人物であったこと。その人物が生前、ことあるごとに語って聞かせたあるエピソードがユージン・ミラー・ヴァン・リードの「不良外国人」というイメージを決定的なものにしたのは間違いのない事実。その人物とは――高橋是清。かの「だるま宰相」。

 嘉永7年、幕府御用絵師・川村庄右衛門の子として生まれた幼名・和喜次は生後まもなく仙台藩の足軽・高橋覚治の養子になる。そして元治元年以来、横浜に出て英学修業に励み、慶応3年には藩の留学生としてアメリカに渡ることになるのだけれど、この際、ヴァン・リードにひとかどならぬ世話になっている。ここは1930年刊行の『是清翁一代記』をテキストにその経緯を要約するなら――慶応3年、仙台藩は勝海舟の子・小鹿がアメリカ留学するのに合わせ、横浜で英学修業中だった子供たちを同行させることを決める。当然、和喜次少年も選ばれるかと思いきや、「ならず者」に交じって博打を打つなどの素行を咎められ、選抜メンバーから外されてしまう。当然、和喜次少年としては面白くない。何が何でも自分も外国に行くと決め、イギリスの捕鯨船の船長にかけあってボーイとして雇ってらうことにした。つまりは密出国ということになる。見上げた根性という気もするのだけど、しかしいかにも無謀。そんな彼に手を差し伸べた人物がいる。それが星恂太郎。ちょうどこの頃はヴァン・リードの商館で働きながらイギリス駐留軍に就いて兵学修業中だった。この星恂太郎が高橋和喜次の話を聞きつけて藩の偉いさんにかけ合ってくれた。それが功を奏して何とか和喜次少年は留学メンバーに選ばれる。しかしまだ幼いので(この時、14歳)向こうで世話をしてくれる人物が必要であると。すると星恂太郎は今度はヴァン・リードにかけあってくれた。それに対しヴァン・リードは自分は日本に来ているし、弟もワシントンにいるので、サンフランシスコにいる両親は淋しがっている、だから日本から少年が行けば喜んで世話してくれるはずだと、そういう話になった。これには藩の偉いさんも大喜び。そこでアメリカではヴァン・リードの両親の世話になることにして、どうにかこれで高橋和喜次のアメリカ留学の手筈が整った――と、こういう次第。

 これだけを見ればヴァン・リードは高橋是清の穏便なかたちでのアメリカ留学を実現してくれた恩人ということになるはず。おそらくは本人も大いに感謝したはず――この時点では。しかし、それからがいけなかった。なんと和喜次少年は喜んで世話してくれるはずだったヴァン・リードの父(「明治元年の亡命者」で紹介したデイリー・モーニング・クロニクルの記事に「永らく彼の地で暮らす江戸のアメリカ領事の父」として登場する人物)により「奴隷の境遇」を強いられたというのだ。ここは1912年刊行の『立身の径路』より引けば――

 然るに予等が第二の里親とも思って居た此の老夫婦は、實に人面を冠りたる獸類であつたのである。予等が此の家に到るや事々物々悉く予期に違ひ、學校に通學することは愚か、家に在つて勉強することすら許されぬ。朝から晩まで、室内や庭園の掃除や、或いは買物及び炊事の手傳いなどをさせられて、酷使せられ、其食事と云へば、麺麭二片と葡萄數粒とを給せらるゝのみであつた。加ふるに其の晝食の折には必ず屋外に於て犬と共に食事をさせられたのである、何んたる無法の待遇であらう。宛ら狐につまゝれし如しとでも云はうか、故國を出る時には此那筈ではなかつた。然も大藩の留學生として、渡米したのであるが、計らずも斯かる鬼夫婦の虜となり、藩より送附し來たるべき筈の學費は、何うなつたものか、更に分からず、今や宛ら奴隸の境遇に陷り苦慘を嘗めねばならぬのである。

 いやー、ヒドイ。しかもまだこの時点では「宛ら奴隸の境遇」と、「奴隷」は比喩の限りでしかなかったのだけど、このあと和喜次少年は「鬼夫婦」によって「オークランドの富豪ブラウンの家」に売り飛ばされることになる。その身分は「宛ら奴隸」ではなく、文字通りの「奴隷」。曰く「主人に予は三箇年間奴隷として売られて来た事を告げられた」――。語っているのが当人であり、しかも仙台藩出身とあっては「官軍/賊軍」史観によるデフォルメも入り込む余地がない。正真正銘、高橋是清はヴァン・リードによって(あるいはヴァン・リードの父によって)奴隷として売り飛ばされた……。

 ただ、一つ腑に落ちない点がある。実は高橋是清は『立身の径路』では繰り返し「奴隸」の2文字を使っているのだけれど、その18年後に刊行された『是清翁一代記』では「奴隷」という言葉は使っていないのだ。「主人に予は三箇年間奴隷として売られて来た事を告げられた」という下りも「お前の身體は、三年間は金を出して買つてあるのだ」という表現にトーンダウン。それどころか――

 さうかうしてゐる内に、ワシントンにゐたブラウンの父親ジョン・ロース・ブラウンといつたのが、新たに支那駐在の公使をいひつかつて、支那に行く事になつたのでワシントンから大勢の家族や召使を連れて、オークランドの邸へ歸つて來た。その中には七歳から十一二歳位の子供も二三人ゐた。女中達が歸つて來たので、部屋やランプの掃除はその方でするし、牛や馬は賣つて仕舞つたのかゐなくなつたので、我輩の仕事は丸で暇になつた。何しろ、我輩もまだ數へ歳の十五位であつたから、いつの間にか、その子供等と仲良しになつて、その後約二ヶ月ばかりの間といふものは、毎日々々この子供らと遊んで、眞に愉快なる月日を送つた

 一体どこの世界に奉公先の子どもと遊んで暮らす「奴隷」がいるというのか。そもそも高橋是清が留学していた1867年当時、既にアメリカでは奴隷は禁止されていた(奴隷制の廃止を謳った合衆国憲法修正第13条が施行されたのは1865年)。また『是清翁一代記』によれば和喜次少年はブラウン家に雇用されるにあたって契約書にサインしており、このことから彼の身分は日本で言う「年季奉公人」に相当するindentured servantだったと見なすべき。このindentured servant(あるいはその雇用形態を指してindentured servitude)は合衆国憲法修正第13条が施行されて以降も合法だった。奴隷の導入に先立って労働力確保の目的で行われていたのがこのindentured servitudeであり、起源は17世紀に遡るという。そして奴隷制の導入に伴い18世紀には一旦すたれるものの、19世紀に再び盛んになっており、それは奴隷解放に伴う労働力不足を埋め合わせるためだったとされる。そういう意味では奴隷に類似した存在とは言える。しかしあくまでも契約に基づく以上、奴隷とは決定的に異なる。この点はうやむやにはできない。

 いずれにしても高橋是清は自らアメリカでの暮らしが「眞に愉快」なものだったと語っており、この事実からもとても彼がアメリカで「奴隷の境遇」を強いられていたとは認められず、畢竟、「斯くも欺いて聞くだに忌々しき奴隸に賣り飛ばさんとは、故國の人々が知つたら、さぞや驚くであらう」(『立身の径路』)――との糾弾も、いささか「話を盛りすぎ」との思いを禁じえない。もしかしたら自分自身でもそういう思いがあったから『是清翁一代記』では「奴隷」という言葉を使うことを慎重に避けたのかもしれない(ただし編集者が付けたと思われる小見出しでは「賣られた身體」「奴隷の契約を破棄」と相変わらず『立身の径路』の記載に従ったようなセンセーショナルな文字が踊っている。当人のせっかくの慎重姿勢も台無し?)。

 ただ――その身分が「奴隷」だったか「奉公人」だったかに関わりなく、当人が自らの境遇に不満を持っていたのは確か。だからこそ和喜次少年は留学を早々に切り上げて明治元年12月には日本に帰ってきてしまう。そして実はユージン・ミラー・ヴァン・リードに着せられた「不良外国人」という汚名を本当の意味で決定的なものとしたのは、この和喜次少年に帰国を決断させたある出来事――と、ワタシの解釈ではそういうことになる。おそらく(これはあくまでも「おそらく」なんだけど)この出来事がなければ後世、高橋是清がことあるごとに「自分は若い頃、奴隷に売られた」と語って聞かせることもなかったのでは?

 さて、その出来事なんだけど、これもやはり『是清翁一代記』の記載に従うなら――ある時、時期についてははっきりとは記されていないんだけど、おそらくは前後の記載から判断して1868年10月頃の出来事として――

 この時、丁度越前の醫者某といふのが、維新の騷ぎに、色々の品物を二束三文に買倒して、それをアメリカに持って來て一儲けしようとかゝつた。その通瓣として來たのが城山靜一といふ宇和島の藩士であつた。

 ところが、城山氏が着く少し前桑港の新聞に、今度日本政府から城山といふ領事が來る。それは、ハワイにゐる日本人を救ひに來るのであると書いてあつた。當時ハワイには約三百人許りの日本人が耕地に雇はれてゐた。何れもヴアンリードの世話で、月給四ドルといふ安い賃銀で契約勞働者として送られたものである。これが非常にひどい目に逢つて、病氣になれば賃銀はくれない。中にはお産をしても始末がつかず、自殺したものさへあるといふ評判であつた。

 で、「ヴアンリードがそんなに悪い奴なら、ここにゐてはどんなひどい目に會ふかも知れぬ、俺は歸る」――と、実はこれを言ったのは高橋和喜次ではなく宇和島藩士の城山静一の方なんだけど、この城山静一もヴァン・リードの斡旋でちょうどアメリカに渡ってきたところだった(高橋是清が読んだという記事では「城山といふ領事」という記載になっていたようなんだけど、当の城山が帰国後に同郷の都築荘蔵という役人を通して政府に提出した「上書」によれば、それはヴァン・リードが流した「流言」だと言う。またこの「上書」には高橋是清が読んだのと同じものと思われる「サンフランシスコ新聞拔書譯」なるものが添付されている)。で、そもそもは城山静一が言い出したことではあるんだけど、結局はそういうことで両者の意見が一致して2人は一緒に日本に帰ることになった――と、『是清翁一代記』に綴られていることをかいつまんで記せばそういうことになる。「眞に愉快」な奉公人生活を送っていた和喜次少年に将来への不安を抱かせた「桑港の新聞」。もしそんな新聞を読むことさえなければ……。


 さて、ここで話はこの新聞記事に記されていた、ヴァン・リードが関わったとされるもう一つの〝奴隷売買〟に話を移す。これは慶応4年5月に153人の日本人を当時、独立王国だったハワイにプランテーション労働者として送り出したというもので、これが日本から労働者が海外に派遣された第1号。

 しかし、ヴァン・リードによって派遣された153人の日本人は本当に「桑港の新聞」が書くように「非常にひどい目に逢つて」いたのだろうか? 確かに当時、日本国内でもそういう報道がなされていたのは事実。たとえば『中外新聞』は閏4月3日付けで「横濱別段新報の訳」と題する記事を掲載している。それによればこの労働者派遣事業は「黒奴賣買の所業に均しき事」と指弾されている。しかし、歴史はこうした指弾が全くの的外れであったことを証明している。この時、ハワイに渡った日本人は現在、約18万5000人いるとされるハワイの日系コミュニティの礎を築いた先人としてさまざまなかたちでクローズアップされ、「元年者」という呼び名も定着している。またこの問題をめぐっては明治2年になって明治新政府の役人(上野景範という人物)がハワイに派遣され、実態調査がなされるとともに、帰国を望むものについてはその意思を尊重する旨、両国間で合意もなされた。しかし日本側の意思確認に対し、帰国を望むものはわずか40人だけだった。この事実が彼らが置かれていた境遇を何よりも雄弁に物語っているはず。

 こうしたことどもを踏まえるなら、この派遣事業を「黒奴賣買の所業に均しき事」と指弾するのはいささか早計だったと言わざるをえない。そもそもこの記事を掲載した『中外新聞』第20号が発行された時点ではまだ日本人153人を載せた船(イギリス船籍のサイオト号。ただしオーナーはアメリカ人。南北戦争中、南軍の「シークレット・エージェント」として暗躍したJames D. Bullochという人物が書いたThe Secret Service of the Confederate States in Europeという本によれば、南北戦争中、敵側の商船をだ捕する「私掠」と呼ばれる行為が横行。そのため船の戦時保険料が高騰し、それを敬遠した船主が持ち船をイギリス船籍とするケースが頻出したという。サイオト号がイギリス船籍だったのももしかしたらそういう事情からかもしれない)は太平洋を航行中。その時点で「憐む可し日本人は酷熱の氣候と辛勞煩苦に堪へずして疾病に罹るのみならず萬一何程慘酷の處置に逢ふとも訴ふ可き處無くたとへ死すとも期限中は故郷へ歸るの路無く不祭の鬼となるに至らん」――とまで書いているのだから、これぞ世に言う〝飛ばし記事〟というやつでは?

 そして〝飛ばし記事〟という意味では和喜次少年が読んだという「桑港の新聞」も。残念ながらその現物は発見できていないのだけど(デイリー・アルタ・カリフォルニアやサンフランシスコ・クロニクルにはそれらしい記事は見当たらず。掲載されていたとするならばサンフランシスコ・コールの可能性が最も高い。アメリカ議会図書館のChronicling Americaによれば、当時、サンフランシスコで最大の発行部数を誇ったのがこの新聞。当然、アメリカ議会図書館のデジタル・アーカイヴにも収録されているのだけれど、なぜかアーカイヴされているのは1895年以降のものだけ。1868年当時のものを読もうと思うならサンフランシスコ公共図書館に行くしかない……)、ただ「病氣になれば賃銀はくれない。中にはお産をしても始末がつかず、自殺したものさへある」というのは、「それはいくらなんでも」。

 いや、そんなの、オマエの勝手な言い分だろ? という方にはこういう事実をご紹介することにしよう。この当時、アメリカの駐ハワイ公使を努めていたのはエドワード・M・マクックという人物なのだけれど、マクックは1868年8月14日付けで日本からの「苦力」到着を本国に速報するとともに、この種の「苦力」貿易が人道に反し、アメリカの国内法にも違反することを明言、ハワイ政府に注意喚起を促したことを報告している。この当時のアメリカがこの種の行為にきわめて厳しい姿勢を打ち出していたことがうかがえる。ところが8月20日付けで当時、ハワイ王国で外相(本来は法相。しかし外相がフランスとの条約締結のため不在だったため、外相を兼務していた)を努めていたステファン・ヘンリー・フィリップス(アメリカ人。バーヴァード大学卒の法律家)からハワイ政府の外国人労働者受け容れに対する基本姿勢を明らかにした文書が届けられた。その中でフィリップスはハワイ政府が十分に人権に留意し、「苦力貿易」のようなことは厳に禁じていることを説明。その実例として1867年に香港から中国人苦力を乗せたイギリス船が入港しようとしたものの、入港を拒否したケースがあったことを挙げている。その上で件の日本人労働者たちは自由意思に基づくもので決して「苦力」にはあたらないことを強調。この件に対するアメリカ側の憂慮は誤解であるとしている(→マクックからスワードに宛てた至急報告第54・57号)。これはこの問題を考える上できわめて重要な文書。特にステファン・ヘンリー・フィリップスがアメリカ人でかつハーヴァード大学卒の法律家であることはこの問題に関する諸々の憶測をすべてひっくり返すようなインパクトを持つと言えるのでは? つまり有り体に言ってこの問題の根底にはハワイが〝奴隷〟を使役するような野蛮な国であるという偏見が潜んでいると言わざるをえず、すべてはそれを前提とした憶測。しかし当のハワイではハーヴァードを出た法律家を法相に据えており、世界のどの文明国にも引けを取らない人道的な施策を打ち出していた。決して他国から奴隷を雇い入れるような野蛮な国ではなかったと。この瞬間、日本人労働者をめぐる諸々の憶測はすべてその根拠を失う。日本人労働者のハワイ派遣は「黒奴賣買の所業に均しき事」と指弾したものたちは、その実、ハワイがそのような国であるという偏見に己自身が囚われていたということ。

 ――と、こんなふうに見てくるなら、ヴァン・リードを「不良外国人」と見なす根拠が雲散霧消していくような。和喜次少年は決して「奴隷」ではなかった。また「眞に愉快」に暮らしていた彼に将来への不安を抱かせ、急遽、帰国するきっかけとなった「桑港の新聞」の記事もおよそ事実の裏付けを欠いた〝飛ばし記事〟に類するものであった可能性が高い。そして何よりも重要なのはヴァン・リードによってハワイに送り出された日本人労働者たちは決して「黒奴」の扱いを受けていなかった……。だからそもそも彼には「不良外国人」(あるいはさらに性質の悪いレッテルになると「奴隷商人」)と非難される謂れはこれっぽっちもなかったのだ。ただいつの時代も世にはびこるxenophobiaにも相通ずる誤解、偏見、誇張……、そんなものが「官軍/賊軍」史観と絡みあって1人の外国人を「不良外国人」に仕立て上げた――、それがこの人物をとりまく芬々たる悪評の正体ではないのか?

 では、ユージン・ミラー・ヴァン・リードの素顔とは? ユージン・ミラー・ヴァン・リードは1873年2月2日、サンフランシスコへ向かう船上で亡くなっている。享年37歳。永らく結核を患った上での覚悟の旅立ちだったらしい。『横浜毎日新聞』は4月20日付けでその訃を報じている――「アメリカ人ウエンリート(略)此春上方に遊ひて途中より病氣を得たり吐血の症にて種々醫療を歇すといへとも其驗なく日々に羸痩しけれハ醫師とも歸國して保養せん事をすゝめけるほとに二月のはしめつかた太平海の飛脚船に乘りて故郷サンフランススコへ歸船の海上あはれむへし遂にむなしく成にけるとそ(略)其歸る時船に乘るに臨て多く送り行たる日本の朋友に向て云く我若し幸福ありて再ひ來る事を得ハ猶又元の如くに交歡を辱ふし給へとて手を握て涙數行下る然るに今彼か訃を聞て旧情追慕の餘り新聞紙上に掲載を乞ふて四方の知人に報す」。これを読めばユージン・ミラー・ヴァン・リードがどのような人間だったかは自ずと想像がつくというもの。彼は日本(人)を愛し、そして日本(人)からも愛されていた。いかなる誤解も偏見も誇張もこの事実をねじ曲げることはできない。本稿はそんなユージン・ミラー・ヴァン・リードに捧げる元ペーパーバック屋からのささやかなる「時の娘」……。