個展が終ったら個展での出来事を報告をしないといけないのかな?
いや、よくあるサイトのように自分の都合の良いように脚色して紹介するのはキモいし
カッコ悪いので、(え?レジの話の方がカッコ悪い?(^^;)
報告は後援会その他会場に来てくださった方にお任せしたいと思います。
さて、森大衛はやっぱり書道が大嫌い!それが個展を終えての感想。
自分の作品が飾られた空間にずっといるといろいろ考えてしまうんですよ。
飾られた空間にいることは嫌ではないけど、書のことばかり考えている自分が嫌になる。
「自分がこの作品に相応しい人間なのか…」だから自宅の自室に書は1点も飾っていない。
森大衛は書道が大嫌いだからこそ「本当に凄い!」と思える作品や作家に対して心から絶賛するし
尊敬もするし応援もする。そう思える作家は、創玄書道会にも謙慎書道会にも前衛にもいるし、
中央のみではなく地元にもいる。とにかく老若男女を問わず凄い人は凄い。
じゃあ、どんな作品や作家に対してそう思うかというと、そこに「ミラクル」があるかどうか。
世の中には「これなら私にも書けそう」とか「私のことを代弁してくれている」というものに
惹かれる人間が大勢いる。「出来そうにもないことは興味がないし理解もできない」ということだ。
しかし、そういう思考が世に蔓延すると文化的レベルは明らかに降下し、美意識は堕落する。
今は心の時代と言われているが、心より魂でなければならない。
魂とは五感であり宇宙でありミラクルである。英知を超えたところに魂は存在する。
しかし、英知をすり抜けて魂や宇宙を知ることはできない。
例えば「陰陽府仰法」という筆遣いがある。本物の書はそれによって構成されている。
書聖(書の神)と言われる王羲之(おうぎし)の技法はまさしくそうであり、
だからこそ書を志すものにとって王羲之は書聖なのである。
空海も然り、そこには心を超越した英知から発した魂がある。
ちょっと習字が達者な者が「先生」と呼ばれ、書に能書きを添え、
さらに心のアドバイスまでも施すのは茶番でしかない。
「先生と呼ばれるほどのバカでなし」アドバイスされる側より不遜な愚者だ。
「本物」とか「言霊」とか「魂」などという言葉を軽々しく使ったり書いたりする時点で見識を疑う。
「君の字に君が一番浅はかなことが現れてる。」と言いたい。
人間には普遍的に美しいものカッコイイものを見抜く目が潜在的にある。
能書きではなく五感に語りかけ五感に響く書こそ本物の書である。