−天国の扉−

こちらから出向かなくても、犯人はいずれ自分に接触してくると予想される。下手に動かなくてもいいということだ。
カカシは犯人が行動しやすいように夜に出歩くようにした。
そうやって数日が過ぎ、月のない晩、カカシはいつものように人気のない路地裏や森林公園の散歩コースを歩いていた。
イルカとはたまに会う。少しだけ会話をしたり、お茶を飲んで過ごす。本当に休日のように過ごしているので、火影に少々申し訳なさを感じるが、任命したのは火影なのだから仕方ない。
テイルは退院し、神父の容態も順調に回復に向かっているということだ。ソネノも今ではちゃんと落ち着きを取り戻している。
前方から灯りが近づいてきた。カカシも小さな灯りを手に散策しているので、それに気付いて近寄ってくるようだ。

「はけたさん。」

聞こえてきたのは以前、一度だけ聞いた声だった。クロハだった。

「こんな夜更けにどうされたんですか?俺は夜の散歩です。」

カカシは笑みを浮かべてそう言った。

「私も散歩です。」

クロハも穏やかに笑って言った。

「下手な芝居はお互いやめにしましょう。」

笑みを崩さないままにカカシは言うと、クロハの目が一瞬にして鋭くなった。

「随分と直球ですな。ま、私もそうそう暇ではないですから本題に入りましょう。」

クロハはそう言ってカカシに近づく。

「聖書をいただきたい。」

「手にしてどうするつもりだ。」

もはや敬語を使うことも億劫になったカカシは興味なさげにクロハに聞いた。

「あなたには知る必要のないことだ。」

「残念ながらこの聖書は俺の所有物じゃない。おいそれと渡すわけにはいかないな。」

「交渉は決裂ですな。できれば穏便に済ませたかったのですが。」

「最初から穏便に事を勧めていたわけでもないのに、俺だけ穏便に済ませるのは不公平というものだろう。」

カカシは千本を手に構えた。クロハ以外の人間がいる気配はとっくに察知していた。かなり多い。一般人のふりをして相手をするには少々無理のある人数だ。傷つけてしまうが致命傷にはしない。
カカシは手裏剣でクロハの灯りを消すと、自分の持っていた灯りもすぐさま消した。光りのない暗闇が辺りを包んで、カカシは身を潜ませていた人間たちを気絶させていく。
灯りのなくなった場所で、一般人たちは慌てているようで簡単に倒れていく。
夜目の利くカカシにとっては雑作もないことだった。
一般人のふりをしてでも十分に対応できたかもしれないな、と思ったふいの油断の隙に誰かがカカシの目の前に躍り出て斬りつけてきた。
少しだけ腕をかすって難を逃れたカカシは、相手と対峙した。
忍びだった。よもや忍びまで雇っていたとは。

「平和主義な国家には随分と不似合いな存在だな。」

カカシが言うと、相手はにやりと笑って答えた。

「お互い様だ。」

どうやらカカシが忍びであると言うことは知られていたらしい。少々相手を甘く見過ぎていたようだ。
カカシは千本ではなくクナイを手に構えた。
ふと、腕に重みを感じた。カカシははっとした。毒が塗り込められていたらしい。耐え性があるとは言え、動きが緩慢になってしまうのは避けられないか。
カカシは先制攻撃を仕掛ける。だが、忍びは一人ではなかったようで、数人が連携して攻撃してくる。カカシの毒の回りを待っているかのようだ。すぐにけりを付けようとしないところが余計にそう感じさせる。
分の悪いことに一般人も攻撃をしかけてくるため、力の加減がやりずらい。一旦引こうにも相手の忍びはそう簡単に見逃してくれないだろう。
状況が悪くなる一方だ。カカシは身を隠すことにした。煙玉を投げつけて目を眩ませ、瞬身を使ってその場から逃げ出す。
草の影に身を潜ませ、息を殺す。ここで夜明けを待とうと結界を張る用意を始める。

「カカシさん。」

暗闇の中から、今だけは聞きたくない声を聞いた。カカシは声のした方に顔を向けた。

「イルカさん、今だけは見逃して下さい。重要な局面なんです。」

カカシは聞こえるか聞こえないかぎりぎりの音量で話す。だがイルカは首を横に振った。

「カカシさん、聖書を渡してください。」

「あいつらに渡すんですか?」

「はい。」

「何故?」

どう考えてもイルカの言動はカカシに仇なす者のそれだ。
イルカは答えない。だが顔は苦渋に満ちている。カカシはイルカの苦しむ顔は見たくない、そう思った。火影の命に背いても。
自然に聖書へと手をやった。そして無表情でイルカに差し出した。イルカは聖書を受け取るとカカシに向かって深く頷いてみせた。

「一刻の後に、この先南南西の場所にある廃屋へいらして下さい。そこで全てをお話します。」

イルカはそう言い置いて行ってしまった。カカシはその場に寝転がった。もう追っ手は来ないだろう。
日の出まで数時間といった所か。何をどうしようが、全ては夜明けまでに決着が着く。
草間から覗く星空を見上げてカカシは小さくため息を吐いた。
普段ならばこんなことはありえない。現地で出会った素性のしれない相手に全てを委ねるなど、忍びとして、暗部としての常識では考えられない。
だが、信じてしまうのだ。術がかけられているのかもしれない、暗示や幻術が。だが、イルカにならばそれを許してしまう。この感情そのものがまがい物と言われたとしても、それでもいい。
イルカを疑うくらいならば、自分は喜んで騙されよう。例え騙されていたとしても決してイルカを憎みはしないと誓った。
任務においては危険な思想も、この胸の疼きの前には雲散霧消する。
カカシは星の瞬きを見て勢いよく起きあがった。そして腕の傷口から口で毒を吸い取り、応急処置して一刻後を待った。
一刻が過ぎるとカカシは移動を開始した。南南西にあると言う廃屋を目指す。が、段々と目的地に近づくに従って、何か異様なまでの光りが見え始めた。
松明や街灯のような明るさではない。
カカシは足を速める。何が起こっているのか想像もできない。不安だけが募っていく。
廃屋は石塀に囲まれた塔のような建物だった。その建物の扉の中から光りが漏れている。カカシは用心しながら近づいていく。

「カカシさん。」

後方から声がしてカカシは立ち止まった。そこにいたのはイルカだった。

「イルカさん、これは一体。クロハたちはどこですか?」

「クロハは大司教と二人で、あの扉の中へ入りました。」

カカシは瞠目した。クロハではなく、大司教がこの事件の首謀者だったとは。国教を束ねる者としてあるまじき行為だ。

「黒幕は、大司教だったんですか。」

「そうです。彼らはこの世で自分たちが最も神の傍に使える者として相応しいことを立証するがために行動を起こしたんです。」

カカシは舌打ちした。まったくもってくだらない。貪欲の生んだ茶番だ。

「それで、彼らは生きながらに天国へと旅だったわけですか。あの扉の向こうは天国なんでしょう?」

ソネノの言った通りだとすれば、そういうことになる。この目で見るまでは半信半疑だったが、こうも見せつけられては信じないわけにはいかない。

「確かに、扉の向こうは天国へと繋がっています。ですが二人は天国へは行けませんでした。」

「何故?」

「罪を犯した者は通り抜ける前に灰となって消えます。」

随分と残酷な処罰だ。だが、ここまで来るのにテイルを殴りつけ、ソネノを脅し、カカシを襲ったのだから、罪がないわけではないが、それでも灰に変えられるとは穏やかではない。それ程までに厳しい世界なのか。

「他の忍びや襲ってきた一般人たちも同じように?」

「いえ、忍びは報酬がもらえないと分かると去っていきました。一般の人々は二人が灰になったのを見ると恐れをなして逃げていきました。一般人と言っても信者ですから、神の所業に恐れを成したのでしょう。」

イルカは扉を見て無感情にそう言った。そして改めてカカシを見た。

「俺は、聖書の主を見守る存在です。」

カカシは、ああ、と心の中で息を吐いた。だから人としての気配を察知することができず、聖書の持ち主の近くで姿をよく見かけたのか。

「しかしイルカさんの存在はテイルさんもソネノさんも口にしていませんでしたが。」

「二人の前に出たことはありません。」

「ではどうして俺の前には現れたんですか?」

「それは、あなたが扉の向こうへと通ることを許された人間だからです。」

カカシは自分の耳を疑った。

「どういうことですか?罪を背負った者は灰となり、扉を通り抜けることはできないんじゃなかったんですか?」

「その通りです。」

「自慢じゃないですが、俺はこれまで何百、何千と言う人を殺してきました。罪のある者、ない者関わらずです。人を騙し、脅迫し、拷問したこともあります。罪の数で言えば、大司教やクロハとは比べものにならない程だと思いますよ。」

決して卑下ではなく、事実だった。カカシは6歳で中忍試験を通り、それ以降は影から暗躍して里を支えてきた。そんな自分が扉を通り抜けられるとは到底思えない。

「扉を通る者の基準は、罪の多さや重さではないと聞いています。」

「ではなんですか?」

「それは俺にも分かりません。神の考えることは俺にも悟ることができませんから。でも、扉を抜けることは確証します。俺は聖書を見守る者という役割ともう一つ、案内人という役も任せられています。俺の言葉を信じてください。」

「信じましょう。ですが俺はやはりそれを聞いてもあの扉の向こうへと行きたいとは思えません。」

カカシの言葉にイルカは困ったように小首を傾げた。

「扉を抜ければ天国へ行けるだけではありません、あなたは無条件に聖者の列に名を列ねることができるのですよ。」

「聖者?」

「神の傍に仕えることのできる者です。一握りの者しか許されない、大変名誉なことです。あなたにはその資格がある。」

カカシはしばらく黙っていたが、イルカの顔をじっと見据えて聞いてきた。

「そこに、イルカさんはいるの?」

「俺はただの案内人です。聖者と共には行けません。」

「ではやはり俺は行けません。」

「カカシさん、あなたはこれがどけだけ恵まれたことか理解していない。この天国の扉の向こうへと無条件に許される者は数百年に一度と言われるほど希少価値の出来事なんですよ。それを棄てるなど、天の意志を冒涜する行いです。」

「冒涜だってなんだっていい、イルカさんがいなければどこへも行かない。あなたと共にいれば、この世だろうが天国だろうが地獄だろうが、どこだって俺はそこが一番の求める場所だから。」

くしゃ、とイルカの顔が歪んだ。泣きそうな、苦しそうな顔だった。
カカシはイルカの困った顔を見ても、今度は自分の意見を変えようとは思わなかった。

「あなたが好きなんだイルカさん。あなたの隣がいいんだよ。」

カカシの言葉にイルカは目を伏せて苦しげに言葉を紡ぐ。

「カカシさん、あなたが負ってきた苦しみはこの先にはないんですよ。これを見逃せば、あなたはこの先幾度も後悔することになります。誰よりも己の心の中に巣くう罪の意識を解消したいと望んでいたのはあなたのはずです、カカシさん。」

カカシはイルカの手を強引に取った。はっとしてイルカは身をよじる。が、カカシはそのままイルカを抱きしめる。

「今気付きました。この責め苦はもはや俺を形作る一つになってるんです。罪はなくならない。誰に許されても許されなくても、俺はずっと忘れはしない。忘れてはいけない記憶です。俺はこの罪を引きずって生きていきます。それが俺のできる罪滅ぼしです。そして、俺の本当の願いは罪を帳消しにしてもらうことではなく、あなたとずっと共にいること、それだけが俺の願いなんです。どれだけ恵まれた環境だろうが名誉だろうが、関係ない。」

カカシはそっとイルカの顔を覗き込んだ。イルカは泣いていた。扉から漏れる光を反射して、美しく光る涙を目尻に耐えている。しかしひっそりと笑みを浮かべ、カカシを愛おしそうに見つめていた。
カカシはその唇にキスを落とした。イルカは抗うことなく受け入れている。
二人はそのまま草原に横たわった。
カカシは全ての力を注ぎ込むようにイルカを愛し、イルカも受け止めた。
天国への扉は、その荘厳なる光りを除除に消していった。
やがて扉は消え、廃屋は闇夜に消えていった。二人は満天の星空の下に残されたが、置き去りにされたと言う気持ちはまるでなかった。

カカシは重ねたイルカの手を愛おしそうに眺めた。
この手を離さない。この瞳を、この髪を、この存在を形作る全てを慈しみたい。
重ねた手をそっと握り込むと、やんわりと握り替えしてくれる。慈しむべき存在。
この命の全てを捧げるたった一つの存在。

「あなたを愛してます。」

カカシが囁く。闇に捕らわれないように、しっかりと想い人に伝わるように。

「俺も、あなたを愛します。この身全てと引き換えにしても、あなただけを。」

イルカは笑みを浮かべた。優しい優しい笑みだった。カカシの全てを包み込む、悠久の慈愛に満ち満ちた眩しいばかりの笑みだった。