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とある国のお話です。
その国には王子がおりました。見目の麗しい、賢く優しい王子です。
高貴な血筋ながら、王子は民を思う、勇気ある人で、みなから慕われていました。
王子の住む国には森がありました。深い深い森は人々から嫌煙されていました。一度入ったら出られないとか、恐ろしい魔法使いが住んでいると言う噂があったからです。
王子は常々この森を民のために活用できないものかと考えていました。
いつなんどき子どもが迷い込んでしまうとも限りません。獣も多く徘徊していると聞きます。不作だった時に獣が里に下りてきて悪さをするかもしれません。
森をちゃんと人の手で管理すれば民の生活は潤い、そして不安も解消されることだろうと考えたのです。
民を思う王子はその森を探索することにしました。一人で行こうとも思ったのですが、配下の者達が危険ですからと数人のお供を連れて行きます。
馬に乗って森の中、道無き道を進んでいきます。
どんどん奥へと進んでいくと、森の中は鬱蒼として、しまいには光りすら刺さなくなってきました。お付きの者たちは不安そうにしていますが王子はずんずんと進んでいきます。
そして半日も歩いた頃、一行の前に一軒の小屋が見えてきました。この森に誰かが住んでいるとは聞いていません。せいぜいうわさ話で流れている魔法使いくらいです。
王子は馬から降りて小屋の戸を叩きました。お付きの者たちはその様子を少し離れた場所から見ています。
しかし中からはなかなか人はでてきません。人が住んでいないのか、それとも今は留守なのか。
王子は小屋の周りを探索しはじめました。水のせせらぎが聞こえてきます。小屋の近くには小さな小川が流れており、小屋の後には小さい泉があるようでした。
王子は小屋の後に回り込みました。
はたして、小屋の主人らしき人物は泉の前にいました。
汚い恰好をした老人のようです。
「おい、お前、この小屋の主か?」
王子が尋ねると老人はゆっくりと振り返った。王子は思わず眉間に皺を寄せます。醜悪な顔です。いったい何歳なのか見当も付きません。もしや魔法使いか?とちらと思いましたがそれらしい杖は見当たりませんし弱々しく立っているだけで普通の老人のようにも見えます。
「お前はここでずっと一人で暮らしていたのか?」
王子の質問に老人は答えずに背を向けました。耳が聞こえないというわけではないでしょう、先ほどの呼び掛けには振り向いたのですから。
王子は老人の視線の先を見ました。ここで初めて気が付きましたが視線の先には銅像が建っていました。青年の像です。まるで生きているかのようなその像は、特別麗しいわけではありませんでしたが、その笑顔がとても心を癒します。
「この像はどうしたのだ?」
問いかけに老人は首を横に振りました。
「違う、像なんかじゃない。この人は生きているのだ。」
王子はよくよくその像を見ました。その像は確かに生きている人を薄い結晶石で包んでいるかのようにも見えます。しかしこの状態で生きているわけがありません。
「馬鹿を言うな、確かによくできているが生きているわけがない。」
王子の言葉に老人は最早聞く耳持たぬと小屋の方へと向かっていきます。
王子はその像を近くまで寄ってじっと見つめました。優しげな面立ち、不思議な服を着ています。鼻に傷が横に走っていますがまるで気になりません。
王子は段々とその像が生きて動いてくれればどんなにか素晴らしいだろうと思うようになってきました。そう、王子はその像に一目惚れをしてしまったのです。
王子は小屋へと向かった老人の肩を掴みました。
「おい、あの像が生きているというならばどうやったら開放されるのだ?」
老人はぶっきらぼうに応えました。
「時間だけが解決してくれる。いつか時間が経てばあの人は開放されるのだ。」
王子はあの像が欲しくて欲しくてたまらなくなってきました。
「老人、この森は我が国のものなのだ。勝手に住み着くのを許すわけにはいかない。だが条件次第ではこの森にこれからも住まわせてやってもいい。」
王子の言葉に老人はため息を吐いて言った。
「条件とは?」
「あの像を譲ってもらいたい。」
それを聞いて老人はひどく気分を害したようでした。
「だめだね、どんなに大金を積まれてもあの人はやれないよ。」
老人はびっこをひきながら小屋に入っていくと乱暴に戸を閉めた。
王子はしぶしぶ城に帰ることにしました。が、次の日も次の日もあの像のことが気になって仕方がありません。頭にちらついて仕方がないのです。
実は王子は人に恋したことがありませんでした。一目惚れで初恋だったのです。
一週間後、どうにも気持ちがおさまらなかった王子は決心しました。
夜中に城を抜け出しあの小屋のある泉へと向かいます。
泉にはあの時からまったく変わらないその人がいました。全てを許してくれるかのように笑みに王子の心は締め付けられます。
僅かに漏れる月明かりが像を輝かせています。
ふと、息づかいが聞こえてきたような気がしました。ぎょっとして見てみると、その像が脈打ち始めています。
パキンパキンと結晶が割れていきます。それは幻想的な光景でした。その人はゆっくりと目を開けて、そして再び目を閉じました。体がぐらりと揺れて、とうとう結晶が全て剥がれ落ち、その場に崩れました。それを王子が受け止めます。
暖かい体温、脈打つ鼓動、確かにこの人は生きています。なんと言う歓喜でしょう。
王子はすぐさまその人を抱えて馬に乗り城へ向かいました。
城に着くとすぐさま自室へと連れて帰りベッドに寝かせました。
まるで夢のようです、一週間ずっと思い描いていた人がすぐ側にいるのです。
あの老人に大しては多少の罪悪感がありましたが、なにせ王子の初恋です。恋は盲目とはよく言ったもので、すぐさま老人のことは忘れてしまいました。
翌朝、その人は目を覚ましました。もしかしたら今度はこんこんと眠り続けるかもしれないという危惧は消えました。
王子は嬉しさいっぱいの笑顔でその人にあいさつします。
「おはようございます。気分はいかがかな?」
「あの、おはよう、ございます。」
その人は戸惑いながら辺りをキョロキョロと見渡しました。
「あの、ここは、俺はどうして?」
「ここは私の城です。あなたを森から救い出してきたんです。ところでお名前を伺って良いかな?」
「はい、うみのイルカと申します。それで、森と言うのは?」
「体調がよさそうなので朝食にしましょう。話しはまた後で。おなか、空いているでしょう?」
ぐぅとイルカの腹が鳴り、イルカは顔を真っ赤にしてはい、と頷きました。
それから朝食を取り、王子はイルカの身の上を聞きました。
ある日突然、体に衝撃がきてそれから覚えていないとのこと。
しかし一番驚いたのは、イルカのいた時代はずっと昔のことで、イルカにとって今は随分と未来だということでした。それを確認するとイルカはひどく悲しそうにしました。
王子はその痛ましい顔をそっと撫でました。イルカはびっくりして目を見開いています。
「この世界に居場所がないからといってそう悲観しないでください。これからはこの城で過ごしてください。気にすることはありません、私はこの城の王子なのです。あなたはここでゆっくりと休養してください。」
「あの、でも私は何も持っていませんし、何もしないのに置いてもらうわけにはいきません。」
イルカはしっかりとした目で王子を見ています。優しげな面立ちだけだと思っていましたがこのイルカという人物はそれだけではなく、しっかりと物事を見据える目も持っているようです。王子はますます気に入りました。
「分かりました。ではあなたの得意なものはなんでしょう?この城で働きながらこの世界のことを覚えていくというのはどうでしょう?」
その提案にイルカは良しとしたのか、頷きました。
「私は体力だけはありますから力仕事などをさせていただければ嬉しいのですが。」
王子は了承しました。そしてイルカは城で住み込みで働くことになりました。
イルカは働き者でした。人柄もよくみんなに好かれるのに時間はかかりませんでした。
この世界のことも要領よく覚えていきます。ですがただひとつ、イルカは月夜の晩に悲しげに過ごすことがありました。
王子はそんなイルカの様子が気になって仕方がありません。
その晩は半月で、イルカはベランダ越しに月を見上げて憂いげにしています。王子はそんなイルカに近寄っていきました。
「イルカ、どうしてお前はそんなに悲しそうなのだ。この城の暮らしは居心地悪いのか?」
「いえ、そんなことは決して。みなさん、私のようなよく分からない者によくしていただいて、却って申し訳ない程です。」
困ったように笑うイルカにではなぜ?と王子が問うと、イルカは再び月を見上げてぽつりと呟いた。
「実感がないのです。だから悲しみもなにもない。」
イルカの悲しげな言葉に王子は瞠目しました。知り合いがもう誰もいなくなったこの世界での心細さはいかほどか見当もつきません。
「イルカ、どうかそう悲しまないでほしい。そして、これからは私と共に生きてほしい。」
王子はそう言ってイルカの手を取りました。
「王子、あの、」
イルカは戸惑いがちに王子を見ています。
「私はイルカが好きなのだ。」
王子の言葉にイルカは俯いてしまいました。
「この国は同性同士の結婚を許可している。お前の素性など誰も気にしない。この城の者みながお前のことを好いている。何も迷うことはない。」
「王子、」
「返事は今でなくとも良い。ただ、私の気持ちを知っておいて欲しかっただけなのだ。では、おやすみ、イルカ。」
王子はそう言って部屋から出て行きました。イルカはその後ろ姿を見送り、そしてため息を一つ落としました。
この生活にはまったく不自由はしていません。本当によくしてもらってこちらが恐縮してしまいそうになる程です。けれどイルカにはどうしても忘れられないものがありました。
いつもその話しをしようとすると王子は話しを逸らします。イルカはそんな王子の態度に薄々感づいてはいましたが、命の恩人のようなので無下に聞くことは憚られました。
今宵も月は綺麗です。イルカはそっと手を伸ばして、そしてぐっと引っ込めて寝室へと戻っていったのでした。
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