「ありゃあ、お前さん、こんなところでどうした?」

激しい雨が地面を叩きつけていた夜半過ぎ、この辺りの警備をまかされていたマツジは田畑の前で座り込んでいた男に声をかけた。
激しい雨に体はずぶ濡れ、しかも泥がはねて服は泥まみれだ。
しかし男はマツジの問いかけに返事をするでもなく、田畑をじっと見つめて動かない。ちゃんと座って瞬きもしているのだから死んでいるわけではないと言うのに、この男は一体どうしたと言うのか。

「今夜は冷える、わしの家は粗末な小屋だがないよりはましだ、そこで体を温めなさい。」

マツジは返事のしない男の腕をつかんだ。思った通り冷え切っている。まだ若そうな男だが今のままでは風邪をひいてしまうだろう。
男はマツジに引き上げられてようやく立ち上がった。だがいまだ田畑から視線を外さない。

「なにがそんなに気になるんだね、何か見えるかい?」

マツジは男の視線を追った。そこには収穫の終わった田畑にぽつんと所在無さげに突っ立っている案山子だけがあった。

「お前さんは案山子が好きなのかい?」

マツジはそんなわけはないだろうなあと思いながらそう言うと、男は意に反して初めて視線をマツジに向けた。マツジはおや?と思ったが、とりあえずは男の体を温めるのが先決だ。

「さ、こちらに来なさい。」

マツジは男の手を取って自分の家である小屋へと歩き出した。男はおとなしくついてくる。
雨脚はますます強くなり、曇った夜空に雷鳴が轟き響き渡る。
マツジは一瞬空を見上げて呟いた。

「こりゃあ、雷公のお怒りじゃなあ。」

激しい雷雨に打たれながら、二人は民家の明かりが灯る集落へと向かっていった。
秋口の肌寒い季節だった。

 

男は何も覚えていなかった。自分のことも、どうしてここにいるのかも全ての記憶がなかった。マツジは警備の仕事をしながら男の世話をした。と、言っても男は自分のこと以外の生活する上での最低限の記憶はあったので、マツジの家に厄介になると言ったほうが正しかった。
世話になるからにはなんでも手伝うからと男はよく働いた。男は力仕事が得意で、重い荷物もどんどん運ぶし、記憶がなくて心細いだろうに、笑顔で周囲を明るくさせた。
男の鼻の上には横に一本大きな傷があり、最初は男のことを警戒していた村人もだんだんとその人柄が知れると気軽に声をかけるようになっていった。

「杖彦、今日はこれを鳴瀬家の旦那のところまで持っていってくれ。」

マツジはそう言って男にリヤカーに乗せた麻袋を指し示した。

「鳴瀬の旦那の所だね、分かったよ。」

杖彦は人好きのする笑顔で答えた。
男は自分の名前すら覚えていなかった。マツジはこの辺りに伝わる案山子の神様がなまった言い方である杖彦という名を仮に付けた。最初に会ったときに案山子をずっと見ていたことから名づけたのだが、杖彦はそのこともよく覚えていないとのことだった。
どうやらマツジに拾われた日以前の記憶がまったくないらしい。

 

杖彦はリヤカーのもち手を持つとゆっくりと歩き始めた。村の力自慢の男衆でも二人で引かなければ動かないリヤカーをこの男は一人で易々と引いていく。今ではなくてはならない働き手となっている。このまま記憶など戻らずにこの村で嫁さんでも娶っていつまでもいてくれればいいのにと不謹慎なことを考えてしまうのも無理はないだろうとマツジは杖彦を見送りながら苦笑したのだった。

 

杖彦はリヤカーを引いてこの村一番の大地主の鳴瀬家の前までやってきた。
この村はほとんど農業で成り立っている村で、立地も国境の山奥の辺境と、客人はおろか行商ですらほとんど訪れない村だった。それでも自給自足しており、過疎化することなく平和に暮らしていた。
鳴瀬家はここいらの大地主ではあったが、実質鳴瀬家の男は一人っきりで、田畑を持たない小作人を雇って農業を営んでいるらしい。今はもう収穫も終わったので冬支度の真っ最中のようだ。
杖彦は鳴瀬家の家の門を開けて玄関までくると戸を叩いた。

「ごめんください、失礼しますよ。」

杖彦はそう言って戸を開けた。そこでは鳴瀬家の長女であるタエとその母カナエ、そして小作人の女房たちが内職しているところだった。

「忙しいところ悪いけど、マツジさんから旦那へ荷物を届けに来たんだ。荷物の確認してくれないかな?」

杖彦が言うとタエが分かったわ、と明るい声で立ち上がった。そして土間から出て行く。それに杖彦も続く。

家の前のリヤカーに積んであった麻袋の口を開いて中身を確認していくタエ。彼女はからっとした性格で小麦色の健康的な肌によく笑う。

「うん、頼んでたものに間違いないよ。悪いけど蔵の方に運んでもらっていいかな?あたしも一緒に手伝うからさ。」

タエはそう言って蔵の鍵を取ってくると言って家の中に入っていった。杖彦はその後姿を苦笑しながら見送ってリヤカーを引っ張って蔵へと向かった。
蔵の前でしばらく待っていると、タエが息を切って走ってきた。

「そんなに慌てなくてもいいのに。」

「だって待たせちゃ悪いじゃない、今開けるからね。」

息をはずませてタエは器用な手つきで錠前を取り外した。杖彦はさっそく麻袋を抱えて中に入っていく。

「タエさんは案内だけでいいよ、荷物は俺が運ぶから。」

「でも、」

「女性に重い荷物は運ばせられないよ、いくらタエさんが男勝りでもね。」

言えばタエは頬を膨らませた。

「男勝りは余計よっ、でも、ま、あたしをまともに女扱いしてくれるのなんか杖彦さんくらいだから許してあげるわよ。」

タエはそう言って置き場所を確認するために先に蔵へと入っていった。
そして手ごろな場所にあたりをつけて杖彦に場所を指し示した。杖彦はそこに麻袋をゆっくりと降ろした。

「案内ありがとう、ところで鳴瀬の旦那は今日も留守だったの?」

杖彦は鳴瀬家の長男であり実質鳴瀬家を仕切っているはずの旦那を見たことがなかった。いつも何故か不在で、タエだったりその母親であるカナエが代わりに用を聞くのだ。
マツジに聞いても何かはぐらかされるだけで、別に遠出をしているわけじゃないからなあ、と苦笑するだけなのだ。
だがもしかしたら言いにくいことなのかもしれない。杖彦はまずいことを聞いたか?と己の発言を少し悔やんだ。
だがそんな杖彦の顔を見てタエが笑った。

「いやあねえ、別にやましいことなんかないのよ。ただ、ユキさんの体調がよくなくてね、兄さんはユキさんの看病してんのよ。」

「ユキさんって?」

「兄嫁よ、知らなかった?あたしなんかと違ってほんと、雪みたいに色白で綺麗な人なんだから。兄さんなんかには勿体ないったらありゃしない。」

タエはそう言ってからからと笑った。

「そうだったんだ、早く良くなるといいんだけど。」

「うん、そうだね。」

タエは一瞬顔を少し翳らせたが、またいつものように明るい笑顔になった。

「じゃあ、荷物を運び終わったらまた声をかけてね。鍵を閉めるから。」

「ああ、分かったよ。」

タエは頷くと母屋の方へと走り去ってしまった。杖彦は荷物の運び入れを再開した。
それからほどなくして全て運び終えた杖彦はタエを呼びに行こうとリヤカーを引いて母屋へと向かった。
中庭を突っ切って土間へと向かおうとした所で、縁側に誰かが腰掛けているのがちらっと見えた。
声をかけずに庭を横切るのも失礼かと思い、杖彦は持ってきたリヤカーをその場に置いて縁側へと向かった。
縁側に座っていたのは色の白い人だった。
この土地の人はみな、褐色の肌をしている。色の白い人間は少し珍しいと感じた。

「あの、こんにちは。」

杖彦が声をかけると、その人はにこりと笑った。ゆったりと浴衣を着ている。暖かそうなひざかけの上には硬い表紙の本が乗せられていた。

「こんにちは、初めて見る方だけど。」

「先日からマツジさんのところに厄介になっている杖彦と言います。今日はマツジさんに言われて荷物を蔵に運び入れてました。相すみませんが庭を通らせてもらいます。」

「お疲れ様です。こちらが頼んだものなのに運んでもらって助かりました。本当ならタクミにやらせるところなんですが、」

その人は少し困ったように笑った。タクミと呼び捨てにするところ、そして色白の肌、この人はもしかして、と思った所で廊下からどすどすと足音が聞こえてきて大柄な男が現れた。

それなりに身長の高い杖彦よりもまだ高い。この村で一番高いのではないだろうか、それに体つきもかなりがっちりとしている。

「なんだお前、どっから入ってきた。」

声も太くて威嚇されているようだ。いや、実際、威嚇されているのだろう。

「タクミ、この人はわざわざ荷物を蔵まで運んでくださったのに、その言い方はないでしょう。本当ならお前がする仕事だと言うのに、」

その人は少し悲しげに微笑んだ。

「今はお前の体の方が重要だ。ほら、もう部屋に下がるぞ。日向ぼっこは終わりだ。」

「せっかく暖かい所で本を読んでいたのに。」

その人は開いていた本を閉じた。タクミと呼ばれた男はその人を軽々と持ち上げて部屋の奥へと歩いていく。タクミの腕の中からその人がこちらに向かってすまなそうに会釈した。
杖彦もつられて会釈した。そういえばかなりの美人だった。予想が当たっているのならばあの人がユキだろう。浴衣姿だったし、やはりどこか病にでも臥せっているのだろうか。
どちらにしろあまり関わり合いはなさそうだ。
杖彦はリヤカーを置いてあった場所へと向かった。