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暗闇の中で声が聞こえた。
悲しみに満ちた声、痛いほどのすがる気持ち、逸る鼓動。
“必ず、..してあげる、から”
なにを、しようというの?
瞬間、雷光が閃き辺りが眩しいほどの光りに照らされた。
そこにあったものは血まみれになった黒い男の姿。手には血に濡れた凶器。赤い目、白い髪、人にあらざるかのような出で立ち。
なのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられる?
その男は何かを言いかけて、だが辺りは再び暗闇に支配されて、二度と光りが照らし出すことはなかった。
杖彦はまだ朝日が出る前に起き上がった。
不思議な夢を見た。あんな男はこの村にはいない。自分の想像の産物だろうか。それとも、失くした記憶に関わるものだろうか。
まだ起きるには早すぎる時間帯だったが、杖彦は起き上がった。隣で眠っているマツジはまだ目を覚まさない。マツジは寝起きはいいのだが一度寝ると朝、決まった時間になるまでほとんど起きることはない。何か大事があれば別だろうが。
杖彦は笑みを浮かべると布団を畳んで、まだ夜明け前の散歩に出ることにした。
どうもすっきりしない夢を見たからか、妙な胸騒ぎがした。こういう日は気分転換をするに限る。
杖彦は村のすぐそばにある林の中の小道をゆっくりと歩き出した。
すっかり寒くなり、木々の紅葉も見納めと言ったところか。すがすがしい朝の空気の中にいると自然と気分も落ち着いてくる。
ふと、違和感を感じた。
すがすがしい朝の中に淀む何かぬるい気配のような。
それが何を意味するのか、分からないまま杖彦はなんとなくの直感のままに小道から逸れて林の中に入っていった。
辺りはじょじょに薄く明るくなっていく。普段ならば一日の始まりを喜ばしく思うのに、どうしてこんなに気が焦る。今朝の夢のせいか?いや、違う、夢なんかじゃない、この感覚は現実だ。現実の、
杖彦は足を止めた。茂みの中から白い腕が覗いていた。恐る恐る茂みの中を見た。
ああ、と息を漏らした。
女の死体が転がっていた。あきらかに他殺死体だった。
村は大騒ぎとなった。
警備担当のマツジも大変なショックを受けたのだろう、杖彦から最初に知らせを受けた時に顔面蒼白になった。
自分がこの村の警備に就いて殺人など一度も起きたことはなかったのだと言う。
だが起きてしまったことはもうどうにもならない。
マツジはすぐに辺境警備の上層部に報告するために伝書鳩を飛ばした。
女の死体は村の公民館へと運ばれた。死体にはすぐにむしろをかけられ、人目に晒されないようにした。刃物で何回も刺されたらしく、無惨な死体であったためだ。
ひどいショックを受けたマツジだったが、自分のやるべきことを見失うことなく、職務を全うするべく警備の徹底を図るために村の男衆と共に見回りを強化することにした。
なにはともあれ上層部の命を待つ間、村の安全を確保するためにできることはしなくてはならないのだ。
普段からマツジを手伝っている杖彦も見回りの任に就くのかと思っていたが、村に来て日が浅い杖彦ではまだ信頼関係のない村人を怖がらせてしまうかもしれないとのことで、遺体の監視をすることとなった。
「遺体の側で監視する役目を一人でさせてすまない。」
見回りに行く前にマツジは杖彦のところまでやってきてすまなそうに言った。
「いえ、気にしないでください。本当なら死体の発見者である俺が一番の容疑者になるはずなのにそうせずにいてくれたマツジさんにこそ感謝してるんですから。記憶もないどこから見ても怪しい俺なのに。」
「あんたは大丈夫だと思ったんだ。少し一緒に暮らしただけだが、なんとなくそう思うんだ。まあ、直感みたいなもんだ。交代制にするつもりだから、今日の昼までにはまた別の者が来るだろう。それまで頼む。」
「はい。」
マツジは見回りに行ってしまった。
この村には医者がいない。だから死体をどう管理すればいいのかも分からない。普通に亡くなった場合はふもとの町医者を呼んでくるのだが、他殺体となれば話は違う。やはり指示がないと勝手にどうこうはできないのだろう。
杖彦はむしろのかかった死体をちらりと見た。今朝発見した時、正面から腹部を何度も刺されているように見えた。
犯人は、もしかしたら顔見知りなのかもしれない。もしも殺人鬼が襲ってきたのならば逃げるはずだから背中から凶器を突き刺されるはずだ。
正面に立って対峙しても逃げ出さないような関係。だがあの女性は村の者ではなかった。ユキのように白い肌だった。顔見知りと言っても誰なのか見当もつかない。同じ白い肌のユキが怪しいと言えばそれまでだが、病弱そうなあの人がこう何度も刺して殺せるだけの体力があるだろうか。
殺すのは結構体力を使う。一般人だったら精神的にも参ってしまうだろう。あの刺し方はどう見ても素人のそれだった。
「素人?」
なぜ自分はそんなことを知っているだろう。殺すことに体力が必要などと。
杖彦は戦慄した。
自分は何故知っている?どうして?殺したのは自分なのか?いや、そうだとしたら第一発見者になるなんて不用意なまねができるはずがない。犯人ならば最も疑われないようなポジションに来るはずだ。
どうして自分はこんなにも冷静に分析できているのだろうか。何故?まるでそれが日常茶飯事であったかのような。
杖彦は頭を振って否定した。
だが、なにもすることがないとどうにも思考することに頭がいってしまう。
段々と死体を見たら何かもっと分かるかもしれないと言う欲望が膨らむ。
死体なんて普通は自ずから見たいなどとは思わないのではないだろうか。医療関係やなにがしかそれらに携わる人たちならともかく、他殺体を見て検分したいなどと。
面白半分に好奇心に駆られて覗きたいという気持ちは一切ない。
だが、結局杖彦は欲望に勝てずにむしろをゆっくりと持ち上げた。
殺されたままの状態を極力そのままにするということで、死体は目を閉じさせた以外はまったく手をつけていない。
だから血に濡れた衣服に、苦しみ悶絶する表情もそのままだ。
杖彦は痛ましいと思いつつも、衣服をすこしめくって傷口を見た。
腹部よりもまだ下、下腹部を集中的に刺されている。明らかに何か怨恨でもあったかのような刺され方だ。何度も何度も強く深く刺し込まれている。
腹部ではなく下腹部と言う点も気になる。犯人はこの女性よりも身体的に低くて腹部よりも下腹部の方が刺し易かったとか?だがこの女性は平均よりもやや小さい気がする。
しかもこの村の住人は割りと男女共に大柄な者が多い。杖彦と同じくらいの背格好の女性もいるくらいだ。心情的に子供の犯行とは考えたくないが。
自分の希望的観測の入り混じった検分の結果、犯人はこの女性となにかしら面識があり、怨恨の類の意味合いを持って下腹部を刺殺したと考えられる。
さすがに犯行時刻までは割り出すことはできなかったが、死後硬直がまだ解けていないことからそう何日も経過したとは思えないけれど。
杖彦は丁寧にむしろをかけて手を合わせた。
早く犯人が見つかり、ちゃんとねんごろに弔ってやりたいと願いながら。
それから数日後、マツジの元に伝書鳩が戻ってきた。
上層部がようやくこちらに向かってくるのかと村の衆は少しばかりほっとしたが、伝書鳩の足についていた文を読んでマツジは顔をしかめた。その場にいた杖彦を含む男たちが息を呑む。
「どうやら上層部では人手が足りなくて今回の事件の調査をどこかの機関に依頼したそうだ。まあ、上層部の決定だからおかしな機関ではないと思うけど。そんなわけだから予定の日にちよりも少し到着が遅くなるみたいだ。冬支度で忙しいと思うが、警備の強化はまだ少し続けてほしい。涼しい季節とは言え、死体もここ数日そのままなのがかわいそうなんだがなあ、もう少しの辛抱だと我慢してもらうしかない。みんな、よろしく頼むよ。」
マツジの言葉に村の衆は頷きあった。
死体の監視は交代制でちゃんとサイクルが決まったので杖彦はそれほど時間に拘束されずとも済むようになった。
だがやはり見回りには参加できないので、見回りで仕事のできない男衆の代わりに仕事をすることになった。と、言っても収穫はほとんど終わったので冬支度がほとんどだが。
今日も杖彦は村のとある一軒の屋根の強化修理を依頼されて一仕事終えて帰途に着いていた。
なんとなく死体のあった林を通り道に選んだ。
何があるわけでもないが、何かしらやはり気になってしまうのだ。
夕闇が差し迫ろうという頃合だ、杖彦は足を速めた。
ふと、林の中で白い影を見つけた。気のせいではないと思うが、杖彦は気になって白い影を追いかけた。
向かうとそこは死体のあった場所にほど近い場所だった。そして白い影は、ユキだった。
「ユキさん?」
声をかけるとその人はゆっくりと振り向いた。今日は浴衣姿ではなくしっかりと着物を着込んでいる。その上に淡い色合いのショールを羽織っている。何故か儚げなイメージを思い浮かばせる。
「出歩いて大丈夫なんですか?お加減は?」
言えばユキは寂しげに微笑んだ。
「さすがにマツジさんの居候さんでは、噂話はいかないようですね。」
「え?」
「私の体が思わしくなかったのは、妊娠していたからです。」
「え、あ、そうだったんですか。」
それでタクミも気が気じゃなくていつも付き添っていたのだろうか。
だがおかしい、何故過去形なのだろう。杖彦は首をかしげた。
「あの、ユキさん、」
「少し前に流産しました。」
「それは、その、お悔やみ申し上げます。」
杖彦は深深と頭を下げた。
「お気遣い、いたみいります。」
ユキも軽く頭を下げた。
「今日はもう遅いですよ。送っていきますから帰りましょう。」
杖彦が言うとユキはそうですね、と頷いて歩き出した。杖彦は隣に立って共に歩き出す。
互いに何を言うでもなく、沈黙を保ったまま鳴瀬家に着いてしまった。
気まずいというよりは話をしない方が落ち着く雰囲気だったのだろう。
「送っていただいてありがとうございました。」
「いえ、お大事に。」
「はい、ありがとうございます。」
ユキは弱弱しい笑みを少し見せて会釈した。杖彦も会釈して、鳴瀬家を後にした。
「杖彦さん、」
背中越しに名を呼ばれて杖彦は振り返った。
「あなたとは、同じ匂いがするような気がします。」
「え?」
「おやすみなさい。」
ユキは家の中に入っていってしまった。一人残された杖彦はユキの言葉を頭の中で反芻したが納得のいく見解はできなかった。
一体、どういう意味だったのだろうか。同じ匂い、単純に同じ洗剤という意味ではもちろんないだろう。だとすればそれは、同じ人種、同じ嗜好、同じものの考え方。
なにを根拠に?
杖彦は止めていた足を動かした。
それに謎は残る。傷心のユキが何故、死体のあった林にいたのか。何の目的があって?
杖彦はどうにも釈然としない気持ちを抱えながら帰り道を歩いていったのだった。
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