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カカシは空を見上げた。雲一つ無い、真っ青な空。そしてどこまでも広がる赤い砂地。
こんなに美しいのに、そこは黄泉の国に繋がる狭間のように思えた。
太陽の日差しを、こんなにも疎ましく思ったことはない。
カカシは周囲を見渡した。
がくりと項垂れて座り込んでいる男。気丈にも前方を見据えている女。だが一様に言えることは、皆疲弊していた。現在カカシ率いる暗部部隊は砂漠の中心で水不足に喘いでいた。
人は水分なしには生きられない。どんなに特殊な修行を積もうとも、体の60%が水分でできている自分たちにはそれは必要なのだ。だが、水がなくなり数日が経とうとしていた。このままではやがて熱中症になり、意識がなくなるだろう。それはすなわち、死。
こんなはずではなかった。だが、任務に支障は付き物だ。たまたま今回、運が悪かっただけで。自分はよくやった、仲間もよくやった。ただ、できることなら仲間だけでも里に帰してやりたかった。自分がどんなに犠牲を払おうとも。
それから数時間後、仲間は皆その場に崩れ、意識も朦朧しているのか、カカシの呼び掛けにも反応が鈍くなってきていた。ここまでなのか?そう思った時、
チリーン
音がした。幻聴かと陽炎の立ち上る向こうへと視線を向けた時、それは現れた。
真っ白の着物を羽織った老婆が1人、砂漠を歩いてきたのだ。
老婆はまだかろうじて正常な意識を保っていたカカシの前に立った。死に神かと思わせる、この砂漠でのいやに清廉とした出で立ちに疑念は尽きないが、しかしもしも願いを叶えてくれるのならば、そう思ってカカシは乾燥してぱさついた唇を開いた。
「嫗(おみな)、水を、もらえないだろうか。」
老婆は意志の籠もらない眼でカカシを見て、しわがれた声を出した。
「樽一杯の水の代わりに、お前の、声をもらおう。」
気付かなかったが、老婆の後にはラクダがおり、荷物を運んでいた。その中に重そうな樽がいくつもあった。あの中に水があるのだろう。一つでもあれば回復し、この砂漠を生き抜くことができるだろう。
声と引き換えにして命を、仲間を救うことができるのならば、それならば。
「声などくれてやる。だから、水を。」
カカシの言葉に老婆は頷いた。そして血管の浮き出た、かさかさの小さな手をカカシの喉に向かって伸ばす。カカシは拒まなかった。口布が邪魔になるだろうかと思ったがそうでもないらしい。老婆の手からひんやりとした体温が布越しに伝わってくる。この灼熱の砂漠にいてその手の冷たさは異様だと、それだけカカシは思った。
やがて、老婆は手を離した。
「声は、もらったよ。樽を一つ、持っていくがいい。」
老婆の言葉にカカシは頷いた。そして荷物の中から樽を抱え、砂地に置いた。樽の中を確認すれば、綺麗な真水が波打っていた。ほっとした、これで助かる。
カカシは礼を言おうと老婆を振り返った。だが、もはや声は出なかった。それは不思議な感覚だった。すうっと風の抜けるような、そんな感覚。声帯がなくなったわけでもない、声を出す動きを体が忘れたわけでもない。
これが、声を奪われたということなのだろう。
「礼はいらないよ、代償はもらったのだから。」
老婆は薄く笑ったようだった。そしてカカシに背を向け、ゆっくりと道無き道の砂漠を再び歩いていった。
チリーン、と、音が鳴った。
カカシは我に返ると仲間に水を配った。落ち着いて、ゆっくりと、水は十分にある。やがて全員に回復できるだけの水を配り終えると、やっとカカシも一口水を含んだ。
自分の声と引き換えにして手に入れた命の水だ。灼熱の地で、ぬるくはあったがそれでもなんと芳しき水の潤い。
カカシは顎に伝った水を手の甲で拭い、老婆の行った方へと目をやった。
予感はあった。もう二度と会うことはないだろう。そしてそれと共に自分の声も二度と戻らないのだろう、と。
得てして、カカシ率いる暗部の部隊は絶望と言われた砂漠から奇蹟の帰還を果たした。その功績は火影以下上層部の知れることとなり、カカシは生きながらに英雄と謳われるようになった。
ただ、声だけがどうしても出なかった。比較的医療忍術の最先端を行く木の葉の医療を持ってしても、どんなに手を尽くしても、声は出なかった。
その理由を知る者は共に行動していた暗部の部隊の連中と、そして火影と上層部だけ。
部隊の仲間はいずれ出るようになる、希望を捨てずに治療に専念を、と励ましてくれたが、博識の火影はカカシの声が再び戻ることは難しいだろうと、カカシと同意見だった。
「その者は、おそらく人ではなかったのだろう。カカシよ、お前の判断は隊を率いる者としては最良の選択であったろう。だが、人として、それはいつしか苦悶に繋がるであろう。わしはそれが気がかりでならん。」
火影の憂いを帯びた表情にカカシは笑みを浮かべてお気遣いなく、と唇を動かした。火影はそれを見てまだ何か言い足りないようだったが、ややあって下がってよい、と傘を深くかぶった。
カカシはビンゴブックに載るほどの手練れである。今回の功績もそれを上乗せしてカカシの異名を轟かせることとなった。だが声が出ぬ忍びはやはりなんやかやと支障が出るやもしれぬ。上層部の見解はしばしの様子見、すなわちカカシには長期休暇を与えられることとなった。
暗部の部隊にいた者達は、自分たちを助けるために声を失ってしまったカカシの助けになるようにと、任務のない者が交代でカカシの身のまわりの世話をすると言い出した。
そんなことはしなくていい、自分自身の回復に専念しろとカカシは指示したものの、仲間たちはなかなか納得しなかった。
が、そんなカカシの思いも虚しく、声が出ないようならば何かと不自由なことが出てくるだろうと、回復した暗部の部下たちにしばらくはカカシの身のまわりの世話をするようにと火影が直々に申しつけた。
火影の命が出てしまえばカカシにはもう逆らえない。カカシは交代制で部下たちに身のまわりを世話されることとなった。
そして、そんな日々が続いたある日、その日カカシはぼんやりと川岸を見ていた。
現在は忍犬の散歩中である。急に休暇をもらってもなにもすることもなく、ただぼんやりと日がな一日を過ごしていたカカシだった。
今のところ部下たちの世話のおかげかはどうか知らないが、概ね何も問題なく生活できている。一般人とのコミュニケーションは取りづらいが忍び同士ならば読心術で唇の動きを読めばいいことであるし、暗部での任務ではほとんど一般人と会話することなんかないのだから支障はないのでは、というのがカカシの持論だった。
川の浅い場所で忍犬たちは水浴びをしている。砂漠ではあんなに焦げ付きそうな灼熱だった太陽の光も、ここではうららかな春の日差しだ。
川では少し暖かい日よりなので一足早く水遊びをしている子どもたちの姿も見える。
忍犬たちとは結構離れているから接触する心配もない。
カカシは土手沿いに寝転がった。
だがものの数分と立たないうちに子どもたちの甲高い叫び声が上がった。
何事かとカカシは起きあがると、子どもたちが中州に行こうとして足を滑らせて溺れている所だった。春先とは言えまで川の水は冷たい。
カカシは口笛を吹いた。忍犬への合図である。自分が行っても良かったが、一番近くにいるのは忍犬たちだ。救助は迅速に行わなくてはならない。自分の忍犬ならば子どもを助けるなど雑作もない。
案の定、子どもは首根っこのシャツを忍犬に銜えられて川岸にたどり着いた。
カカシはほっとして川岸の子どもたちの方へと向かった。その時、
「ちょっと、あんたなにしてんのよっ!!」
子どもたちとはまた違った音域の甲高い声が聞こえてきた。え、と声を出そうとして声が出ないことにカカシは今更ながらに気が付いた。
声の持ち主は少し神経質そうな若い女性だ。一直線に子どもたちではなく、自分の方に向かってやってくる。これは、誤解されてるな、なんとなくだけど。たぶんこの子たちの親、もしくは世話を任せられた責任者と言ったところか。まずいなぁ、とカカシはぽりぽりと後頭をかいたのだった。
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