今日は定期検診の日だった。無駄なことだと思うんだけどなあ、とカカシは思いつつも、世話をしてくれている部下たちの手前、諦めた所を見せるわけにもいかず通院をやめるわけにもいかない。カカシは心持ちげんなりとしながら病院からの帰り道を歩いていた。
担当の医師も首を傾げてどうして声がでないのかこちらが聞きたいくらいです言わんばかりの表情を浮かべていた。聞くところによると声帯はちゃんと機能しているようだ。どこかの気管が麻痺でもしていて言葉を加工できないかと言えばそうでもなく、言語を司る脳に異常があるわけでもない。しかも驚くことに空気もちゃんと声に会わせて振動すらしているらしい。なのに聞こえてこない。こんな摩訶不思議な現象は初めてですと言われてカカシはそうですか、と頷くことしかできなかった。
だから摩訶不思議なものに声を取られてるんだって説明したのになあ、三代目以外はみんな信じてくれないんだもんなあ、とため息を吐く。
先ほどから雨が降っているのだが傘を持ってこなかったので肩が濡れている。本当ならば瞬身でもなんでも使ってさっさと帰れるのだがなんとなくぼんやりと雨の中を歩いていく。段々と降りが激しくなっていき、とうとうカカシはずぶぬれになってしまった。まあ、そういう気分の時もあるよねえ、とカカシは大して気にもせず歩いていく。
知らず知らずのうちにまたため息を吐いてしまう。自分はさほど悲観していないと言うのに身のまわりの世話をしてくれる部下たちは申し訳なさそうな顔をしてくる。忍びにとっちゃ体の一部分が切れたり無くしたりすることもままあるのだし、そこまで気に病むこともないだろうにと思うのに、そういう顔をされると正直言って気が滅入る。

「ちょっと、あなたなやってるんですかっ!」

突然に呼び止められてばかにでかい傘が頭上の雨を止めた。
声の主を見ると、以前川原で出会った顔に傷のある男だった。

「あんたこの間川原にいた人ですよね。なんですか、今度は自分がぬれねずみになってんですか?」

男はくすりと笑った。でかい傘は二人を包み込んでも十分な大きさだった。なんとなくこの男にぴったりの傘だなあ、とカカシは思った。

「うーん、かなり濡れてますよ。服の中もべっちゃりなんじゃなですか?って、あなた病院帰りだったんですか?どうして安静にしてないんですかっ。」

男はカカシの持っていた薬の袋を見て驚愕に叫んだ。
原因も分からないのに治療法もくそもあるかという所だったが、気休め程度のトローチをもらっていたのだ。なんとなく子どもっぽいなあ、などと思っていたのだが、それでもまあ、治療に専念しているの図を形作るためにもちゃんと処方された薬を持ち帰っているのである。

「あー、もうっ、こっち来てくださいっ。ほらはやくっ。」

男はカカシの空いている方の手を取って歩き出した。カカシはいきなりの展開になんとなく楽しくなってきて言われるがままに連れられていく。そしてたどり着いたのは少々ふるぼけたアパートだった。男が先に入ってバスタオルを持ってくるとカカシの頭からかぶせて乱雑にごしごしとふいてくる。なんとも豪快な人だ。

「体調は悪くないですか?寒気は?」

カカシは首を横に振った。

「そうですか、今風呂沸かしてるんで入ってってくださいよ。同じ忍びなんだし、遠慮しないで。」

男はそう言うと男を風呂場まで連れてきた。バスタオルと着替えを持ってきて、濡れた服はこっち、とあれこれ説明していく。

「まだ肌寒い季節なんですから体調が悪い時に雨に降られてないで雨宿りとかすればいいのに。」

説教じみた小言を言いながらも男は風呂場のお湯の溜まり具合を見たりと忙しい。そしてだいたいお湯がたまりはじめると男はよくあったまってくださいよ、と言い置いて脱衣所から出て行った。カカシはくくっと笑って言われた通りに服を脱いで風呂に浸かった。

浴槽は小さく、足を折り曲げないといけなかったり、湯気で鏡がすぐに曇ったりと見た目通りの安いアパートの仕様だな、などと失礼にも思ったが、なかなかどうして、一人暮らしのようなのに綺麗に掃除もされており、気持ちよく浸かることができた。もうちょっと乱雑にしていてもおかしくないだろうに、きれい好きなのだろう。
カカシはよく暖まると風呂から出て浴衣に着替えた。そしてバスタオルで髪を拭きながら男の気配のする台所へと向かう。
男はなにやら作っているらしく、台所までやってきたカカシにも気付かない。
カカシは仕方なく男の真横まで歩いていった。そこでやっと男はカカシの存在に気付いた。

「あ、上がられましたか。随分早かったですけど、ちゃんとあったまりました?」

元々カラスの行水であるカカシにとって、今回の風呂タイムはなかなか長いものだったが、男にとっては早すぎると感じる時間だったらしい。どんだけの長風呂なんだ、とカカシは笑った。

「まあ、いいです。今あり合わせのもので雑炊作ってるんで食べてってください。体は内からも暖めないとね。」

男の手元では野菜などが煮立たせてある。これにご飯を入れるのだろう。近くのお椀には溶かした卵まである。最後に入れるのか。と、言うか、行きずりの人間にここまでする人間も珍しい。同業者とは言え人が良すぎないか?

「ん?鍋をじっと見てどうかしたんですか?もしかして雑炊が苦手だったりするんですか?俺、雑炊が嫌いな奴って見たことないんですけど。」

うーん、と違う方向に考え始めた男にカカシは身振りで違う違うとジェスチャーした。

「あ、そうですか、食べられますか。良かった。あ、そういえばまだ自己紹介してませんでしたね。俺は海野イルカって言います。アカデミーで教師をして、って、この間言いましたよね。」

イルカはははは、と笑った。カカシは自分も自己紹介しようと口を開いた。が、声がでないんだったとまた自分の状況を忘れていた。カカシは仕方ないので唇だけを動かした。

“俺ははたけカカシと言います。お風呂、ありがとうございました。”

イルカは一瞬ちょっと不思議そうな顔をしていたが、はっとするとそうだったのか、と小さく呟いた。

「あの、失礼ですが声が?」

カカシは頷いた。

「そうだったんですか、じゃあ川原の時もそうだったんですね。あー、俺ってやつは、そうですよね、おかしいですよね、いくらなんでもあそこで一言も話さないって、話せなかったんだ。あ、病院もその声の件でですか?」

イルカの問いかけにカカシは頷いた。本来ならば同業者と言えどカカシレベルの忍びの体のことは他言してはならないのだが、イルカには知ってもらっても良いような気がした。

「そうでしたか、俺は早とちりばっかり、いや、お恥ずかしい。同僚にもよく言われるんですよ、お前はおせっかいが過ぎるって。」

イルカはぽりぽりと頭を掻いた。おせっかいと言うよりはやっぱり人が良い親切って感じがする。別に嫌な感じに押しつけられているわけでもないし。
カカシは手を伸ばしてぽん、とイルカの肩を叩いた。

“俺は感謝してますよ。ちょっと気が滅入ってたんで、あなたのおかげで元気がでました。”

と、そう唇を動かせば、イルカはそうですか、と嬉しそうに笑った。本当に嬉しそうに笑うものだから、カカシまでつられてくすりと笑ってしまった。
そこで鍋が噴きこぼれそうになってイルカは慌てて火を弱める。

「あ、じゃあ雑炊は、えーと、もう二人分の材料で用意しちゃったんで、一緒に食べていってもらってもいいですか?」

ちょっと申し訳なさそうに苦笑するイルカにカカシは快く頷いた。

「じゃあ居間の方で待っててもらっていいですか?ちょっと散らかってるんですけど座る場所くらいは確保できますから。すぐにできますからね。」

頷くとカカシは指し示された部屋へと向かった。
果たして部屋は本当に散らかっていた。さきほどの風呂がとても綺麗に整頓されていたので、居間のちらかりもさほどではないだろうとたかをくくっていたがそれは間違いだったようだ。あちらこちらに巻物やプリントが散らばっており、さきほどイルカが自分で担いでいたと思われる荷物がどでん、と卓袱台の上に置いてあった。これでは雑炊ができても置くところがないだろうに、とカカシは差し障りの無いように片付けをはじめた。濡れていた髪は粗方乾き、滴も落ちなくなっていた。
アカデミーの教師だと言っていたから資料系は下手に触らずに新聞だとか爪切り、耳かきなどの日用品だとかをひとまとめにした。ここまでちらかしているということは日常的にこういう状況なのだろうと推測する。風呂場だけが使い込まれているにもかかわらず綺麗にしていると言うことは風呂が好きだからだろうか。そう言えば脱衣所にいくつもの温泉の元が置いてあった。
そうやってイルカの生態を頭の中で分析していると、本人が土鍋と鍋敷きをもってやってた。カカシが鍋敷きを取って卓袱台の上に置き、その上にイルカが土鍋を置くとまた台所に戻って茶碗と箸をもって帰ってきた。そしてふたをあけてあつあつの雑炊をよそっていく。そしてカカシに箸と共に手渡した。

「熱いですから気を付けて。」

そう言って自分の分もよそうと座布団に座った。カカシも座布団に座ってふうふうとさましながら口に運ぶ。お、なかなかうまい。どっかの料亭って感じの味じゃないけど、素朴な味が食欲をそそる。

「うまいですか?」

ちょこっとだけ心配そうに聞いてきたイルカらカカシはにっと笑って親指を立てた。

「そうですか、よかった。俺雑炊だけは結構自信があるんですよ、よく遠征先で飯炊き係りにされるんでこういったごった煮系だけは得意になっちゃって。」

イルカはずずっと雑炊をすする。彼は熱いものでもあまりさまさずに食べられるらしい。
それからおかわりもして土鍋の中身は空っぽになってしまった。
ふと、カカシは部屋の隅に転がっている四角い手のひらサイズの箱に気が付いた。見たことのないものだ。何か機械のようだが。
カカシの視線の先を同じように見てイルカがああ、と納得したようにその箱の所まで行って手に取った。

「おもちゃなんですよ。この間もらったんです。」

そう言ってイルカは箱についていたボタンを押した。そこから聞こえてきたのはかわいらしい女の子の歌声だった。