イルカは頭からすっぽりと大きな布を覆い、砂埃の舞い上がる街の中にいた。木の葉とは気候も風土も違うということは知識としてだけなら知っていたし、この街の近くは何度となく遠目に見たりしていたが、実際に入ってみればそれは随分とイルカを戸惑わせた。だがここであたふたとしていいれば却って目立ってしまうことは諜報活動をする者としては基本的に知っていることである。別に今は諜報活動をしているわけでもないし、こそこそする必要はないのだが、それでも恥である。かつて数回だけしたことのある諜報任務での失敗などを頭に浮かべつつ、イルカは街の中で人を捜す。
探しているのはあのばあちゃんだった。
イルカは街頭で人捜しをしながら、ここ数日の目の回るような展開を思い出していた。
それは数日前、カカシが任務に里を発って数日後のこと。それまではカカシがいつもご飯を食べにイルカの家に来ていたから感じていなかったのだが、急に人のいなくなった食卓は随分と味気ないものだった。今までだって1人でずっとご飯を食べてきて慣れていると言うのに、心に風が吹き込んで痛いような、ヒビの入るような痛みにも似た感情が沸き上がっていたのだった。
そこで最近はあまり聞いていなかったあのおもちゃを思い出した。カカシが来てからと言うもの、その存在すら忘れかけていたイルカだったが、急に聞きたくなったのだ。特にあの男の声を聞きたい。
ちょっとだけ、不謹慎にもカカシの声はこんな声だったらいいなあ、と思ったりもしていたわけで。
なんて自分で恥ずかしく思いつつもボタンを押して声を流す。

『おかえりなさい。』

その声を聞いてイルカは心を和ませた。カカシが帰ってきたらまたここでご飯を食べる生活になるだろうからそしたらまたこれは用なしになってしまうのだろうが、カカシのいない時はこれで紛らわせよう、そう思ったのだ。
だが、そう思っていた矢先、ドアをノックする音が聞こえてきた。イルカはまさかカカシじゃああるまいなあと、と苦笑を浮かべつつもドアを開けた。
ドアを開けて影が走り抜けたと思った瞬間、イルカはその場に押さえつけられていた。腕を拘束されている。物取りか?だがこんな独り身の自分にそんな大金なぞあるわけがない。イルカは恐る恐る周りの状況を見た。そこでは数人の男たちがイルカの部屋を家捜ししていた。まるで犯人扱いだ。一体全体なにがどうなっている?とイルカは近くにいた男に視線を向けた。

「どういう、ことだ。何故俺がこんな扱いを受けねばならないんだっ!」

だがイルカの問いかけに答えることなく、1人の男があのおもちゃを手に取った。そして男はイルカがやったように赤いボタンを押した。すると同じように流れてくる声にイルカの部屋にいた男たちはどよどよと騒ぎ出した。

「やはりな、先輩の声だ。」

暗部面をかぶっている男がそう言ってイルカの前に立った。そしてイルカを蹴りつけた。ぐっ、とイルカは呻いた。鍛錬しているとは言え、相手は暗部、こちらは中忍である。力の差は歴然としている。

「よくもまあ、先輩をたぶらかしてくれたもんだな。でもこれでやっと目を覚ましてくれる。あの人は高貴なお方なんだ。お前なぞと一緒に食事をしていい人じゃないんだよっ。」

暗部面の男はそう言って今度はイルカの顔を蹴り上げた。口が切れて血の味が口の中に広がる。
食事を一緒にしている?アカデミーの昼休みのことか?いや、そんなの何年も前から一緒のメンツじゃねえか。とすれば、最近一緒に食事をしているあの人?

「カカシ、さん?」

イルカの疑問の言葉に暗部の男は苛々しているようだった。

「しらばっくれるな。お前が全ての元凶だってもう分かってんだ。カカシ先輩から奪った声でこんな気味の悪い機械なんか作りやがって。ま、詳しいことは尋問部で洗いざらい喋ってもらう。大人しくするんだな。」

暗部の男はそう言うとあのおもちゃを持ってイルカの家から去っていった。そして拘束されて尋問部の建物に連行されたイルカ。
まったく自分には身に覚えのないことで頭が混乱していたイルカだったが、それでもあの暗部の男の言葉を信じれば、あのおもちゃの男の声はカカシの声だということらしい。そんな馬鹿な、あのおもちゃが本当にカカシの声を奪って作られていると言うのか?そして自分はそのおもちゃを本人に見せていた?
カカシは自分の声だと知っていたのだろうか。いや、最初に見せた時に微妙な顔をしていたからあの時にはもう分かっていたんだ。でもそれならばどうしてすぐその場に聞いてこなかったのだろうか。分からない、カカシの意図が。ずっと一緒に夕食を取って、世間話をしていただけだった。
嫌な考えだが、イルカと食事を取っていたのはあの機械を探る目的だったとして、だがあれから一度だってあの機械のことには触れてこなかった。暗部の男が先輩と呼んでいたくらいだからきっとカカシは暗部クラスの忍びなのだろうと想像できるが、そんな実力を持った人が中忍の自分を探るためにわざわざ夕食を何日も一緒に取る必要があるだろうか。
あんなに楽しそうに、おいしそうにご飯を食べてくれた人が演技をしていたとは思えない。
だからカカシがイルカを探る目的でイルカの家を訪れていたということはありえない。
そこまで考えてイルカは自分がほっとしていることに気が付いた。
カカシが自分を疑っていたわけではないというその考えに至っただけでこんなに心が穏やかになる。疑われていただろうかという考えが出てきた時はあんなに苦しくて胸が張り裂けそうに痛くて嫌な気分で一杯だったのに、げんきんだなと思う反面、カカシのことでこんなに動揺して心が千々に乱れる自分に戸惑ってもいた。
普段の自分ならばもっと冷静にいられたと思うのに、それはまるで好きな人に対する感情のようでもあって。
って何考えてんだっ、とイルカは頭を振った。そうこう頭の中で考えていれば、やがて尋問者がやってきた。
イルカは尋問部でとりあえず自分の知る全てのことを正直に話した。
イラズの森で出会った老婆のこと、そしてお礼にともらったおもちゃのこと。
カカシの声以外にもそうやって声を奪われた者があんな風におもちゃになっていたのだろうか。知らなかったこととは言え、恐ろしい老婆、そして機械だ、とイルカは思った。
怪我は少々痛んだが、それでも精神的なショックの方が大きくてさほど気になることもなかった。そして時間が過ぎ、イルカはイビキと対面した。イビキとは前に何度か任務で一緒になったことがある。見かけによらず心根の優しい、芯のあるしっかりとした人格者だ。

「イルカ、ここしばらくの尋問の結果と状況判断でお前は開放されることになった。今まですまなかったな。どうやら思いこみの激しい男の勘違いでお前を誤認していたようだ。」

そう言ってイビキはイルカに頭を下げた。尋問部隊のリーダーにそんなことはさせられないとイルカは面を上げてくださいと慌てた。

「俺も、もう少し状況判断をしっかりとできていればもっと早くこのことをお知らせできいたでしょうに。お恥ずかしい限りです。」

切れた唇で笑おうとしてイルカはいてて、とちょっとうめきつつもなんとか笑みを浮かべた。それを見てイビキも微かに笑ったようだった。
そして開放されたイルカはそのまま火影の元に走った。そしてさっそく自分にあの老婆の探索をさせてほしいと頼み込んだのだった。あの老婆に会ってなんとしてもカカシの声を元に戻してもらうのだ。火影はあっさりと許可してくれた。何よりも自分がその老婆に一度でも接触できているという所が何かまた因縁めいたものがあるかもしれぬという見解らしかった。
イルカは火影の許可を得て風の国へ向かった。ただひたすらにカカシの声を取り戻すという一念だけがイルカの原動力だった。尋問という精神的疲労と、暗部に蹴られた腹と顔がまだ少し痛んだが、命に関わるような怪我でもない。
そしてイルカは風の国にたどり着いたのだった。
それから数日間、イルカはひたすらあの老婆を捜し続けた。あまり大きな動きは取れないから聞き込みも最小限にとどめ、自分の目での老婆探しを中心に行動した。
それでもやはりなかなか会うことはできなかった。大体一度会った時だってイラズの森、なんて普段は誰もこないような場所で出会ったのだ。こんな町中で出会えるという可能性はかなり低いに違いない。
だがイルカは諦めなかった。なにせカカシの声がかかっているのだ。諦めるわけにはいかない。イルカはあの老婆を見つけるためならばずっと探し続けるつもりだった。火影にも了承は得ている。裏を返せば、それほどカカシの声は必要なものなのだ。それを自分はずっと懐に抱えて愛でていたなどと、なんて恥ずかしい。
イルカはため息を吐いた。もうすぐ日暮れだ。一旦宿に戻って食事を取ることにする。そしてでてきた食事を前にして今日も一日収穫がなかったことに落胆した。
宿の食堂は旅行客でごった返して賑やかではあるのだが、この町に訪れている理由が深刻なので、同じように楽しんで食事を取るなんてことはできないイルカだった。
できればまたカカシとは自分と一緒に夕食を食べてほしいと思っていた。でも、声を取り戻してしまったら、もう食事をイルカの家で取る必要はなくなってしまうのだろうか?だとしたら寂しい。
二人で取った最後の食事の時、カカシは自分がいなくなると寂しい?とからかいを含んで聞いてきたが、あの時にその通りなんでまた絶対にご飯を食べに来て下さいねとでも言えば良かった。なんてとりとめのないことを考えてしまう。
イルカは味気のない食事を無理矢理腹の中に入れると席を立った。そして再び夜の街へと繰り出す。
今日はちょっと街の郊外へ行ってみようと、イルカは明かりの少ない方へと向かった。
段々と賑やかさが消えて住宅街に入っていき、やがて何もない平原が広がる場所までやってきた。こんな所に老婆がいるわけはないのだが、それでも今日はなんとなくぼんやりとしていたい気分だった。カカシにはちょっと申し訳ないが。
ちょっとした丘の頂上に座って欠けた月を見上げた。

「好き、なのかなあ。」

イルカはぽつりと呟いた。いくら自分がおせっかいな性格をしているからって、1人の人間にここまですることはありえない。それはきっと特別にしたいと思うからなんじゃないだろうか。それはつまり、とその先を考えてイルカは赤面した。
ふと、月明かりにさらされて井戸が見えた。そこで水をくんでいる人がいる。夜中に水を汲みに来るのか、夜道につまづいて転ばなけりゃいいけど、と思いながらイルカは立ち上がった。そして井戸水を汲んでいる人に声をかけた。

「水くみ、お手伝いしましょうか?月明かりで明るいとは言え手元は暗くなりますし。」

イルカが声をかけると、その人はそうかい?と顔をこちらに向けた。

「あああああっ、ばあちゃんっ!」

イルカは叫んだ。

「おや、この間の親切な人じゃないかい。よく会うねえ。」

老婆はにこりと笑った。

「いや、そうじゃなくて、あのっ、」

「水をくむのを手伝ってくれるのかい?」

言われてイルカはとりあえず水くみを手伝うことにした。老婆はいくつもの樽に水をくみ入れていた。近くでラクダが座って待っている。このラクダに台車を轢かせるのだろう。

「ばあちゃん、この水どうすんの?」

不思議に思って聞くと、老婆は旅支度さ、と呟いた。

「砂漠を旅するからねえ。水は必要なのさ。」

「そうだね、砂漠では必要以上に水を確保しないとね。でもばあちゃんが1人で飲むには多すぎじゃないか?」

樽はいくつもあり、台車に乗せられている。一体何日かけて砂漠を旅するつもりなのか。

「水が必要なのはわたしじゃないよ、人だ。お前さんももう分かっているんだろう?」

老婆の言葉にイルカはごくりと喉を鳴らした。それはつまり、老婆が人外だと自分で白状しているようなものだ。

「では、どうして水を?」

「砂漠では水を欲する人が出てくる。わたしはそいつらに水を提供し、そしてその代償をもらうのさ。一利一害、それはこの世の定めでもある。」

一利一害、利益を得るためには何か害も出てくる。確かにそういうこともあるだろう。だがそれでもカカシの声は返してほしい。どうしても。
水を汲み終え、台車とラクダをちゃんと固定して作業は終わった。
そしてイルカは本題を話すことにした。

「ばあちゃん、前におもちゃをくれただろう?あのおもちゃの声をその主に返してやりたいんだ。その方法を教えてほしい。」

イルカの言葉に老婆は何を考えているのかさっぱり読みとれない表情を浮かべた。

「主に会ったのかい?」

イルカは頷くと、老婆は珍しいこともあるもんだと呟いた。

「わたしに二度も会う人物も珍しいと思っていたが、お前さんはどうやらそういったものを引きつける力があるようだね。」

老婆の言葉にイルカは首を傾げた。何を言っているのかよく分からない。

「わかった、元に戻す方法を教えよう。だが、一つお前さんからもらいたいものがある。それをもらおうか?」

「わかりました。」

「おや、まだなにをもらうか聞いていないのに頷いていいのかい?もしたかしたらその命かもしれないよ?」

「えっ、命!?あー、えーと、できれば命を取るなら声を戻してからにしてくれないかな?死んだらできないし。」

イルカが言うと老婆は声を上げて笑い出した。得体の知れない老婆がここまで感情を露わにしているのを見てイルカは少々面食らった。

「はあ、お前さんには敵わないねえ。もらうものは大したもんじゃないよ、今のお前さんにとってはね。さあ、方法を教えようか。なに、簡単なことさ。」

老婆はイルカに耳打ちをした。かすれた老婆の言葉を聞く漏らすまいとイルカは真剣に耳を傾けた。そして聞き終わるとイルカはさっそく木の葉に帰ることにした。

「もう行くのかい?そうだね、そのためにわたしを探していたんだろうからね。もらうものはちゃんともらったよ。もう会うことはないだろうから、達者でね。」

老婆の言葉にイルカは笑って頷いた。そしてぺこりと頭を下げるとそのまま宿に戻って旅支度をして木の葉へと向かったのだった。