15. あこるでぃおん

 

「あああああっ」

目の前で男は声を上げて呻いている。両目を手で押さえて意味もなく動き回っている。その両手の間から血が滴り落ちていく。
イルカはその光景をぼんやりと見ていた。何が起こったのだ?自分はまだ起爆札を発動させてない、両目も無事だ。なのに何故自分ではなく相手が負傷してるんだ?

「ちくしょう、ちくしょう、どこだ、どこにいるっ、」

男は喚きながら武器を振り回してその反動で倒れこむ。そしてそのまま蹲って呪詛を吐き出す。
いつの間にかイルカは自分の肩を誰かに抱かれていた。横に人がいる。体を支えられていたことにすら気づかなかった。誰だろうと横を見てイルカは、安堵と共に泣きそうになる声を振り絞った。

「カカシ先生、」

イルカに呼ばれてカカシはにこりと笑った。どこにも怪我らしいところは無い、カカシが無事、それはとても嬉しい。でもこれはどういうことなのだ、どうしてカカシがここに、男は呻いているのだ。カカシが攻撃したのだろうか。

「遅くなってすみませんねえ、色々やっていて時間食いまして。」

カカシはうまく立つことすらおぼつかないイルカの腰を抱いて抱えるようにしてイルカを立たせている。感じる体温に涙が出そうだ。

「あの男はどうして、それに呪術で本体は別にあるんです。あの僧を攻撃しても意味が、」

「いえあります。彼女が僧の体を通じて本体に同時に攻撃すると言っていましたから。」

彼女、と聞いてイルカは辺りを見回した。森の木々の間、木の上に彼女は座っていた。手に何か楽器のようなものを持ち、弾いているようだ。微かに音が聞こえる。

「どうして、どうやってここへ?ヒスイを陥れる術が森にしかけられていたんです。彼女の態度がおかしかったのはそのせいで、」

「ええ、知っていますよ。」

カカシはポケットから何かの石の破片のようなものを取り出した。それらをイルカに見せる。

「これは?」

「呪術の固定をするための結晶石です。これを探すのに手間取って遅くなりました。」

そう言うとカカシはそれを握りこんで完全に粉砕してしまった。
彼女にかかっていた呪術を解いたというのだろうか。だがどうやって?彼女は悪霊化しつつあった状況だったろうに、その彼女を差し置いて森を探している余裕などあったのだろうか。

「だって彼女は、」

その時、一際大きな声が響いて男はとうとう仰向けに転がった。口から血の混じった泡を吹き、目を見開いている。もっとも、その両目とも潰れていたが。
ヒスイが木から降りてこちらへとやってきた。そしてイルカの前に立つと頭を下げた。

イルカ、ごめんね。あたしが不甲斐ないばかりに辛い思いをさせてしまった。

ヒスイの言葉にイルカは首を横に振った。

「違うよ、俺は、」

あいつの術を見破ることもできず、悪霊化しつつあったあたしを繋ぎとめていたのは確かにイルカ、あんたとウスビだったのよ。

イルカの言葉を遮ってヒスイは顔を上げて微かに笑ったようだった。

「ウスビ?だけどウスビは戦場で死んで、俺は何もわかってやれずに、」

イルカはあたしに毎年会いに来てくれた。誰もが怖がり、恐れているこの森に。それにあたしを人として普通に接してくれた。それはね、本当に難しいことなのよ、こんな姿になってしまったあたしにとってはね。それにウスビは、一度だけあたしに会いに来たことがあるのよ。その時にこれをくれたわ。

そう言って取り出してイルカに見せたのは小さなリングだった。何の変哲もないリングだったが、今まで何も受け取ろうとしなかったヒスイが唯一受け取ったものなのならばそれは彼女にとってよっぽど価値のあるものなのだろう。

「これは?」

婚約指輪だそうよ。

イルカは息を呑んだ。ヒスイがとても嬉しそうな顔をしたからだ。随分と見ていなかった顔だ。それにウスビがヒスイに婚約指輪?どういうことだろう。

信じてもらえないだろうけど、あたしは幸せなのよ。

「ヒスイ、」

好きだと言ってくれたから、幸せなの。

いつも一人、肩を張って班をまとめて引っ張っていた彼女、強くて我がままで、でも大切な仲間だった。およそ女の子らしいことに見向きもせずに忍びとしてぐんぐん力をつけていって班の誰よりも上忍の道を歩んでいた彼女。その彼女が笑う。女の子の顔で、優しい笑みを浮かべている。

「ヒスイ、」
イルカ、はめてくれる?

ヒスイがイルカに指輪を差し出す。俺がはめていいものだろうかと一瞬躊躇したイルカだったが、ウスビはいない。彼女が望むならば彼の代わりに指輪をはめよう。

「ヒスイ、あんた、」

それまで黙っていたカカシがここで始めてヒスイに向かって声を出した。だがヒスイは笑ってそれを優しく拒絶する。それでカカシは黙ってしまった。
なんだろう?だが指輪をはめるだけだ。そうしたら何があったのかを全て聞こう。
イルカはヒスイの手を取った。小さい女の子の手だ。この手は昔も今もイルカを救ってくれた。守られてばかりで不甲斐ないのはこちらだ。
イルカは指輪をヒスイの左手の薬指にはめた。その途端、どんどんヒスイの体が透けはじめた。
イルカは慌ててヒスイの手を取ろうとした。だがその手は空を切るばかりだ。

「ヒスイっ、」

驚愕に声を上げれば、ヒスイはひどく満足そうに笑っている。

もう行くわね。イルカは一人じゃないし、私がいなくても大丈夫。

そう言ってヒスイはどんどん透けていく。薄い光の帯が彼女の体を消し去るかのようだ。
ヒスイは最後まで笑っていた。イルカは、その姿をただ呆然と見守ることしかできなかった。突然すぎて、なにもかもが現実味を帯びない夢のようで。
イルカはその場に崩れ落ちた。