8. 江戸ポルカ

 

数日後、森へ行くと彼女はあの開けた場所の木の上で、イルカのほうをちらりとも見ないで遠くを見ていた。
一緒に食べようと思っていた団子と茶をシートに広げて、だがヒスイが来るまで手を付けずに待っていたイルカはいつもよりも寡黙な彼女を不思議に思いながらも声をかけた。

「ヒスイ、こっちに来て一緒に食べよう。この団子、好きだったろう?」

だが返ってきた答えは想像していたものとはまるで違っていた。

イルカ、あの銀の髪の男が好きなの?

イルカは硬直した。どうして?見られていた?彼女の力が及ぶのはこの森一帯だけではなかったのか。

「ヒスイ、違うよ。彼は上忍でね、俺はからかわれているだけなんだよ。」

ヒスイはいつの間にかイルカをじっと見ていた。黒い目が、その見透かすような目から逃れたいと思いつつも、彼女から目を逸らしてはいけないという警告めいた一念がイルカを支える。

あたし、あの男が欲しいわ。頂戴よ。

イルカは耳を疑った。今まで一度として彼女の方から物をねだられたことはない。いつも何かほしいものがあれば持ってくるとは言って来たが、彼女はそんなものはないといつも突っぱねてきたのだ。その彼女がはじめて欲しいと言ったものが、カカシだなどと。
イルカは子供を説き伏せるようにヒスイの目をしっかりと見据えて言った。

「ヒスイ、いくらなんでも人をあげることはできないよ。」

そうかしら、この森を開放すると言っても?この森にはまだまだ知られていない貴重なものが山ほどあるわ。あの人、名前はそう、カカシとか言っていたわね。はたけカカシならば名前だけ聞いたことがあるわ。幼少の頃から天才の名を欲しいままにしてきたそうね。今でも天才と言われ続けているなら賞金もそれなりに高いでしょうけど、この森の重要な物資に比べたら石ころの一つ程度にすぎないわ。

「やめろヒスイ。人は物じゃないんだ、わかってくれ。」

わからないわ。このことは火影にも伝えて頂戴。あたし本気よ。もしもこの条件を飲まないのならこの森の呪詛を木の葉の里にふりかけることもできるわ。

その言葉にイルカは段々と不安になってきた。

「ヒスイ、さっきからどうしたって言うんだ。今までそんなこと一度だって、」

そうよ、本性を隠してきたの。あたしをないがしろにしてきた木の葉を心底憎んでいるの。だからカカシで妥協してあげるって言ってるの。イルカだって別になんとも思ってないような人間なんでしょう?だったらいいじゃない。顔見知りが一人いなくなるだけよ、あたしみたいにね。』

にいっと笑った少女の口がいやに赤い。その姿が風に舞い、くるくると回ってイルカを翻弄する。
赤い口から歌うように笑い声が木霊する。ぐるぐると回って、まるで円舞を見ているようだ。なんて幻想的で、そして恐ろしい光景なのだろう。

「ヒスイ、だめだっ、木の葉に復讐したいなら、まず俺からすればいいだろうっ?お前をこの森に縛り付ける原因だった俺からっ。」

ケタケタケタケタと物の怪めいた声が辺りに充満する。その声かぴたりと止んで、すぐ耳元できちがいめいた高い少女の声が囁いた。

そんなの当たり前じゃない。だから奪うのよ、あんたの一番大事な人を。

鳥肌が立つ。だが硬直して動けない。あたりは静まり返り、いつの間にかヒスイはどこかへ行ってしまったと言うのに悪寒が止まらない。
彼女は復讐をしたいのか。木の葉の里ではなく自分に。それは当然の報いだ。受け入れなくてはならない。でも、その条件がカカシだなんて。
ヒスイはカカシが自分にとって大切な人間だと見抜いていた。自分がカカシを好きにならなければ、あの日この森の近くで出会わなければ。どう考え、悔いようとも現実は変わらない。
イルカは震える手で硬くなりかけた団子と冷え切った茶を片付け始めた。
どうすればいい?どうしたらいいんだ。一人ではなにも考えられない。
里は、きっと決断を迫られるだろう。一人の忍びの命と引き換えの里の命運など、どちらが重要かなど分かりきったことだ。

イルカは重い足取りで木の葉を目指した。

くるくると回る彼女の声が、いつまでもイルカの中で回り続けた。