「龍麻さん…。私、もっと早くにあなたに会いたかった……。ごめんね、兄さん。でも、これからはずっと一緒だから……」
少女は、火焔の奥にいた。
細い腕で正気を失った兄を守るように支え、そこに留まればどうなるか判っていて、動かない。
救われる事を拒み。
そのまま全てが終わるのを待つように。
「英司!!そんな所でぼけっとしてるんじゃない!紗夜連れて早くこっちに来い!!」
轟と燃え盛る炎を切り裂くように龍麻の声が響く。
そして、龍麻は英司に手を差し伸べた。
差し出された腕は学ランを肘の部分から破られ、晒された肌には無数の針を刺した傷跡で青紫に変色しており、手首も拘束されたことを示すように赤くなっている。
それなのに龍麻の手は英司に向けられている。自分を監禁し、あまつさえ人体実験まで行った張本人に。
龍麻の声は紗夜に抱えられた死蝋には届かなかったが、紗夜の瞳は驚愕に見開かれていた。
「――ッ、もたもたすんな!!」
無反応の死蝋に焦れて龍麻は、捲くし立てた。
「今更、やっちゃったことはしょうがないだろう。…もう、いいから。
死体泥棒はまずいけど、骨になる前に有効利用させてもらったって事にしよう。なっ。
あ、でも、後でお線香あげようような。俺も付き合うから…。花もあげて手も合わせるんだぞ。いいな」
身近に迫る炎の残酷な熱。それを忘れさせてしまう暖かい温もり――龍麻の想い――が紗夜と英司を包み込んだ。
「…え、えーと、俺のことなら、無賃で健康診断してもらって、無駄な献血して、断食修行でもしたと思うことにするから…。だから…」
声は、英司に向けられていたが、必死に紡ぎ出す言葉は紗夜にも向けられていた。
紗夜の言う『贖えない罪』などありはしないと、自分は二人を裁くつもりはないから、だから自ら『死』を、『罰』を望むような真似はするな、と。
裁く者がいなければ、罪人に『罰』が下ることはない。それはあの事件の時、幼い兄妹を虐げた者達が助かり、また両親を失った子供達に冷たくあたった名ばかりの親戚達が何の咎も受けていない事実をみれば明らかだ。何の力もない二人の子供は、彼等の仕打ちに一方的に痛めつけられただけで何も出来なかった。
それゆえ死蝋は『力』を渇望し、紗夜は逆らえなかった。
紗夜は、力無く首を左右に振る。
信じられなかった。
己を傷付けた人間とその罪まで赦せることが。
同じ様に傷付いた自分達は、全てに対して復讐することしか―――罰を与えることしか考えられなかったから。
今は、違うけれど…。
それでも、自分達兄妹が赦されて良いとも思えなかった。
「英司。紗夜を看護婦さんにしてやってくれよ。兄貴だったら妹の夢を叶えてやってくれ。頼む」
龍麻は、何の衒いも無くただ死蝋に声をかけ続けた。
その手を迷うことなく英司に差し伸べたままで。
紗夜を救えるのは自分ではなく、兄であるお前だけだという想いを込めて。
虚ろだった英司の瞳に微かな光が宿り、のろのろと視線を差し出された白い手に向けた。
その時、炎角の放った炎は、哀しい兄妹を呑みこんだ。
「紗夜!!英司!!」
飛び出した龍麻を京一が止めた。
龍麻の鋭い視線が京一を射貫く。
初めて見る自分を責めるきつい眼差し。
それでも京一はしっかりとその細過ぎる躯を腕に収めて、燃え尽きようとする廃ビルから龍麻を無理やり連れ出した。
京一の視線は、傷付き弱った龍麻から逸らされることは無かった。
泣くことも喚くこともしない。
静かに燃え尽きるビルを見つめていた。
眼を逸らさずに、事実を正面から受け止めている。
辛いはずなのに隣に立つ自分に寄り掛かろうともしない。
いっそ取り乱してくれた方がどれほど楽なことだろう。
そうすれば、気休めでも慰めて一時の安らぎを与えてやれるのに。
何もしてやれない自分が歯痒い。
限界だった。
「ひーちゃん。病院行くぞ」
京一は龍麻の腕を取った。
「は?何いってるんだ。京一。病院なんて行ける訳ないだろう。何て言って診て貰うんだよ。下手したら警察に通報されるぞ」
「桜ヶ丘があんだろ」
「正気か?たか子先生のトコだぞ」
京一のたか子に対する尋常でない苦手意識を知る龍麻は仰天する。
「んなコト気にしてる場合じゃねェだろ!
腕だってこんなに細くなってんのに。いい加減にしろよ!!」
こんな時まで人のことを気遣う龍麻に腹が立ち、声を荒げ、掴んでいる龍麻の手首を持ち上げる。
「落ち着け。京一」
とっさに醍醐が止めに入る。
すぐに手を下ろしたが、それでも京一は龍麻の腕を離そうとはしなかった。
「ひーちゃん。たか子先生に診て貰おうよ、ね」
「大丈夫だよ。小蒔。心配すんなって」
どう見ても大丈夫には見えないのに、それでも龍麻は笑顔で応える。
「お願いよ。龍麻。無理しないで。顔色だって良くないわ」
いつもであればフェミニストな龍麻は、女の子の――ましてや葵の――願いを聞かぬはずはないのに、今日に限って首を縦にしようとしない。
業を煮やした京一は龍麻を横抱きに抱えると有無を言わさず桜ヶ丘に連れていった。
普段の京一なら、腕の中にある龍麻の身体があまりに軽く頼りないことに不信を抱いただろうが、心配と何も出来なかった自分に苛立つ今の彼にそんな余裕はなく、一刻も早く病院に向かうことしか頭になかった。
桜ヶ丘中央病院。
院長岩山たか子は驚いていた。
京一が臆することなく自分を訪ねて来たこともだが、それよりも京一に抱えられ居心地悪そうにしている龍麻の様子に目を見張った。
「どうしたんだい?」
嫌がる龍麻を無視して京一が事情を説明する。
「わかった。さぁ。こっちにおいで緋勇」
京一が下ろした龍麻を診察室へ押し込め、後ろで不安に表情を歪める京一達に《氣》は弱っているが、乱れた様子はないから心配するなと言い置いて自分も診察室へ消えていった。
「お前さんの事情は知っているし、それを京一達にばらすつもりはないから安心しな」
診察室に二人っきりになって開口一番たか子が宣言する。
龍麻は一瞬びっくりした表情を浮かべたが、素直に学ランに手をかけた。
幾重もの布の下から現れた上半身は、白く柔らかな双の膨らみを有する娘の躯。
数十分が過ぎたか子医師が診察室から出て来ると待ちかねた京一達に囲まれた。
たか子はそんな彼等の様子に目を細めた。
「安心おし。軽い貧血と栄養失調と過労ぐらいで薬の影響も残っちゃいない。それより緋勇が呼んでる。いっておやり」
たか子の言葉が終わらないうちに仲間達は診察室に詰め掛けた。
ベッドの上で上半身を起こし点滴を受けている龍麻は、さっきから比べればかなり回復しているように見え、皆胸を撫で下ろした。
自然と表情が緩む。
そんな仲間の様子に一瞬何故か痛いような表情を龍麻は浮かべた。
「ありがとう。みんな」
いつもの笑顔。
安堵する醍醐達の横で京一だけが厳しい顔のままだった。
「何で英司や紗代の傍には皆みたいに優しい人がいてくれなかったんだろう。
そうすれば、あんな事にならずにすんだのに…」
ぽつりと龍麻が切り出した。
言葉の意味が掴めない京一達は黙っているしかない。
「俺、監禁されてる間、薬で意識が無かったんだ。
で、その間夢見てたんだけど……
いや、夢じゃないな。きっと紗夜と英司の過去を見てたんだと思う」
そんな事があるんだろうかという疑問さえ湧かなかった。ただ龍麻の言葉に耳を傾けていた。
「お父さんとお母さんが炎の上がる飛行機の中に残ってて。だから、紗夜と英司が他の生き残った人に助けて貰おうとするんだ。
だけど、誰も手を貸してくれなくて。
それだけじゃなくて、小さな紗夜達に、『邪魔だ』とか『こんなときに他人のことなんかかまってられるか』とか信じられないんだけど『弱いヤツは死ぬしかない』なんて言うんだ…」
「…酷い」
そう漏らした葵は、綺麗な柳眉を歪め、涙に潤んだ瞳をしていた。
「―――酷いけど、しょうがないよ。普通は、皆みたいに身の危険を冒してまで他人を助けようとしてくれる人の方が少ないんだから…さ。
でも、皆みたいな人が一人でもいいから、あの時の紗夜達の傍にいてくれたら…」
飲み込んだ言葉は…。
言わずとも皆に伝わっていた。
詮無い仮定であっても、そうであればあの二人が在り来りの仲の良い兄妹として過ごせたのでないか、と。
「とことんお人好しだな。龍麻は」
醍醐が苦笑混じりに呟くと、龍麻のほうは理解出来ないていないふうに首を傾げた。
「ホントだよ。そんな酷い目にあわされたのにさ」
小蒔は口を尖らせる。
龍麻の気持ちも解らないではないが、それでも仲間を傷付けられた怒りは簡単に収まるものでもない。
「酷くなんかないよ」
思ってもみない台詞を龍麻の口から出た。
あまりの台詞に自失してる仲間が立ち直る前に畳み掛けるように言葉を継いだ。
「俺だって同じ事をしたかもしれない。
俺だって大切な人を失わずに済む方法があるんなら手に入れたいと思うよ。
英司のやり方がまずかっただけで、それを否定することなんて出来ない」
「ひーちゃん。怒ってないの?」
確かに龍麻の言う通り、英司は紗夜を護る為に―――二度と愛する者を失わない為に『力』を『不死』を望んだんだろう、道を踏み外し狂気に陥ってまでも。
だからと言ってその目的の為に利用されるのは話が別だ。
理不尽に痛めつけられていい訳はない。
あの時、龍麻が英司に手を差し伸べることが出来たのは命の瀬戸際だったからで、まさか本当に何のわだかまりも無かったとは俄かに信じ難い。
そんな仲間の困惑を拭うかのように龍麻は柔らかな笑みを浮かべた。
纏う氣と同じく濁りの無い澄んだ笑顔。嘘偽りのない表情。
「怒ってないよ。
自分だってこの街を護りたいって『力』を使って闘ってるのに、なんで紗夜を護る『力』を欲しがる英司を責めることができるんだよ。そんなこと出来ないさ」
僅かに視線を落とし、俯く。
「……ただ、自分が不甲斐ないせいで二人を助けられなかったのが悔しいだけだよ」
俯いたせいで長い前髪が顔を隠した。
「勘違いすんなよ。ひーちゃん。
紗夜ちゃんが助かんなかったのは、鬼道衆のバカ野郎が邪魔したせいだろ。
ひーちゃんのせいじゃねェぞ!」
京一が断言する。
腰を落とし、龍麻と目線を合わせると無造作に前髪を掻き上げた。
露わになった龍麻の顔には、さっき迄あった紗夜や英司を想う透明な笑みもいつもの笑顔も無かった。
耐えるように堅く唇を引き結び、当惑に揺れる瞳で京一を見返していた。
「いいな」
「………」
「いいな」
言い聞かせるように重ねて言い。額にあった手を動かし、龍麻の頭を優しく撫ぜた。
そうされてやっと龍麻は、微かに頷いた。
その拍子に再び前髪が落ちて顔を覆ったが、今度はそのままにしておいた。
「疲れただろ。ゆっくり休めよ」
京一に倣って醍醐達も部屋を出ようとする。
「養生しろよ」
「おやすみなさい。龍麻」
「ひーちゃん。早くげ…」
「じゃあな。ひーちゃん」
小蒔の言葉を遮ると京一は皆を強引に部屋から連れ出した。
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