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越中真宗史異聞②
〜文明13年砺波郡一揆をめぐるネトウヨ的思考法による考察〜

 自分でもやたらと奇説に走るのはよくないとは思ってるんだけどねえ。でも、綽如の越中下向や瑞泉寺建立にはなにやら「子細」があった、ということを知った今、どうしたってワタシの思考はこういう方向に流れてしまう……。ということで、文明13年(1481年)2月18日に繰り広げられたとされる瑞泉寺と福光(満)城主・石黒光義との戦い(合戦の名前としては「田屋川原の戦い」が知られる一方、一連の越中一向一揆の一環として捉えた場合は「文明13年砺波郡一揆」という言い方もされる)について少しばかり――。

 従来、ワタシのこの戦いについての理解は①加賀国守護・富樫政親に弾圧された加賀の一向宗信徒が隣国越中に逃げ込んで井波の瑞泉寺に救いを求めた②こうなると富樫政親としても手が出せない。そこで、福光城主の石黒光義に瑞泉寺を討つよう頼んだ③これを受け石黒光義は瑞泉寺に攻撃を仕掛けるものの、瑞泉寺側の思わぬ反撃に遭って、なんとなんと、田屋の山田川原一帯で繰り広げられた一戦は石黒氏側の大敗。野尻村の安居寺まで引いた石黒勢は、結局、主従16人が揃って腹を切るというまさかの結末に④一方、勝った一向宗信徒はこれですっかり自信をつけて長享2年(1488年)には遂に富樫政親を討ち果たし、ここに以後約100年に渡る「加賀一向一揆」の幕が切って落とされた――と、粗々こんな感じ。で、この一連の経緯にいささかの疑念を覚える点が、実は前々からあった。それは、富樫政親が石黒光義に瑞泉寺を討つよう頼んだという、この「頼んだ」というのがどういうことなのか? 一方は加賀の国の守護であり、もう一方は越中の国の国人。だから、両者の間に指揮命令系統はない。ということで、この「依頼」は「命令」ではなく、それこそ「依頼」(県と南砺市教育委員会が現地に設置した案内板だと「要請」)なのだろう。しかし、そんな曖昧なものを根拠にして現に瑞泉寺に攻撃を仕掛け、思わぬ反撃に遭って主従16人が揃って腹を切るに至る――というコトの流れがね、どうも釈然としないというか。要するに、なんで石黒光義は加賀の国の守護の「依頼」なんか受ける気になったのか? これについては、石黒氏と富樫氏はともに利仁流藤原氏の流れを汲む同族であり、その誼から――とする説もあるようなんだけれど(『姓氏家系大辞典』をひも解くと、確かに石黒氏も富樫氏も利仁流藤原氏とされている)、でも藤原利仁って平安時代の人ですよ。同族ったって、本当に遠ーい遠ーい親戚ですよ。いまいち説得力がねえ……。

 まあ、そんなこんなで、この件は1つの謎だったんだよね、ワタシにとっては。しかし、そもそも綽如の越中下向や瑞泉寺建立にはある「子細」があったとする前提に立つならばいろいろと見えてくるものがある。まず「越中真宗史異聞①〜浄土真宗第5世宗主・綽如と瑞泉寺をめぐる「子細」〜」に記したことを再確認するならば、綽如の越中下向にはもう誰の目にも南朝の頽勢は明らかというタイミングを見計らって南朝の有力拠点(さしずめ「南朝の金城湯池」?)である越中に宣撫工作の手を伸ばすという隠された思惑(子細)があった。瑞泉寺が後小松天皇の勅願寺として建立されることになったのも同じような理由から。そんな中、明徳3年(1392年)閏10月5日には後亀山天皇から後小松天皇に三種の神器が引き渡され、ここに延元元年/建武3年(1336年)以来の皇統の分立状態に終止符が打たれた。綽如が謎の死を遂げたのはその翌年の明徳4年4月24日。こうしたコトの流れを踏まえるならば、嚴照寺の住職・西脇順祐師が物語る「綽如上人を京から派遣された北朝側の回し者だと曲解したこの地の南朝支持者に、井栗谷において惨殺され、遺体が谷内川に流された」――という綽如の最期をめぐる伝承もあながち俗伝と退けることはできない……と、粗々こんな感じなんだけれど、瑞泉寺と福光城主・石黒光義が戦ったのは文明13年なので、最初に綽如が越中の地に足を踏み入れた至徳元年(1384年)から数えるならば97年後、綽如が謎の死を遂げた明徳4年(1393年)から数えるならば88年後ということになる。いずれにしても、綽如をめぐってこの越中の地で(真偽不明のことどもも含めて)さまざまなことが繰り広げられてからは既に相当の年月が経過していることになる。しかし、当時の記憶が完全に忘れ去られるほどの時間はまだ経っていない――、そう言っていいはず。ここが重要なところでね、ここを取り違えるとこっから先の話の受け止め方が全く違ってくる。どういうことかというと――この文明13年当時でも南北朝時代はまだ完全には過去の話にはなっていなかったのだ。というのも、「錦の御旗という名の「負けフラグ」について〜令和3年夏に記す②〜」にも書いたように、室町時代のエリート官僚・壬生晴富の日記『晴富宿禰記』の文明11年7月11日の条として「南方宮、今時越後越中次第国人等奉送之、著越前国北庄給之由」。この「南方宮」とはほぼ間違いなく「西陣南帝」として知られる人物で、応仁・文明の乱の際に西軍によって「新主」として奉じられたことが『大乗院寺社雑事記』に記されている。またその素性については小倉宮の末裔(「小倉宮御末」「小倉宮御息」)とされており、それが事実ならば南朝第4代後亀山天皇の流れを引く紛うことなき皇胤ということになる。そういう人物が文明11年という時点でこの越中の地に足を踏み入れているのだ。だから、南北朝時代なるものはまだつづいていたと言ってもいいくらいで、もし仮に綽如の死をめぐって「遺恨」のようなものがこの地にわだかまっていたとするならば、それは文明13年当時においても少しも解消してはいなかっただろう――と、これが、以降、記すことの前提ね。

 で、なんで石黒光義は富樫政親の「依頼」なんか受ける気になったのか? という話に移るわけだけれど、これについてワタシがどんな奇説を展開しようとしているかは「越中真宗史異聞①〜浄土真宗第5世宗主・綽如と瑞泉寺をめぐる「子細」〜」をお読みいただいた方ならばもうあらかた予想がついているはず。そう、ワタシは越中が南朝の重要拠点であり、後醍醐天皇の第4皇子(あるいは第8皇子。当地では「後醍醐天皇八ノ宮宗良親王」として知られる)である宗良親王が興国3年(1342年)から2年ばかり当地に「駐駕」しているという事実を指摘した上で、こんなことを書き加えている――「ちなみに、その間、親王を物心両面でサポートしたのが木船城主の石黒重之で、後に瑞泉寺と戦うことになる福光城主・石黒光義とは同族。さらに言えば、その石黒光義が瑞泉寺との戦いに敗れて自害したとされるのがこの後に出てくる安居寺。この辺もいろいろ想像力を刺激されるところではある……」。宗良親王の越中潜幸については、大正13年に刊行された小柴直矩著『越中勤王史』(北陸タイムス社)なる本(ちなみに「駐駕」なる語の出所がこの本であります)ではこう記されている――

 越中は御同胞なる恆性皇子、曩に北條氏の毒刄に罹り命を殞させ給へた地である、親王は其頃賊名越氏を絕滅した勤王武士の吉野朝廷に心を寄するものあるを聞し召して深く御喜びになり、夫をたよりに興國三年の花笑ひ鳥歌ふ陽春、越後國寺泊を船出して越の海の荒波を渡り射水郡小境村、今の氷見郡宇波村字小境に無事著陸せられ、夫から古來越中の名勝地として歌人の吟詠に上り、靑松白砂相連る名子浦の石黑越前重之の館に憑られた。

 重之の遠租は坂上田村麻呂と同じやうに世間に呼ばれた藤原利仁將軍、源平血潮を倶利伽羅山の草に染た時、旭將軍木曾義仲の義軍に投じ、越中の土豪として名高い石黑太郞光弘の後胤である、重之勤王の心深く痛く親王の御不運を嘆いて御名を祕し、潛かに牧野の東弘寺に匿し、里人と共に朝夕恭敬庇護し奉つた、或る日のこと親王は隨從の侍大西佐渡守荒木柴田を伴ひ、名子浦に出で釣せられた、土人牧野なるもの親王の一行を一見し毛利といふものと請ふて御供し奉り、館に歸つて、饗應し其後更に里人と力を協せ、相互に丸木を以て新に宮を營み親王を遷し奉つた、不削木塚と稱へる、親王此地に御駐駕中は、專ら國内の勤王志士を鼓舞激勵せられ、或る時は二塚に出で、恆性皇子の遺蹟を訪れて御墓を弔ひ給ひ、如何に悲歎の淚に吳れさせ給ひしことであつたらう。

  有磯の浦吹風によはれかしいひしまゝなる法の音かは

 とは當時の世の中の形勢を嘆かせたまへる述懷である。

 ここに登場する石黒越前重之というのが木舟城主・石黒重之のことで、その館というのも木舟城のことだと思われる(「木舟城跡保存会」のHPでは「宗良親王と木舟城」という記事も公開されている)。で、当然のことながらこの石黒重之と石黒光義は同族ということになる。なんでも石黒太郞光弘の子孫は七流に分かれるとかで(『姓氏家系大辞典』)、おそらくは福光城を拠点とする石黒氏が本家で木舟の石黒氏は分家(「木舟城、城下町の歴史」にも「田屋川原の戦いで敗れ、石黒光義ら一族は安居寺で自害し石黒氏本家が衰退してしまいます。その後徐々に木舟石黒氏が勢力を強めていきます」と記されている)。で、『越中勤王史』に登場するのはその分家である木舟石黒氏だけで、本家である福光石黒氏が宗良親王の越中潜幸に当たってどのようにふるまったのかはうかがい知ることはできない。しかし、ここは素直に越中国の石黒一党が挙げて宗良親王に勤王の誠を捧げたものと考えたい。そう考えた時に、石黒氏にとって瑞泉寺とは不倶戴天の敵と言ってもいい存在だったのでは? という可能性が浮上してくることになる。瑞泉寺が後小松天皇の勅願寺として建立されたというのは間違いのない事実なのだから。それは、言うならば、南朝側である石黒氏の庭先に打ち込まれた北朝の楔。石黒氏からするならば、もう目障りこの上もなかっただろう。そんな石黒氏にとって富樫政親からの「依頼」は渡りに舟と言ってもいいものだったかもしれない。それこそ、これで瑞泉寺を討つ大義名分ができたという……。いずれにしても、文明13年、石黒一党が瑞泉寺と戦うに至った経緯について考えるに当たっては南北朝時代以来の因縁を考慮に入れた方がずっと見通しがよくなることだけは確か。いや、単に石黒一党が瑞泉寺と戦うに至った経緯ばかりではなく、合戦全体をめぐっても全く新しいパースペクティブを与えてくれるに違いない。要するにだ、この合戦、瑞泉寺側の大勝に終わるわけだけれど、なぜ瑞泉寺側はそんなに強かったのか? それは、彼らにはこの一戦に懸ける強いモチベーションがあったからではないか? ここで改めて嚴照寺の住職・西脇順祐師が物語るところを引くならば――「綽如上人は、氷見市論田を経由して砺波の地に入られ、嶋村で迎えられ元福岡(現在は庄川河川)に庵を設け、担いでこられた阿弥陀三尊像を安置された。これが嚴照寺の発祥である。そして、瑞泉寺建立のために近国を勧進して回られた。瑞泉寺勧進状には明徳初暦(一三九〇年)とある。綽如上人には、このように浄土真宗の教線を拡大する目的のほかに、南北合体の後も続いた南朝側の不満分子を慰撫する目的もあったのではないかと伝承から西脇師は推測する。ために、綽如上人を京から派遣された北朝側の回し者だと曲解したこの地の南朝支持者に、井栗谷において惨殺され、遺体が谷内川に流された」。実は、これに類する話は五箇山にも伝わっている。こちらでは綽如は「南朝方の凶刃に倒れ、簀巻きにして庄川に投入された」(『越中五箇山平村史』)とされている。で、ここで重要なのは、それが事実かどうかではない。そのような口承が存在するというこのことが重要なのであって、それはつまり当地の一向宗信徒の間ではそのように〝信じられていた〟ということである。そんな彼らからするならば、紛うことなき南朝方である石黒氏との一戦は綽如上人の仇を討つまたとない機会。これは、燃えないはずはないでしょう。一説によれば「田屋川原の戦い」に参じた瑞泉寺側の総勢は5,000人に上るとか。なぜ瑞泉寺がこれほどの数の〝善男善女〟の動員に成功したのか? それは、綽如上人の無念を晴らすのは今だ――と、瑞泉寺が信徒らに呼びかけたから。――と、自分のアタマの中だけで考えていると、どんどん考えが一方向に流れて行って、遂には自分でも制御できなくなってしまうという、まるで世のネトウヨ諸君みたいになっているのはわれながらなんとも……。