PW_PLUS


祝『日本ハードボイルド全集』完結
(と言いつつまたまたこんなことを書いてしまう。許せ)

 本来は、なぜ藤原審爾は「前夜」でも「殺し屋」でもなく「新宿その血の渇き」なんだ? ということで1本書くつもりだったんだけれど……変更。ただ、編集委員の中で「新宿その血の渇き」を推したの杉江松恋のはずで(杉江松恋はアドレナライズ版『新宿警察全集』の監修者)、そういう意味でのつながりはあるかな。というのも、杉江松恋が(順番から言えば大坪砂男に次ぐ2番手に抜擢された)山下諭一のプロフィールを紹介しつつ、こんなことを書いているんだ――「「通俗ハードボイルド」という呼称も、山下が命名したものだという」。これね、一種の訂正記事とでもいうか。杉江松恋は2000年に刊行された『日本ミステリー事典』ではこう書いていたので――「一貫して軽ハードボイルド作品を書き続けた」。で、これがなかなかフレーズとしてキャッチーで、山下諭一が2018年に亡くなっていることを踏まえるなら、このフレーズを以て作家・山下諭一の墓碑銘としてもいいくらい? で、晴れて刊行なった『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」でも杉江松恋は同じフレーズで山下諭一を紹介しているかというと……していない。代って「「通俗ハードボイルド」という呼称も、山下が命名したものだという」。これは、事実上、『日本ミステリー事典』で書いたことを訂正したものであると。で、そうであるならば、もう一歩踏み込んで、こう書いて欲しかったわけで――「一貫して通俗ハードボイルド作品を書き続けた」。これこそは作家・山下諭一の墓碑銘としてふさわしく……。

 まずね、本来、「軽○○」とか「通俗○○」というのは肯定的呼称たりえないはずなんですよ。しかし「軽ハードボイルド」も「通俗ハードボイルド」も肯定的意味合いで使われる(ことがある)という意味で非常にユニークだと、そう言っていいと思う。で、なんで「軽ハードボイルド」や「通俗ハードボイルド」が肯定的意味合いを持ち得るかといえば、前提として「正統ハードボイルド」なるものが纏う独特の「気取り」に対するこっぱずかしさみたいなものがあるんですよ。で、そのこっぱずかしさに耐えかねてネタに走ってしまった、というのが「軽ハードボイルド」や「通俗ハードボイルド」と呼ばれているものの本質だと、まあ、ワタシの理解ではそういうことになる。ただ、「軽ハードボイルド」はともかくとして、「通俗ハードボイルド」については別の捉え方をする向きもある。その1人に「正統ハードボイルド」派の代表格である生島治郎がいる。彼は直木賞受賞から間もない1967年10月、文藝春秋社発行の『漫画讀本』からハードボイルドについての寄稿を求められ、「ハードボイルド人間入門」なる一文を起草。その中でハードボイルドにもいろんなタイプがあるとして、こう記したのだ――

 日本でハードボイルドと云えば、まずタフガイ――マイク・ハマー登場するところのミッキー・スピレーンの作品が一番ポピュラーだが、これは通俗ハードボイルドと呼ばれている。
 なにが通俗かと云えば、主人公マイク・ハマーの精神内容が通俗なのである。スピレーンの作品には『裁くのは俺だ』という作品がある。題名からもわかるとおり、ハマー探偵は裁判官や陪審員なんか要らないとおっしゃっている。面倒くさい法的な手つづきをふまなくとも、おれが法律であり、おれが裁いてやるとりきんでいる。彼が裁き、カタをつけ、結局熱い熱い拳銃の弾をどてっ腹にぶちこむのはアメリカ市民の敵に対してである。彼は善の象徴であり、その相手は悪の象徴と、まことに色あいがはっきりしている。その辺があまりストレートすぎて通俗だというわけだ。つまり、彼の持っているモラルは、大多数のアメリカ市民の持っている道徳とぴったり一致するわけで、ただその道徳心の発揮を暴力という一番単純な方法で早く解決してしまう。日頃、自ら善と信ずることがなかなか悪にうちかちがたいことを痛感している市民にとっては、マイク・ハマーの安直な解決法がストレス解消にもってこいということになり、かくてスピレーンの作品はベスト・セラーになった。マイク・ハマーという主人公は、だから、一見異常な性格の持主のようだが、実はごくありきたりの市民道徳を持ったつまらない性格の持主である。ただ彼が極端に行動的で悪人に対しては非情に徹することができ、平気で拳銃で射殺してしまうというだけで、性格は一向に陰影がない。その辺を歩いているアメリカ人をスーパーマンにしたてあげただけの話だ。

 もうね、昨今の毒舌コメンテーターも真っ青。まさにナマシマ・ジロー(生島治郎の業界内での通り名。言うまでもなく、生意気だからそう陰口を叩かれていた、という話ではあるんですが、そういう事情を知らなかった中学生当時のワタシは五木寛之が1973年刊行のユーモア風刺小説『夜のドンキホーテ』で主人公の憂国の士に「生島治郎」を「ナマシマ・ジロー」と誤読させているのを真に受けて本当にそう読むんだと……)。いや、ナマシマ・ジローの舌鋒はこれに止まらない。これに続いて、では「正統ハードボイルド」とは何ぞや? ということをヒトクサリ論じた上で、こう2つのハードボイルドの違いを整理して見せる――

 通俗ハードボイルドと正統ハードボイルドの表面的な大きなちがいは、通俗ハードボイルド派の主人公は敵を倒すときにスーパーマン的な力を発揮するのに反して、正統ハードボイルド派の主人公はむしろやっつけられる時に異様な力を発揮して立ちあがるということであろう。いわば、通俗ハードボイルド小説は加害者の小説であり、正統ハードボイルド小説は被害者の小説なのである。

 いやー、そこまで言っちゃうとどうですかねえ。その場合、「通俗ハードボイルド」に当てはまるのは相当に限られるのでは? それこそ「マイク・ハマー」シリーズとあとは映画の『ダーティーハリー』シリーズとか、それくらいでは? だから、この部分については、多少、ナマシマ・ジローの筆が走りすぎたかなあ、と。ただ、そもそも彼は「通俗ハードボイルド」を代表するものとして「マイク・ハマー」シリーズを挙げた上で「なにが通俗かと云えば、主人公マイク・ハマーの精神内容が通俗なのである」と書いているわけで、この時点でその対象はすこぶる限られる、ということになる。だって、そこには「通俗ハードボイルド」なるものを「正統ハードボイルド」が纏う独特の「気取り」に対する批評と捉える視点は一切、存在しないわけだから。ただひたすらマイク・ハマー的な――ていうか、これはもうハッキリと、アメリカ的な、と言っていいでしょう――「正義」を振りかざす「加害者の小説」とした上でそれを戦後民主主義的な視点で撃つ、という文脈になっている(と思う)。必然的にその対象からはカーター・ブラウンの「アル・ウィーラー警部」シリーズだとかヘンリー・ケインの「ピーター・チェンバーズ」シリーズだとかは抜け落ちることになるわけだけれど(アル・ウィーラーもピーター・チェンバーズもそんな大それた「正義」など振りかざしたりはしない)――実は生島理論ではそれらを受け止める器が「軽ハードボイルド」であるとされているのだ。まずは「レイモンド・チャンドラーの作品などは全編これシニカルな警句とユーモアに充ちあふれている」とした上で――

 ハードボイルド小説には、このユーモラスな味と軽快なテンポを受けついだ軽ハードボイルド派、あるいは、ユーモア・ハードボイルド派と呼ばれる作品もある。クレイグ・ライスやカーター・ブラウンなどがその代表的な作家たちで、クレイグ・ライスは女ながら、乾いたユーモアを見事に生かした大人むきの作品を書いている。
 彼女の小説に登場する弁護士のマローンというおっさんはジンにビールをまぜた(ビールにジンをまぜるのではない)あやしげなカクテルに酔っぱらい、ショー・ガールと云えば眼の色を変え、しょっちゅう競馬でスッてばかりいるというまことに人間的なおっさんで、彼が金のないことを嘆いて酒場の片すみでつぶやくことは、
「ああ、おれはどうしてこう金をスッちまうんだろう。下らない女やふとった馬に……。ふとった女や下らない馬に……」
 このリフレーンの絶妙さは彼女のあざやかな才気を示している。
 こういうせりふを至るところにちりばめられるということは、名前こそ軽ハードボイルドだが、作家的な資質が決して軽くはないということだ。日本では、結城昌治がかつて本誌に連載した『死体置場は空の下』でこのタイプの作品を試みたことがあるくらいで、あまりこういう作品を書こうという作家はいない。

 ここでのミソは、「軽ハードボイルド」派の代表格としてカーター・ブラウンとともにクレイグ・ライスを挙げていることだろうね。でね、実は小泉喜美子も1984年に刊行した『メイン・ディッシュはミステリー』(新潮文庫)で↑とそっくりのことを書いているんだよ。まずは「チャンドラーの持っていた、あのしゃれたウイットに富むジョークやユーモアの要素がうんと拡大されて、全編、抱腹絶倒しながら読めるハードボイルド・ミステリーがいっぱいある」としてジョナサン・ラティマーの『モルグの女』を紹介した上で「この流れがのちのおふざけハードボイルドのナンバー・ワン、カーター・ブラウンや女流のクレイグ・ライスを生み出すのだ」。こういうのを夫唱婦随と言うのかな? ともあれ、ここにこうして「通俗ハードボイルド」と明確に峻別されるかたちで「軽ハードボイルド」なるものが定義された――ということになる。

 でね、ワタシは、これは1つのアイデアではあるとは思うんだ。要するに「正統ハードボイルド」なるものが纏う独特の「気取り」に対するこっぱずかしさみたいなものを念頭に置いた上で、そっからの逸脱を果たしたものとして一群の諧謔性に富んだハードボイルド小説を捉えた場合、そこに「マイク・ハマー」シリーズを加えるというのはムリがある。やっぱり「マイク・ハマー」シリーズだけは別なんですよ。で、まずは「正統ハードボイルド」とそれ以外、という分け方があって、その「それ以外」をさらに「マイク・ハマー」シリーズとそれ以外に分けるとするならば、「マイク・ハマー」シリーズに「通俗ハードボイルド」を当て、「それ以外」に「軽ハードボイルド」を当てるというのは1つのアイデアではあるだろうと。もちろん、これは、もともとそれぞれがどういう意味で使われていたかを考えるならばおかしな話なんですよ。つーか、もともとこの2つには違いなんてなかったんですよ。「軽ハードボイルド」が都筑道夫の造語であることはよく知られた事実だと思いますが、実は彼が「軽ハードボイルド」と呼んだものは相当に幅が広い。後に彼は『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の連載「推理作家の出来るまで」で当時をふり返って「ダシル・ハメットやレイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドに対置して、ミッキイ・スピレーンからピーター・チェイニイ、ジェイムズ・ハドリイ・チェイス、カーター・ブラウンまで、ひっくるめて、軽ハードボイルドと呼んだのだから、いささか乱暴ではあった」。一方の「通俗ハードボイルド」ですが……さあ、ここで冒頭の杉江松恋の〝訂正記事〟につながわるわけだけれど……実は「通俗ハードボイルド」なる用語の言い出しっぺは山下諭一なんだよね。これは鏡明が『フリースタイル』の連載「『マンハント』とその時代」で行なったインタビューで明かされた事実で、これがですね、生島治郎が『漫画讀本』で書いているのと読み比べると、同じ「通俗ハードボイルド」を話題にしながら、なんでこうも違うの? というような――

 最近は全然書かないんですが、ぼくも昔はちょっと小説を書いていた時期があって、それにやっぱり「マンハント」のやつがうつってます。女の子の描写なんかはほとんど「マンハント」じゃないかな。
山下 「砂時計みたいなおしり」とかね。
 そうそうそう(笑)。ああいうのってそういう感じがしますよね。おっぱいも、「メロンが二つついてる」みたいのってあった。うつってますね、完全に(笑)。
山下 あれをぼくは勝手に「通俗ハードボイルド」って呼んでたんだけど。
 あれ、一番最初に言いだしたのは山下さんなんですか!
山下 たぶんぼくだと思います。カーター・ブラウンみたいなのをね。ぼくも含めてだけど。基本的にぼくは女好きなんだろうと思うんですよ。ハードボイルドって女の描写がセクシーでしょう。
 そうですよね。本国では、「マンハント」は発禁になったりしてましたから。
山下 ミッキー・スピレーンなんか、やたらと女が出てくるじゃないですか。それに惹かれてたのかもしれません。

 もうね、アメリカ的正義だの「加害者の小説」だのはどこへ行った? と。その上で(って、これで文章つながるのかな?)注目ポイントは「カーター・ブラウンみたいなのを」という下りで、つまり山下諭一は「通俗ハードボイルド」の対象にカーター・ブラウンを含めていたということ。さらに、それに続いて「ミッキー・スピレーンなんか、やたらと女が出てくるじゃないですか。それに惹かれてたのかもしれません」。だから、こちらもミッキー・スピレインからカーター・ブラウンまで全部ひっくるめて「通俗ハードボイルド」と呼んでいたということになる(なお、ここはあえて素に戻って一言しておきますが、多分、都筑道夫も山下諭一もミッキー・スピレインに対して必ずしも否定的ではなかったんだと思う。だから、特段、ミッキー・スピレインを別扱いすることもなかった。実際、生島治郎が記したようなミッキー・スピレインに対する否定論は近年では見直される傾向にある。『海外ミステリー事典』でもワセダミステリクラブ出身で『大追跡』や『探偵物語』のプロデューサーとして知られる山口剛が「彼に対する初期の酷評の多くは、作品に即したものではなく、今日みると的を射たものは少なく、現在では逆に評価は高まっている」。確かにねえ、『裁くの俺だ』にしたってそんなに単純な話ではないですよ。特にあの最後なんかは読む側のリテラシーが試されると言ってもいいんじゃないかな? ただ、さは言いながらだ、ミッキー・スピレインはやっぱりミッキー・スピレインなんですよ。ハッキリ言って、他の誰とも違っている。少なくとも、ミッキー・スピレインとカーター・ブラウンを一緒くたにするというのはやっぱり乱暴ですって。その一点でワタシは生島治郎に一票を入れたいなと思っていて……)。だから、「軽ハードボイルド」と「通俗ハードボイルド」にはもともと違いなんてなかったんですよ。そこに後付けで違いを付与したのが生島理論ということになる。そして、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』第2代編集長にして第57回直木賞受賞者の重みということなのか、この「軽ハードボイルド」と「通俗ハードボイルド」をめぐる生島理論は一定程度、ミステリー界隈に浸透しているようで、『海外ミステリー事典』でも「軽ハードボイルド」の解説として「都筑道夫はスピレインなどいわゆる通俗ハードボイルドの作家も含めてこの名称で呼んでいたが、今では、もっと軽いタッチのハードボイルド・ミステリーに限定して使われている」(by権田萬治)。さらにその姉妹本である『日本ミステリー事典』では山下諭一を評して「一貫して軽ハードボイルド作品を書き続けた」(by杉江松恋)。確かに曾根達也がアメリカ的正義の体現者だとはワタシも思わない。だから、生島理論を踏まえる限りは、山下諭一は「通俗ハードボイルド」の書き手ではなく「軽ハードボイルド」の書き手、ということにはなるだろう。ただ、もともと「軽ハードボイルド」と「通俗ハードボイルド」には違いなんかなかった上に、当の山下諭一は「通俗ハードボイルド」という呼称を常用しており、かてて加えてその言い出しっぺだったっていうんだから。であるならば、この作家の墓碑銘として何がふさわしいかとなれば「一貫して通俗ハードボイルド作品を書き続けた」――だろうと。これが「通俗ハードボイルドの味方」を自認するものとしてのムッシュかまやつ流のこだわりとでも言おうか……。



 ところで、『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」に収録された「おれだけのサヨナラ」は『俺だけの埋葬簿』(芸文社)に収録された1編なんだけれど、山下諭一にはそれとよく似た「おれだけの点鬼簿」と題されたシリーズもあって――というか、そういうシリーズに着手したものの、掲載誌(『ハードボイルド・ミステリィ・マガジン』)が休刊となったためにわずか2話で頓挫となったなんとも残念なシリーズ(なお、杉江松恋は『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」で「おれだけのサヨナラ」を「おれだけの点鬼簿」の1編としているのだけれど、これは間違い。『俺だけの埋葬簿』と「おれだけの点鬼簿」はシリーズとしては全く別モノ。なんでこんな混同をしましたかねえ。つーか、この両シリーズを混同するようじゃ杉江松恋もまだまだ甘いと言わざるを得ず……)。当人にとってもこの結果は悔いの残るものだったようで、『フリースタイル』のインタビューでも「これはわりとまじめに書いたんですが、未完になってて全部仕上げたいなと思いながら、そのままになってる」。どうやら「おれだけの点鬼簿」は山下諭一にとっても特別な作品だったようなんだけれど……確かにね、読む側にとっても「おれだけの点鬼簿」は特別な作品ですよ。なにしろ、主人公である「おれ」のナリワイがねえ。ま、ここは読んでもらうことにしましょうか。第1話「灰色のサヨナラ」の冒頭部分。これを読めば本シリーズがの主人公「おれ」が何をナリワイとしているかがわかる――

 若い女だった。
 体じゅうの肉が、ぴっちりしまって、仰向けにねそべっていても、乳房の丘は、意地でもはっているように、高くもりあがっていた。
 薄暗い灯のしたで、若い女の体へ、おれはもう一度、頭から足のさきまで、ゆっくり視線を走らせた。左の乳房のしたに、小口径の弾丸がめりこんだらしい小さな穴と、膝のあたりに、ちょっとすり傷がある以外、白いなめらかなスロープには、虫垂炎の手術のあとも、目に立つようなほくろも、特徴になりそうなものはなにもなかった。膝の擦過傷は、たぶん、車のトランクに押しこまれたときにでもできたのだろう。
 暗い水の底へ沈めてしまうには、いささか惜しいような女だが、死んじまっているのではしょうがない。しかもおれは、この死体を処分する料金として、あたり前のサラリーマンが、一ヵ月かかって稼ぐよりも、もう少し多い額の金を、すでに受けとっている。
 人口一千万という東京で、一日に何人くらいの人間が死んでいくのか、おれは知らない。病気で死ぬやつ、事故で死ぬやつ、自分からこの世にサヨナラを告げるやつ、それに、殺されるやつだっているだろう。
 毎日できるたくさんの死体は、なかには監察医務院で解剖されたり、大学病院の死体置場へ送りこまれて、フォルマリンのプールで泳がされるのもいるだろうが、ほとんどは、無事に火葬場で灰になり、その一部が白い壺におさまって、墓石のしたの、暗い穴へぶちこまれることになっている。
 だが、世のなかには、そうした運命をたどらない死体だってある。たとえば、ある人間が死体をこしらえ、病死にも事故死にも見せられず、もちろん他殺死体としてほうっておきたくはないし、しかもその人間が、殺人犯にはなりたくないという場合だ。
 できた死体は、なんとか始末するよりしかたない。そして、こういう仕事を引受けてやれば、金になる。方法は簡単、死体をコンクリートづめにして、海の底へ沈めるという、それだけのことなんだが、かつてアメリカのギャングどもが愛用しただけあって、確実な点では最高だろう。東京が吐き出すゴミや汚物を、毎日いやというほどのみこんでいる東京湾の汚れっぷりには、少しくらいの死体を沈めたところで、なんの関係もなさそうだ。
 客の選り好みは、するつもりもないし、おれのボロ船まで、死体を運んできて、金さえキャッシュで払ってくれれば、よほど都合が悪くないかぎり、始末は引受けるたてまえだが、おれにもこのオンボロ自航船で、荷物を運ぶ本職があるし、わざわざ宣伝するような仕事でもないのだから、お得意はかぎられている。数も少ない。
 死体が運びこまれてくると、おれはだまって受取る。その死体が、生きているときに使っていた名前以外は、なにもきかない。名前だけをたずねておくのは、たとえば産婦人科医のなかに、自分がとりあげた赤ん坊の名前を、記念におぼえておくのがいるのと、たぶん同じ気持だろう。

 いや、産婦人科医の気持ちとは全然違うと思うけれど……。ともあれ、「おれ」はオンボロ船で荷物を運ぶという本業の傍ら、持ち込まれた死体をコンクリートづめにして海の底に沈めるという仕事を副業にしており、今しも若い女の死体の〝処分〟を行なおうとしているところ。報酬は「あたり前のサラリーマンが、一ヵ月かかって稼ぐよりも、もう少し多い額の金」……。要するに「おれ」は殺し屋ならぬ死体の処分屋、ということになる。しかし、まあ、あれだよな、『俺だけの埋葬簿』の主人公は殺し屋であるわけだけれど、殺し屋は埋葬なんてしないわけで。殺し屋シリーズの方を『俺だけの点鬼簿』としてこっちを「おれだけの埋葬簿」とした方がよかったのでは……? いずれにしても、主人公が死体の処分屋というのはハードボイルド小説としては他に類を見ないんじゃないだろうか? チェスター・ハイムズがハーレムの2人組の黒人刑事を主人公とした「墓掘りジョーンズと棺桶エド」シリーズを書いていますが、「墓掘りジョーンズ」だの「棺桶エド」だのというのはただのニックネームだから。実際に墓を掘ったり棺桶を作ったりするわけではない。それに対し「おれ」は墓こそ掘らないものの、持ち込まれた死体をコンクリートづめにして海の底に沈めることをナリワイとしており、ノワールということでもこっちの方が数段上でしょう(チェスター・ハイムズの「墓掘りジョーンズと棺桶エド」シリーズはフランス・ガリマール社のペーパーバック叢書「セリ・ノワール(Série Noire)」のために書かれた)。これには身構えざるを得ないですよ、この作家は一体どんな世界へとオレを連れていくつもりだろう? と。ところが、そんな読む側の力みをあざ笑うかのように、このあと、小説は至って普通の「通俗ハードボイルド」であるかのように進行するのだ。主人公が死体の処分屋なのになんでフツーの「通俗ハードボイルド」になりうるのか? それはね、↑の引用に続く下りを読んでもらえば凡の見当はつくだろう――

 本職の仕事が、ぽっかりとだえて、暇ができたとき、おれは死体の名前と、体や顔の特徴だけをたよりに、死体の過去をたずね歩いてみることがある。殺される人間には、たいていは殺されるだけの理由が、ちゃんとあるものだから、その過去をたずねて、別にどうしようというつもりはない。趣味といって悪ければ、好奇心というやつだ。

 要するにですね、「おれ」は処分を依頼された死体の身辺調査みたいなことを始めるのだ。そして女が立ち寄ったと思われる宝飾店も訪れるし、女が勤めていたバーにも足を踏み入れる。で、ラム・コリンズをすすりながらバーテンやホステスから根掘り葉掘り女のことを訊き出したり。その揚げ句には宝飾店の売り子と良い関係になって、ホテルの一室で……。やってることは、全く以て、私立探偵そのもの。しかも、女性関係がお盛んなあたりは完全に「通俗ハードボイルド」の私立探偵ですよ。それこそ、ダニー・ボイドとかピーター・チェンバーズとかね。これがどうにも腑に落ちない。だってさ、「おれ」は死体の処分をナリワイとしているわけですよ。死体の処分(埋葬業)ってのは、かつては「賤業」と見なされて、身分差別の理由ともされた。そんな仕事を「おれ」は殺し屋から請け負っているわけだけれど、見方を変えれば殺し屋は自分では死体の処分をせず人にやらしているわけで、なぜそうしているかといえば、それはやはり死体の処分が「賤業」であるという意識があるからでしょう。そういう職業に基づくヒエラルキーみたいなものが裏の世界にも厳然としてあって、死体の処分なんてのはその最下層に位置するもの――のはずなんですよ、本来ならばね。ところが「おれ」と殺し屋のやりとりからはそんなニュアンスは一向に感じられないし(2人はお互いを「あんた」と呼び合っており、その限りでは五分と五分の関係ということになる)、それどころかヒエラルキーの最下層に位置するはずの「おれ」にもそんな自覚は微塵もないということなのか、私立探偵よろしく死体の身辺調査みたいなことを始め、女が立ち寄ったと思われる宝飾店も訪れるし、女が勤めていたバーにも足を踏み入れる。しかも、訪れた宝飾店というのは「銀座の有名な店」で、その小物売り場であれこれと聞き込みを行なう。また、女が働いていたバーも銀座のバーで常連客には都議会議員もいる。死体の処分はあくまでも副業としても、本業だって「オンボロ自航船」で荷物を運ぶケチな水運業者に過ぎない。しかも、船は隅田川べりの掘割に停泊しており、寝起きもそこでしているのだから(これはハッキリと自分で言っている「隅田川のボロ船に住んでいる」と)、つまりは水上生活者ということになる。そんな男が一体どんな身なりで銀座の宝飾店だのバーだのに足を踏み入れたものか? さらには宝飾店の売り子と良い関係になって……。

 ここには何か非常に毒々しいものが仕掛けられているような気がする。ハードボイルド小説なるものの成り立ちに関わるようなね。もしかしたら山下諭一はこう問いかけているのかも知れない――これは「おれだけの点鬼簿」と題するシリーズの1作だけれど、キミが読み慣れているハードボイルド小説の主人公だってこの小説の主人公と置き換え可能なんだよ。そのことに気がついている? と。ハードボイルド小説で描かれているのはこういう世界なんだ――と、そう「一貫して通俗ハードボイルド作品を書き続けた」作家は問いかけている……。(追記:自分で読み返してみて、どうも論旨が曖昧というか。これだとワタシの意図したことが半分も伝わらないような。で、もしアナタに多少なりともこのオトコの酔狂につきあってやろうという侠気(?)がおありならぜひこちらをお読みください。「おれだけの点鬼簿」の「おれ」とは、言うならば善児なんだと思います。つーか、本来ならば、善児でなければならない男。さらに言えば、(通俗)ハードボイルドに描かれているすべての殺し屋とは善児なんですよ。善児こそはすべての殺し屋のロールモデル。しかし、善児がまとったような闇を(通俗)ハードボイルドに登場する殺し屋は誰一人としてまとっていない。そのことを、どうしたって考えざるを得ない。それは、すべての(通俗)ハードボイルド読みに突きつけられた問……。)