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壮士一たび去りて
〜ジュール・ブリュネと輪王寺宮公現法親王〜

 これから本稿でどういうことを記そうとも、ジュール・ブリュネがこの上もなく魅力的な人物であるというこの事実には微塵の揺らぎもない。ジュール・ブリュネがいてくれたおかげで箱館戦争がひときわ華やかなものとなったのは紛れもない事実だし、それこそ箱館戦争をこの上もなく「映画的(cinematic)」にしてくれた立役者ですよ。きっといつか箱館戦争をフィーチャーした映画が日米――ではなく、日仏合作で(もう日米合作のサムライ映画は懲り懲りです……)作られる日が来るはず。そうなったら、ジュール・ブリュネは榎本武揚や土方歳三を世界的ステージに導いてくれるエスコートということになる。ま、イメージとしては、カンヌ映画祭のレッドカーペットを日本人俳優陣を引き連れて闊歩するフランス人スター。だから、どういうことがあろうともジュール・ブリュネをディスるなんてことはありえないんだけど――ただ、この人物の行動を諸手を挙げて支持できるかというと、なかなか。むしろ、違和感を覚えざるを得ない点が多々ある。

 え、ブリュネが箱館戦争が最終局面にさしかかる前に戦線を離脱したことを言っているのかって? いや、それはいいんですよ。確かにブリュネは箱館戦争が最終局面を迎える前の4月29日には早々に箱館を脱出している。しかし、彼の目から見て、もう榎本軍の敗北は時間の問題だった。そして、五稜郭開城となって榎本軍の将兵らが新政府軍に投降――となった時、その中にフランス軍人がいてはマズイ、ということはわかる。その時は、日仏の外交問題に発展するのは避けられない。だから、その前に離脱する、というのは賢明な選択だったのだろうと思う。また、同じ時期、板倉勝静らも箱館を脱出していることを考えるなら、榎本がブリュネらに強く脱出を求めたということも推定はできる。また、そもそもの話として、彼らには「玉砕」という発想はないんだろう。五稜郭を枕に討ち死に――などというのは、それこそ日本人ならではの発想で、最早ここまで、となったなら、さっさと「転進」するのは軍人としての当然の心得。だから、ブリュネらが箱館戦争の最終局面を待たずに戦線を離脱したことは、別にいいんだ。ただ、箱館脱出に当ってウートレーに提出した書簡――、これはそうはいかない。そこに記されていることはあまりにも身勝手と言わざるをえない。ここはいささか長くなるのだけれど、高橋邦太郎著『お雇い外国人⑥軍事』(鹿島研究所出版会)から紹介するなら――

 六月十五日(新暦)「コエトロゴン」艦上にて
 小官は、フランス軍事教官団の日本人生徒らが、蝦夷地に拠り、ここに行政のよく施行せられる植民地をつくることを援助するため、九月前に横浜を出発しました。
 部下の下士数名の協力を得て、小官はこの目的達成のため全力をつくしてきました。貴下の政策ならびに軍事団長の権威に累を及ぼすことを慮って、小官は職を辞したのであります。その聴許が本国より到達するのを待たず、自由なる行動をとったのは、小官の地位がきわめて不確実であったが故でありました。
 しかるに、小官のなしたところは不成功に終りました。
 徳川の家来たちは、一カ月このかた、海に陸に奮戦しています。
 海岸よりはるかに離れた個所ではいたるところで勝利を収めていますが、海岸では撃破されつづけています。敵は海沿いの断崖から絶対多数の兵力を進め、数量ともに卓絶した海上砲火によって射撃して攻撃を援護し、これに加えて、多数のイギリス砲手、陸戦隊が参加し、指揮している現状です。
 小官は、個人的に小官同様に久しい前から慎重に決意した同志とともに、蝦夷地で戦ってきました。
 引きつづくたびたびの失敗によって敗退の余儀なきにいたりましたが、しかし、失敗したことは少しも志気を失わせてはいません。
 同志の九名のうち四名が、蝦夷地の陸海の戦闘で負傷しましたが、これはとくに箱館海岸の最近の戦闘においてでありまして、これは猛烈な敵砲火の恐るべき惨禍によって起こったものでした。
 とうてい収拾すべからざる状況に陥ったため、ついに榎本軍が亀田の大要塞に立てこもるのにまかせるほかはありませんでした。
 小官のフランス人部下の一人が、また戦闘中に負傷しました。そして、また小官は徳川家来団にむかって、箱館の市が占領せられる際には、野戦病院に加えられるべき残虐な行為を恐れることを具陳し、フランス負傷兵を安全なところに避難させなければならないので「コエトロゴン」にその保護を求めたと説明しました。
 要するに、現状において徳川家来団は、小官の意見を採用することなく、きわめて狭い範囲に追いつめられて難局に立って、自らの力の限界に達しているのです。小官らの滞留を、このうえ延長することは無用であり、起こるべきフランス負傷兵の惨殺と小官の死がフランス政府に及ぼす重大な困惑が、眼に見えています。小官の申すことは、フランス陸軍の紀律に照らして正しいことと深く信ずるところであります。
「コエトロゴン」艦長は、小官の書翰にきわめて簡潔な文言で、乗艦を許可し、全員を艦に収容すると返答してくれました。そこで、一刻も猶予することなく、前記の戦闘当日の午後、部下全員のみならず、二名のフランス人宣教師と、フランス商人ファーブル氏を伴って搭乗しました。できるだけ速やかにフランスに立ち返り、各部隊に復帰、部隊長の好意によって、派遣中休席となっていた部署につきたく存じます。
(略)
 小官は蝦夷に起こりおる事件において、フランス人の領域とまったく絶縁してしまいましたので、改めて閣下の庇護を懇願いたします。当初より九カ月にわたる小官ならびに部下の行為が御不満でなければ、小官としては幸甚の至りであります。
 最も重傷のカズヌーブが旅行に堪えうる状態になりましたら、最近のフランスの便船にて出発したいと希望いたしております。もし、御面会いただけますならば、閣下に関心あり、興味ある委細を申し上げる光栄を有します。匆々

 さて、これを読んでアナタはどういう感想をお持ちになるだろう? まず気にかかるのは最後の方でウートレーに「庇護」を求めている部分ではないかと思うのだけど……ただ、複数の負傷兵を抱えている彼の立場から言えば、この局面でウートレーに「庇護」を求めるのもやむを得ない、とお考えの方もいるはず。しかし、彼は隊を脱走するに当っては「余は、断然フランス将校としての将来をなげうち、若き日本のために最善の努力を尽し、余が日本において得たる知己の友情に報いんと欲するものである。祖国フランスの栄光をかがやかすことなくんば、ただ死あるのみだ。フランス万歳。フランス陸軍万歳」(軍事顧問団の団長であるシャルル・シャノワーヌ参謀大尉に宛てた書簡の一節。同じようなトーンの書簡はナポレオン三世に宛てても記されている)――と、かの荊軻(始皇帝暗殺を企てた中国戦国時代の壮士。燕を出立するに当って詠んだ「風蕭蕭として易水寒し。壮士一たび去りて復た還らず」はあまりにも有名)も顔負けの悲壮なる覚悟を綴っていたのだ。それがこの期に及んでフランス公使館に「庇護」を求めるとは……。ただ、実はこの書簡で本当に問題視すべきは、そこではないのだ。その前。つまり、「できるだけ速やかにフランスに立ち返り、各部隊に復帰、部隊長の好意によって、派遣中休席となっていた部署につきたく存じます」――と申し入れている部分。これをどう思います? ワタシは、いくらなんでもそれは身勝手だろうと思うんですがね。フランス軍人という立場で(ブリュネは脱走に当って陸軍大臣宛てに辞表を提出しているものの、それが受理される前に隊を脱しているので、軍籍を持ったままだった)日本の内戦に一方の軍事顧問として〝介入〟し、そのことによって避けようもなく生じることになる仏日間の問題処理をウートレーに丸投げした上に、自らは脱走前――というか、日本派遣前に就いていた部署に復帰したいというのだ。そのことを――そこまでのことを、ウートレーに庇護を求める書簡の中で早くも申し出ているのだ。これはねえ、あまりにも虫が良過ぎると言わざるをえませんよ。もしワタシがウートレーだったらもうメッタメタに手紙を破り捨てて……(イメージとしては、内野聖陽演じる徳川家康が「直江状」を破り捨てた場面)。実際、ブリュネらは「コエトロゴン」号によって横浜まで移送されるのだけれど、ウートレーの判断で上陸は許されなかった。まあ、日本政府の目も気にしなければならないし、とてもじゃないけれど「寛大な処置」というわけには行きませんよ。結局、ブリュネらはそのまま母国に〝強制送還〟という処分となったのだけれど……

 ところが、母国で彼を待ち受けていたのは予想外の事態だった。なんとブリュネらを待ち受けていたのは民衆の「賛辞の声」だったというのだ。ここは合田一道著『大君の刀 ブリュネが持ち帰った日本刀の謎』(道新選書)より引くなら――

 ブリュネを乗せた船は二カ月間かかって一八六九年(明治二年)九月三日、フランスのマルセイユに着いた。皇帝の命により祖国を離れて三年、栄光から一転、いまは捕らわれの身である。ブリュネの心境は複雑に揺れていたであろう。
 ところがブリュネを待っていたのはフランス国民の思わぬ反響であった。皇帝ナポレオン三世に送ったブリュネの切々たる便りが新聞などを通じて紹介され、多くの国民の心を揺さぶったのである。港には帰国するブリュネを出迎える大勢の人々の賛辞の声で溢れたという。

 なるほどねえ。しかし、もしブリュネの帰国前にウートレーに宛てた書簡の内容が同じように新聞で報じられていたらどうだったろう? それでもフランス国民はブリュネらを「賛辞の声」で迎えただろうか? そこはなかなか微妙なのでは? たとえばだ、これを今に置き換えて考えてみようじゃないか。その場合は、断言してもいい、ネットを中心にその身勝手な主張を責め立てるバッシングの嵐が巻き起こっていたに違いない。それこそ、現下のネット空間を徘徊する「自己責任」という「妖怪(Gespenst)」は決してこの甘ったれたフランス軍人を許さないだろう。ちなみに、このことに関してなかなか興味深い事実がある。筆者が本稿ならびに「サムライは踊らない〜ジュール・ブリュネの脱走をめぐる『今そこにあるナゾ』〜」において参照した文献の内、このウートレー宛ての書簡を紹介しているのは上述『お雇い外国人⑥軍事』だけなのだ。『大君の刀 ブリュネが持ち帰った日本刀の謎』を書いた合田一道も『絹と光 : 知られざる日仏交流100年の歴史』を書いたクリスチャン・ポラックもLe véritable dernier Samouraï : l’épopée japonaise du capitaine Brunetを書いたフランソワ=グザヴィエ・エオンも、他の書簡は紹介しつつ、このウートレー宛てのものはスルーしている。やっぱりジュール・ブリュネという人物を一個の英雄として描こうとするそれらの文献では、この書簡は何かと都合の悪いものなのだろう。しかし、ジュール・ブリュネがウートレーに「庇護」を求めるに当ってこのような〝身勝手きわまりない〟手紙を送ったというのは紛れもない事実なのだ。

 で、ジュール・ブリュネの行動をめぐっては何かと違和感を抱かざるを得ない、という意味では、その後の生き方も。というのも、彼は一時的な謹慎こそ余儀なくされたものの、ほどなく処分は解除され、1870年には軍務に復帰。そして、その後は順調に昇進も果し、遂には陸軍参謀総長にまで上り詰めるのだ。

 これには戸惑いを覚えざるを得ません。単にこの「壮士」は還ってきてしまったばかりではなく、あろうことか何ごともなかったかのようにフランス軍人としてのキャリアの階梯を上りつづけた……。

 ちなみに、ブリュネと共に軍を脱走し、箱館で負傷したアンドレ・カズヌーヴはどうしたか? 彼もまたウートレーによって母国に〝強制送還〟とはなったのだけれど、どういうわけか明治4年には日本に戻ってきている。そして、かつて彼が世話をしていたアラビア馬を捜し出し、再びその世話に当っていた(カズヌーヴのフランス軍における身分は「フランス帝室種馬飼育場付伍長」)。しかし、同7年、現在の福島県双葉郡浪江町で急逝。つまり、彼は「日本に骨を埋めた」のだ……。とはいえ、別にワタシはブリュネにカズヌーヴのような生き方をして欲しかったと思っているわけではない。カズヌーヴの人生はカズヌーヴのものなのだし、ブリュネの人生はブリュネのものなのだから。そのものが選んだ人生を傍がとやかく言うべきではない。それに、ここで問題なのは、そういう生き方をしたブリュネではなく、そういう生き方を許したフランス軍側の方。ブリュネがどういう生き方を望んだって、軍の側が許さなければできないわけだから。そして、フランス軍は許したのだ、そういう生き方を、かつて脱走という重罪を犯した軍人に――。こうしたコトの運びの……何だろう? 大人が家出した子どもを再び家に迎える時みたいな感じ? かくて、すべては何ごともなかったかのように再開される……。

 さらに言えば、このコトの運びからもたらされる強烈な既視感――。はっきり言おう、ワタシにはこの一連の経緯が輪王寺宮公現法親王のケースに非常に似ているように思えるのだ。輪王寺宮公現法親王は戊辰戦争中、奥羽越列藩同盟の「盟主」の座に上った。しかし、奥羽越列藩同盟の敗色が濃くなった明治元年9月22日、奥羽追討平潟口総督・四条隆謌に「謝罪状」を提出し、新政府軍の軍門に降った(ちなみに、ジュール・ブリュネの「謝罪状」が非常に身勝手なものだとするなら、輪王寺宮の「謝罪状」は非常にザンネンなもので。曰く「一時顚倒心中惑亂之餘リ、前後何等之分別モ無之、只管官軍之探索ヲ相怖レ、終ニ不思寄奧州路ヘ一先相避候處」云々。一説には輪王寺宮は榎本艦隊の長鯨丸で奥州に向かう際、その決意を認めた書き置きを残していたとされ、その中で「不日に錦旗を靑天に飄し、會稽の恥辱を雪ぎ、速に佛敵朝敵退治せんと欲す」と記していたとさるのだけれど、この高揚感に満ちた言葉との落差がねえ……)。その後、東京(江戸はこの時点で既に東京と改められていた)に送還された輪王寺宮は短期の謹慎は余儀なくされたものの、ほどなく許されて同3年にはドイツに留学(ちなみに、この際、撮影されたと思われる洋装姿の写真が東京大学史料編纂所に所蔵されている。宮の写真としてはこれが最も早く写されたものと思われる。ちょっと片岡愛之助に似ているような気がするのだけど、どう? こりゃあ、モテますよ。ということで→)、その留学中にドイツ人女性と婚約騒動を巻き起こすという一幕もあったものの(実はこれによってまた謹慎を強いられている)、その後はいわゆる「皇族軍人」として軍務に精励、最終的には陸軍中将・近衛師団長まで昇進を遂げた(さらに、死後、陸軍大将に昇進)。ね、似てるでしょ? 違うのは、ブリュネが軍人としてのキャリアをつつがなく終え、ベッドの上で安らかに死んだのに対して、輪王寺宮公現法親王改め北白川宮能久親王が遠征先の台湾で病死とも自殺ともされる謎の死を遂げていることくらい(北白川宮能久親王の死は公式にはマラリアに罹患したことに伴う戦病死だったとされているものの、北白川宮の孫に当る有馬頼義が昭和43年に発表した「北白川宮生涯」の最後で、「某日、ある人から私のところへ電話がかかってきた。その人の言によると、能久親王はマラリヤで亡くなったのではなく、実はピストルで自殺されたのだという」。情報を寄せた人物は台湾遠征に加わっていた軍人の子孫で、有馬頼義によれば「ちゃんとした人」だという。しかし、結局、有馬頼義は「自殺説の根拠をなすものには、証拠がない」として当の人物と会うこともせず、この情報についても「こういう異説もある」として書き留めるに止めている。その判断を傍がどうこう言うべきではないのかもしれないけれど、しかしたとえば山口瞳だったならここで二の足を踏むようなことは決してしなかっただろう。むしろ「某日、ある人から私のところへ電話がかかってきた。その人の言によると、能久親王はマラリヤで亡くなったのではなく、実はピストルで自殺されたのだという」――というところから、一編の小説を始めていたのでは? 有馬頼義には文学者としての「業」が決定的に不足している――というか、そもそも彼がなんで「北白川宮生涯」を書いたのかが大いなる謎と言うべきなのだけれど……)。それ以外は実によく似ている。この事実に気がついた時、いささか慄然としたものです。似ているはずのない2人に共通点を見出すことほど人事の神秘を覚らされる出来事もない。結局、2人は、同じようなことをやったのだ――戊辰戦争中に。であるならば、その後のコトの運びが似たようなものとなるのも不思議はない、ということか? そして、その戊辰戦争中の行動にもかかわらず、ジュール・ブリュネの軍人としてのキャリアにも輪王寺宮公現法親王の皇族としてのキャリア(?)にもほとんど傷がつくことがなかった――あるいは、それぞれの国においてそういう〝処理〟が図られたのはなぜかといえば――そうすることが、ひいてはフランス軍の/日本皇室の権威を守ることにつながるから……。


パリ東部にあるペール・ラシェーズ墓地。エディット・ピアフ、ショパン、ビゼー、ポール・デュカス、プルースト、マリア・カラス、モディリアーニ、ジム・モリソンなど、多くのセレブが眠るこの墓地にジュール・ブリュネも眠っているという。