PW_PLUS


ある不良外国人に捧げる「時の娘」②

 ユージン・ミラー・ヴァン・リードが日本で「彼是屋」(石井研堂)として活動したのは、和暦で言うならば安政6年(「ある不良外国人に捧げる『時の娘』①」で紹介した『横浜毎日新聞』の訃報では「嘉永七年」となっているのだけど、これは明らかな誤り。嘉永7年は下田条約が締結された年)から明治6年までの14年間――ということになるのだけど、その間に彼が記した足跡を今、すべて跡付けることは不可能。逸見英夫が「仙台とヴァンリード」で記すように、「仙台藩の敗戦で、ウェンリードと仙台の関係、ウェンリードのことなどは、史料的に抹殺されてしまった」。しかし、その素顔をうかがい知る程度にはその足跡を跡付けることは可能。本稿では5つに絞って彼が手がけた仕事の「彼是」を振り返ることでその素顔を浮き彫りにするなら――

①『商用會話』の刊行

 ヴァン・リードはまだアメリカ領事館の書記生(clerk)だった1861年に1冊の書物を刊行している。それが『商用會話』。また翌年には『和英商話』と改めた第2版も刊行されている。そのタイトルから想像される通りのビジネス英会話のハンドブックで、そんなものを来日2年足らずで編纂してみせるんだから、大したものですよ。『明治事物起原』でヴァン・リードを「不埒を敢てせる『彼是屋』なりしが如し」と決めつけた石井研堂も『和英商話』について紹介しつつ――「ウヱンリイトは、後の大藏大臣高橋是清を、少年時代米國へ連れて行き、奴隸に賣飛ばせる惡辣なる者なれ共、一面には、かゝる小著あるも不思議なり」。そう思うなら、もう一歩踏み込んで、本当にヴァン・リードがそんなに「惡辣なる者」だったのか調べてみようという気には……ならなかったんだろうなあ。

 ちなみにヴァン・リードの5つ下の妹であるマーガレット・ポッパー・リード・ビドルがウィリアム・エリオット・グリフィスの求めに応じて書いた小伝なるものがあるのだけれど(梅溪昇編『お雇い外国人調査記録』に原文と訳文が収録。また国立国会図書館には原本のマイクロフィルムが所蔵されている)、その最後にはこんなことが記されている――

 あなたへの手紙にお答えしている時に、兄が編纂した「日英(辞書)」を高く評価しておられることを知り、私の所有する第2版をお送りしたく思い、発送いたしました。

 オレゴン州ポートランドに立ち寄った際、日本の店を通りがかった時に、ちょっとした出来事がありました。日本の店にはいつも誘惑されるのですが、ある店に入って、日本についての珍しい古本はないかと尋ねたところ、その答えは「ヴァン・リードの著作」で、最も古い4版だったのです。しかも、今や絶版のものでした。「もし、今、日本にいる私の叔父がここにいたら、それについてあなたに語り聞かせることができるでしょうに」と、(店主は)微笑みました。彼は、私がその著作を見たことがあるのか、または知っているのか、と尋ねずにはいられませんでした。そこで、私は答えました。――彼は私の兄でした!

 結局、世間は広いようで狭いものですね。

 この「兄が編纂した『日英(辞書)』」の第2版というのが『和英商話』に違いない。それにしても、オレゴン州ポートランドの古本屋に『和英商話』がねえ。本当に「世間は広いようで狭い」。

②下関戦争への〝従軍〟と「長州外國 戰爭日記」の寄稿

 ヴァン・リードが幕末史の一大事件である生麦事件の目撃者であったことは「ミカドの帝国」にも記した通りだけど、それから2年後の1864年にはより大きな幕末史の一大事件の目撃者となっている。その事件とは、英・仏・蘭・米の4国艦隊による下関砲撃事件、いわゆる「下関戦争」。

 この際、アメリカはタ・キアン(Ta-Kiang)という商船をチャーターして作戦に参加しているのだけれど(折しもアメリカは南北戦争中で日本には作戦にふさわしい軍艦が配備されていなかった。しかし4国艦隊による作戦という体裁にこだわったイギリス公使オールコックの意向もあり、商船をチャーターして砲艦に改造した上で参加することになった)、ヴァン・リードは時のアメリカ駐日公使ロバート・プラインの「個人秘書」という肩書きで同艦に搭乗、現地で4国艦隊による下関砲撃を目撃している。いや、それだけではない、実は彼はその見聞を日記形式のルポとしてまとめ、同年6月に創刊されたばかりだったその名も『新聞誌』という新聞に発表しているのだ。この『新聞誌』、ヴァン・リードの盟友とも言うべきジョセフ・ヒコが立ち上げたもので、翌年には『海外新聞』と改題され、ヒコが長崎に移る1866年まで発行が続けられた。そんな誕生して間もない〝日本初の新聞〟にヴァン・リードのルポは掲載されたわけだけど、この「長州外國 戰爭日記」と題された記事こそは日本初の〝戦場ルポ〟と言っていい。

長州
外國
 戰爭日記

亞墨利加       
軍艦ターキアン乘組  
ウエンリト

   七月廿八日晴
一亞墨利加ターキアン軍艦朝五ツ時乘組申酉ニ而蒸氣を沸騰し逆潮を擘き雷聲を轟し横濱出艦同日朝六時出艦之拾艘英佛軍艦浦賀下田之間ニ而行逢瞬目之間數里を隔見る事不能又下田より七里程先ニ而ヲランタ帆舶逢其間四五間を接する而已船將互説話ス支那上海より横濱來とのよし間も無フランス帆舶逢ふ互旗を揚け過行伊勢灣ニ而日西海沒する事
   同廿九日晴
一無絶間蒸氣を沸騰し晝夜運用土州沖ニ而夕陽成る事
   七月晦日
一晝八時伊豫國沖至り夕六時同國毛浦碇を下し暗礁を探索し測量す暮六時空砲拾發之事
   八月朔日晴
一晝九半時ヲランタ」ジヨンビ軍艦來ル同刻出艦夕七時豐後國屬嶋姫嶋兩艘共碇泊之事
   同二日晝八時より夕七時まで大雷雨
一朝四時より夜四時迄七月廿七日出艦之分とも拾六艘の軍艦追々着各同嶋碇泊之事
   同三日晴
一各國軍艦ヨリバツテイーラ卸シ嶋中之樣子見分之事
   同四日晴
一朝五時フランス軍艦先陣ニ而各列を正シク出艦下之關入口臺場を距ル事凡一里程手前ニ而碇泊又英軍艦壹艘蒸氣を盛いたし矢を發る如クニ而來ル暫時同所碇泊各國軍艦ヨリ遠鏡ニ而臺場之樣子其外隣國之形勢を見るのミニ而日を終る事
   同五日晴
一下之關入口向フランス」トーリレス艦先陣續ひて各出艦内四艘フランスヱキリス兩國艦ハ一ノ臺場ヨリ向ひ合晝九時いつれも碇を卸し長州の炮發を待事半時計先方更炮發無之故先陣之佛艦より英ユラリス艦今般之軍事惣督方使者來ル其内晝八時頃右艦ヨリ炮發する事一ツ夫を相圖して先陣之佛艦英艦より炮發恰も霹靂之如クニ而炮煙天漲り其形勢難盡筆紙臺場之炮發ハ艦まて不來水中落る事大半異艦之暴丹便破烈して臺場を崩し又ハ火藥藏火移り大火なり晝八半時頃は臺場は一人も長州勢無之只一面火勢盛なる凡夜四時頃迄燒る東西之臺場は火藥藏一ツ燒る而已有之炮發は暮六時頃止ミ候事
   八月六日晴
一朝六ツ時長州より炮發夫より異艦ニ而も炮發艦ハ千變萬化長州一二三之臺場より炮發無之四ノ臺場計炮發凡拾發計有之晝四時英佛蘭も一ノ臺場上陸凡千五百人程一二三四ノ臺場人數を分ケ何れも異人旗を建右四ケ所之陣所不殘ボンヘンニ而燒失最寄之民屋多分燒る暮六ツ時迄所々山之蔭ニ而長州方之伏兵ト戰爭有之其度々艦中ヨリ敵屯行側ボンベンを發ス陸戰は小銃之音而已ニ而長州勢壹人も不見臺場は一より四迄不殘異人之旗を建る且大炮は悉く火門釘を打暮六時至リ上陸之人數不殘歸艦晝夜諸方陣所竝民屋燒失之煙不絶事
   同月七日朝曇晝ヨリ

一朝六半時異艦士卒千五百人上陸戰爭無之長州勢敗走折々艦中ヨリ炮發亞墨利加國ターキアン艦之醫師ウユテル六日之上陸同行して四ノ臺場先陣行大將躰之者脱捨たる具足壹領持來ル矢並暴丹便之玉ヲ持來もの多分有之同日戰爭之手負人英艦より壹人爲養生晝八時頃右艦揚ル夕七ツ時遙三里程之連山長州勢異艦眺望之もの四五人有之其後今日至迄壹人も不見手負七人夕七半時カンクラ英艦より揚ル右は何れも小銃之手負ニ而六日戰爭之長勢凡四五千人程之伏兵も時々有之
 暮六時頃上陸之士卒とも歸艦夜九時頃迄諸方燒失之煙不絶事
   八月八日朝曇晝後
小雨

一朝六ツ時艦中之士卒千五百人上陸追々向進行同刻英艦より手負壹人同晝四半時外英艦より弐人當艦揚る晝九時長州方之重役壹人小船ニ而白き旗を建英艦コヲリス」惣督アムラル方來ル和を乞之應接有之晝九時半時諸艦中檣各白之旗を揚ル是は敵降參
之印なり
炮發相止明後十日晝九ツ時迄大膳大夫殿英艦惣督方ト和談之約定取繕参候心得ニ而戰爭見合候樣前條使者申聞候事
一六日之分
晝八半時佛艦上陸之士卒壹人戰死之もの死骸豐前之國小倉より出張之浦詰役人示談之上埋葬五番之臺場佛艦拾發計之炮發ニ而長州悉く敗走大炮三拾五不殘上陸之士卒火門釘を打候事
(後略)

 なお、「長州外國 戰爭日記」が掲載された『新聞誌』の現物は残っていない。しかし筆写されたものが残っていて、↑で紹介したのも八戸市立図書館所蔵の「南部家旧蔵本」に「新聞紙」の表題で収められているもので、おそらくは原本の『新聞誌』を筆写したものと思われる。これ以外にも福井県立図書館所蔵の「松平文庫」に収められている「長州下関外国船戦争実見日記」とか国立国会図書館所蔵の「宮塚叢書」に収められている「長州下関戦争日記」とか。『アメリカ彦藏自敍傳』の1864年8月20日の条には「此年余を訪ふて外國新聞を聞かんと欲するもの甚だ多く」との一節があって、いかに人々が下関戦争の情報に飢えていたかがうかがえるのだけど、これらの複数の写本の存在もそうした当時の消息を物語っているとは言えるか。

 それと、『新聞誌』の発行には岸田吟香も翻訳者として協力していたことが知られているのだけど、この「長州外國 戰爭日記」もヴァン・リードの原文を岸田吟香が邦訳したものである可能性が大。で、その岸田吟香はというと、チマタでは日本初の従軍記者ということになっていて(Wikipediaなどは「吟香は日本初の従軍記者でもあった」――と、わざわざ太字にして強調しているくらい)、それは明治7年、彼が日本が行った最初の海外派兵である台湾出兵に同行し、その見聞を「台湾従軍記」として『東京日日新聞』に連載したことによる。しかし実はその10年も前に既に「長州外國 戰爭日記」という〝戦場ルポ〟が書かれていた。だから本来ならばユージン・ミラー・ヴァン・リードが日本における戦場特派員の第1号とされていても何らおかしくないんだけど、なぜかそうはなっていない。歴史はユージン・ミラー・ヴァン・リードの業績を正当に評価することにとことん後ろ向きのようだ。

③海外渡航の斡旋

 幕末の政局がクライマックスへと突き進みつつあった1867年、ユージン・ミラー・ヴァン・リードはある〝ニュービジネス〟に乗り出していたことがわかっている。それが日本人の海外渡航を斡旋する〝旅行代理業〟。このことは『萬國新聞紙』に掲載された広告から裏付けられる。

 こうしたビジネスが可能となったのには理由がある。徳川幕府は慶応2年4月、「海外行き許可の認証に関する布告」を出し、「海外諸国向後学科修業又は商業の多免相越度志願の者は願出次第御差許可相成候」――と、学問修業ならびに商売目的の海外渡航を許可していた。真の意味で「鎖国」を終わらせる画期的な決定だったと言っていい。そしてそれを〝ビジネスチャンス〟と捉えたのが、われらが(?)ユージン・ミラー・ヴァン・リードということになる。

 で、『萬國新聞紙』に掲載された広告を見たのかどうかまではわからないのだけど、実際にヴァン・リードの斡旋でアメリカに渡った人物がいたこともわかっている。それが越前藩士の佐々木権六と柳本直太。佐々木権六は越前藩製造奉行、また柳本直太はその通訳という立場での渡米。高木不二「慶応期の越前藩政と中央政局」(『近代日本研究』第16号)によれば、2人が日本を発ったのは慶応3年4月、その目的は軍事関係資料の収集だったとされる。ちなみに高木論文には記されていないんだけど、マーガレット・ポッパー・リード・ビドルが書いた小伝によれば、この斡旋に関連してヴァン・リードは越前藩主から「銀をあしらった漆箱」を贈られているという。それだけ感謝されたということだろう。

 また、これは海外渡航の斡旋というのとは少しばかり事情が異なるのだけど、ヴァン・リードの手引きでアメリカに渡ったという意味で、こういう出来事があったということも紹介しておいた方がいいだろう。

 このケースの主役は小沢善平という人物。一般的には知名度ゼロと言っていいと思うんだけど、日本を代表するブドウ品種であるデラウェアを日本に広めた人物としてその世界では知られているそうだ。筑摩書房版『日本食文化人物事典』にも「ブドウ栽培の先覚者」として記載されている。それによれば小沢善平は維新前、横浜の生糸商で働いていたそうなんだけど、1868年に渡米、「カリフォルニアで樵夫として働く一方、夜はブドウ栽培技術を習い、その後、フランス人から醸造法を習って良質なブドウ酒を得たという」。この小沢善平のアメリカ渡航の手引きをしたのがヴァン・リード。もっとも『日本食文化人物事典』にはこうしたことは記されていない。そもそも小沢善平の渡米の経緯は永らく不明だったそうだ。この人物の経歴を伝える史料としては自らが作成した「撰種園開園ノ雑説」なる小冊子があるんだけど、そこにも渡米の経緯は記されていない。

 それが明らかになったのは1992年、ワイン史研究家の麻井宇介が上梓した『日本のワイン・誕生と揺籃時代 本邦葡萄酒産業史論攷』によって。何でも小沢善平は晩年を群馬県妙義山麓で過したそうなんだけど、前半生もさることながら後半生もまた謎の多いこの人物について現地調査する過程で小沢善平の子孫が保存していた小沢の手稿なるものに出会すことになる。これによって小沢善平の渡米の経緯が遂に明らかになった――

 もう一度、小沢善平の前半生に戻る。小沢匡氏の保存される文書の中に、前後の欠落した善平の手稿がある。他日、これは「撰種園開園ノ雑説」と照合しつつ解読されるべき貴重な資料と判断しているが、ここに小沢善平が維新前、ひそかに渡米した理由が明らかにされている。そのことをつけ加えておく。

 善平が生糸取引に関係した仕事についていたことは、既に知られている。驚くべきことに、彼はフランスで直売を企て、慶応二年十二月十一日横浜を出港したカロライナー号に乗船し、リヨンヘ赴いたのである。しかも、彼はこの出国が国禁を犯す行為と知らなかったため、翌年四月横浜へ帰着した時、船内臨検に来た武士と甲板で出会い、どこからこの船に乗ってきたのかと問われ、何気なく「佛国リオン府ニ行キ只今帰国致シタル次第」と答えてしまう。禁制破りで拉致されるところを船長の機転で助けられ、夜になってひそかに上陸し、フランスの生糸買付商アイ・ロード氏宅にかくまわれた。

 日本にいることはできないと考えた善平は、折よく米国人ベンルイートの斡旋で、日本種の茶、桑、その他の植物をカリフォルニア州で栽培する事業に種苗調達による出資をして参加した。こうして、慶応三年十二月二十一日、今回は妻子を伴い再び密出国したのであった。

 ヴァン・リードが旧幕府高官の〝亡命〟を手引きしていた可能性については「明治元年の亡命者」に記したところだけど、あるいはこの小沢善平のケースがその前例になったか?

 ――と、こうして確かにヴァン・リードの斡旋(ないしは手引き)で海を渡った日本人がいたわけだけど、かの海援隊の「約規」には「運輸 射利 開柘 投機 本藩ノ應援ヲ為スヲ以テ主トス」と記されていることはよく知られている。そこに「旅行」の2文字はない。彼らは旅行代理業なんかに興味なかった? いや、そんなことはないだろう。単にそのためのノウハウがなかっただけ。そういう意味ではヴァン・リードは海援隊がやろうとしてできなかったことをやっていたと言ってもいい。もちろん彼に商売っ気が全くなかったとは言わない。しかし、ヴァン・リードは自らも未知の世界に憧れ若くして日本にやって来た。自分と同じ経験を日本の若者にもさせてやりたい――、そんな思いが彼になかったなんて誰も言えないはず。ハワイへの労働者派遣なんてのもきっとそんな発想の延長線上にあったんだとワタシなんかは思うんだけどなあ。

④『横浜新報もしほ草』の発行と「新策」の寄稿

 そんな彼自身の思いも乗っていたであろう、日本人153人を載せた運命のサイオト号が横浜を出港したのは1868年5月17日。そして、それから約半月後の6月1日、ヴァン・リードは『横浜新報もしほ草』を立ち上げている。

 なぜ彼はこのタイミングで新聞の発刊に至ったのか? それについては第1篇の巻頭で「曩にヒコサウの新聞誌ありしが、かの人此地を去りしのちは、久しく其事絶たりしに、去年正月我友人ベーリイ萬國新聞紙を板行せしが、これも第十篇迄出板してやみぬ。余深くこのことをなげきおもへらく」云々。1868年といえば「江戸の春」よろしく新聞ジャーナリズムが花開いた年だったわけだけれど、そんな中、逸早く新聞ジャーナリズムが花開いていたはずの横浜が皮肉にも新聞の空白地帯という状況。しかしこの状況をむしろビジネスチャンスと捉え、『横浜新報もしほ草』の立ち上げを決断した――と、まあ、そんなところかとは思うんだけど、ただ一つ忘れてはいけない事実がある。それはそもそも彼には新聞ジャーナリズムに対する強い思いがあったということ。

 このことは1985年に「ヴァン・リード評論」(『英学史研究』第18号)を発表して以来、ヴァン・リードの名誉回復に努めている福永郁雄が特に強調している部分。福永郁雄によればヴァン・リードは故郷レディングの新聞・出版界と「極めて深い関係を生涯保ち続けていた」という。1859年、アメリカから日本に向かう旅の途上では長い紀行文をしたため、故郷のBerks & Schuylkill Journalに同紙の通信員という資格で寄稿しているし(横浜居留地研究会編『横浜居留地と異文化交流』所収の「ヴァンリードは〝悪徳商人〟なのか――横浜とハワイを結ぶ移民問題」ではその抄訳も紹介)、日本滞在中も「常に日本についてのトピックスやニュースを寄せ続けていた」というから、確かに新聞・出版界とは「極めて深い関係を生涯保ち続けていた」と言えそう。そして、そもそもヴァン・リードとはそういう人物だったのだと考えるならば、彼が「長州外國 戰爭日記」を書いたのも腑に落ちるし、戊辰戦争という日本近代史の転換点となる出来事に際会して独自の新聞を立ち上げるなんてのも、それこそ彼の真骨頂だったということになるのでは?

   新  策
 當今日本の急務は内乱ををさむるにありしからざれバ干戈日に尋止時なく此にをはれバ彼にはじまり國勢窮躄四民困弊終に萬國へ對し國體をうしなふにいたるべきなり國内其民を統轄するの主なく人おの〳〵その私を計國事日に多端にて實に危急存亡の秋といふべし此時に方て君子たる者天下の爲に治安の策を建さるべからず時いまだいたらずと稱し唯一身の爲にして天下の事をかへり見ざる者に攻められんことを恐れて黙止すべけんや夫國にハ必一政府ありて其威力内ハ以、國民を服するに足、外は以萬國の侮を禦べきなり、此のごとくせんには國内萬民擧て一政府を奉戴せざるべからず政府亦國民を視こと子の如すべし則よく永久治安なるを得、日本國中二百八十二の大名各其私を營ことあたはざるを恐て、互に相忌且政府の力奸譎暴逆を爲者を制御するに、足ことを欲せざるハ大にあやまてり永世治安を欲バ其領地兵卒銃砲城郭軍用金穀軍艦等一切兵事に闊歩するものハ咸く集て之を政府の手に委し全國の用に供し日を期して新政を行べし而して一社連名の證書を大名にあたへ其納所の品相應に政府の金藏より償與べし又政府當務の役々ハ廣諸藩より採用、政府ハ唯外國へ對し日本國旗の、威徳を示し貨幣と海陸軍の武力を備の所となす此の如會社を建立し約束を嚴にし各をして得ところあらしめば大名一も政府に背者なく國内ながく安靜ならん何者大名その約束したるところの者を得がために政府あるを利とすべけれバなり日本内乱を治の道此を棄て他なかるべし萬民はやく此道によりおの〳〵其分をまもらハ日本の威徳開化隆盛世界に輝こと愈速ならんとす然に内乱をさまらずして益分裂せバ數百年來の弊習を一洗すること豈容易ならんや日本人地圖を見て其國の極小なるを知べし大日本の称を以人を欺くことあたはずいはんや内乱あるにいたりえてハ外國の人心窃に之を笑のみ日本國のいつまでも日本人の手にあらんことを欲バはやく内乱ををさめて衰弊の風を外國に示し之をして垂涎の情を逞せしむることなかれ
  一千八百六十八年五月
美國 彎理度謹具  

 そんな彼のジャーナリストとしての〝肉声〟は『横浜新報もしほ草』第12篇に「美國 彎理度」の筆名で寄稿した「新策」と題する論説記事から十分に読み取ることができる。逸見英夫は「仙台とヴァンリード」でその主張するところをこう噛み砕いてみせる――

彼はいう。「まず第一に当今の急務は、内乱をおさむるにあり」。「日本人地図を見て、其国の極小なるを知るべし、大日本の称を以、人を欺くことあたはず、いわんや内乱あるにいたりては、外国人の人心、窃に之を笑うのみ。」日本国が日本人の手にあろうと欲するならば、内乱を早く治めるべきだ。外国は「垂涎の情」で見守っている、と植民地化の危機を説いている。そして第二に、日本のあり方を書いている。「国には必ず一政府ありて、其威力、内は以、国民に服するに足、外は以外国の悔を禦べきなり。此のごとくせんには、国内万民挙に一政府を奉戴せざるべからず、政府亦国民を視こと子の如くすべし。」このためには、「領地、兵卆、銃砲、城郭、軍用金穀、軍艦など、一切兵事に関渉するものは、ことごとく集めて之を政府の手に委し、全国の用に供すべし。」「政府当務の役々は、広く諸藩より採用、政府は唯外国へ対し、日本国旗の威徳を示し、貨幣と海陸軍の武力を備の所となす」。「この如き会社を建立」すべきであると。すなわち封建的藩制を廃止し、通貨発行権、軍隊、外交権のもつ中央政府と「社会」=連邦制を説いているのである。ウェンリードは、米国の政体を下敷きに論を進めているのであるが、彼と会い、接触した仙台藩の青年武士たちにとっては耳を傾けて聞いた新鮮な論だったにちがいない。

 もし本当にユージン・ミラー・ヴァン・リードと坂本龍馬のアナロジーが許されるなら、この「新策」こそはヴァン・リード版「船中八策」と言うべきか?

⑤外国米売捌会所の開設

 1870年、ヴァン・リードは前年に東北を襲った冷害で米が不作となったことを受け、外国米の輸入を計画。そのための「外国米売捌会所」なるものを東京の築地に開設している。そしてそのための告知を『横浜新報もしほ草』第41編(明治3年1月13日付け)に掲載している――

○日本六十四州にて、凡米出來見積り、貳千萬石として、今年甚不作にて、其半減一千萬石位故、人民の難澁、併追々國開き候譯、外國人彼地より數多渡來の米有之、大に國の難を除き、又諸侯方にても、外國米何萬俵にても、入用に候はゝ政府にて、請合の調印有之候はゝ、一ケ年之内に、返濟に相成候はゝ、急度御世話申上候。

 明治初年、東北地方が深刻な冷害に見舞われたことは、幕末・維新を描いた小説などでもほとんど無視されている。しかし『岩手県史』第6巻「近代篇1」でも――「明治二年の凶作は極めて悪質の大凶作であって、八戸藩においてもまた非常なる惨害に見舞われ、水田畑作等何れも収穫皆無の状態であり、藩内住民の糧食に困窮する饑饉を招来した」。また「明治三年は豊作であったが前年の大凶作に影響せられて一般藩民が窮迫し、明治四年には又々葉枝虫食に依って不作となり、紫波七ヵ村においてさえ滞穀七百三十石に及び同地方農民一揆の一誘因となっている」。ヴァン・リードが外国米の輸入を思い立ったのはこうした窮状を救おうとして。それが彼の良心から出たのものであったことをワタシは疑わないのだけれど、しかし世間はそうではない。実は彼が開設した「外国米売捌会所」はほどなく明治新政府によって営業休止を申し渡されている。その一連の経緯について史書はどう描き出しているかというと――、ここは東京都刊行の『都史紀要』第4巻「築地居留地」から引くなら――

外人の空米相場会所設立 二年十月に限月米取引当分見合せの令が下つて、同十二月一日より商社が休業すると米仲買達は急に閉鎖となつた為、生活の途を失い、これが対策に苦心するい至つた。この時米人ウエンリードが南京米前約定の商業をなす産物会所開店願を出し、運上所としては国産米の実物取引は商法として認めるが、空米相場取引は国禁であるからと書類を差戻した。しかし①ウエンリードは翌三年三月に至つて新栄町五丁目南角に外国米売捌会所と言う板看板を出し、国産米でなければよかろうと空米相場取引を開始した。これをきつかけに外人の空米取引を行う者が続出し、②六月上旬には元芝居跡にヘークトが外国産物会所を開設、米油の空相場の外、洋銀の相場まで行つた。③又その後ガリーという者も入船町壱丁目角元料理屋跡に外国米会所を開き、④更にヘーヤーが又新栄町六丁目ウエンリードの向側に外国米会所を設立、大いに利を得る所あつた。しかし、この四ケ所はどこから見ても空相場取引である為、三年七月十一日地所差配人幷に会所に立入り空相場を行う仲買人達を府の断獄掛に呼出し、「其方共義外国産売捌所へ立入り、日々売買致し、期限に至り舶来品取渡し差支候節は御国米ヲ代米ニ兼て定め置候事、不相応之儀、且外国品売捌之基本ヲ失ヒ空米ニ紛敷」甚だけしからんから規則等を申立つべしとの言渡しがあり、彼等は米規則は小網町二丁目の尾州邸内の米会所規則と同様で、油は商社規則同様にやつていると答えた為、問題は東京商社に飛火し、翌十二日頭取一同に規則取調べを行い、十七日には油仲買年行事の取調べがあり、外国会所取調べ中は休業せよとの命が出て、商社の方も米限月取引同様、油限月取引を中止され、同時に取調べ中は外人の会所も休業ということになつた。

 ここから読み取れるのは、外国人が「空米相場」を利用して不正に利益を得ようとしているという、その一点。そこには飢饉に苦しむ東北の現状に対する視点は一切ない。ただひたすら外国人商人が法の抜け穴をついて一儲け企んでいるという見方。そしてヴァン・リードを札付きの「不良外国人」だったとするものたちにとってはこうした出来事も彼がとんでもない悪人だったことの証拠とされてしまう。例の「専ら外米の輸入、汽船売買の仲介、諸藩への武器の売り込み、京浜間の航海事業、日本商品のハワイ輸送、日本移民の斡旋等に関係し、時には危い綱渡りもし、時にはまた濡れ手で栗をも掴み取った模様である」――というアレ。しかし、国産米の不作を補うために外国米を輸入することが何で悪事なのか? 同じことを坂本龍馬がやっていたら必ずや彼の既成概念に囚われないダイナミックな思考を裏付けるエピソードとして喧伝されていたはず。要は先入観なのだ。先入観ですべてがねじ曲げられてしまう……。


 ――と、こうしてユージン・ミラー・ヴァン・リードが在日14年間で手がけた仕事の「彼是」について見てきたわけだけど……魅力あるよねえ。とにかくフットワークが軽快。一つ所に収まるところがなく、かつ前例がないことにホイホイ手を付けている。ビジネス英会話のハンドブックの刊行なんてそれこそ本邦初だし、戦場ルポの寄稿もそう。それから旅行代理業への進出に「外国米売捌会所」の開設。いずれもその時点では前例がない。よくもまあ次から次と。そういう意味では杉山栄が書く「ともかく才気縦横で、起居振舞の俊敏さ、驚くべきばかりの男であったらしい」――というのは本当なんだ。ただそれをポジティブな意味で書いているのではなく、ネガティブな意味で書いているところが問題なのだけれど……、でももうそろそろ終わりにしていいんじゃない? ユージン・ミラー・ヴァン・リードは断じて札付きの「不良外国人」なんかではなかった。それはもう何人も否定できないファクトなんだから。

 さて、最後は一掬の涙を濺がずにいられないユージン・ミラー・ヴァン・リードの〝終わりの日々〟についても書いておこう。まずマーガレット・ポッパー・リード・ビドルが書いた小伝によれば、ヴァン・リードは1870年に一度、アメリカに帰っている。おそらく「外国米売捌会所」が明治新政府によって〝強制終了〟させられた7月以降のことだと思うのだけど、理由は結核の療養のため。ヴァン・リードは1866年にも一度、結核の転地療養のためとしてアメリカに一時帰国しており、結核とはそれ以来のつきあいだった。おそらくこの時点では相当、症状が進行していたのではないか? そして、結果論ではなく、彼はそのままアメリカに留まるべきだったのだとワタシは思うのだけれど、しかしヴァン・リードは翌年には日本に戻ってきてしまう。それほどまで日本が好きだったのだろうか? マーガレットが小伝に記すところによれば――「1871年、健康は大いに回復して、再び美しい水彩画のような日本に戻りました」。

 しかし、この決断はやはり無謀だったと言わざるをえない。しかも、こともあろうに彼は富士山に登っているのだ。そしてその途中で大喀血に見舞われることになる。再びマーガレットが小伝に記すところによれば――「1872年、神聖な山『富士山』に再び登りました。空気があまりに希薄だったために肺が壊れてしまい、担架に乗せられて、8人がかりで小屋に運ばれました。その後、18人の公式の護衛隊がやってきて、彼を蒸気船に乗せて横浜に運びました」。

 こうして彼は容易に身動きもならない身となってしまうのだけれど、そんな中、ユージン・ミラー・ヴァン・リードに思いを寄せるものからすればいささかの癒しとなる出来事が。それは、ヒコとの再会。そもそもヴァン・リードは1859年、ヒコとともに来日。そしてともにアメリカ領事館で書記生として働きはじめたという間柄。以来、ヴァン・リードは一貫して横浜の住人であり続けたのだけど、ヒコは1866年、長崎に活動拠点を移している。そして長崎を拠点とする長州藩士らと親交を結び、1872年には井上馨の招聘に応じ、大蔵省に出仕することになる。『アメリカ彦藏自敍傳』によれば、ヒコは1872年8月、大蔵省に出仕すべく東京に向かう途中、横浜に立ち寄っている。そして9日に「数人の外国人の友人」と食事をともにしたことを記している。この「数人の外国人の友人」の中にヴァン・リードがいた可能性大。いや、絶対にいた。1859年以来の彼らの関係を考えるなら、この時、食事をともにした「数人の外国人の友人」の中にヴァン・リードがいなかったはずがない。もうこの時点でヴァン・リードの体力は相当衰えていたはず。それでもヒコと会うことができた――、最後の最後に(ちなみに、ヒコは大蔵省に出仕していた1873年頃、松本鋹子という女性と結婚しているのだけど、鋹子の父の松本七十郎は元の輪王寺宮である北白川宮能久親王の近臣という。なんという奇遇!)。

 そして1873年がやって来る。しかし死を目前としたこの時点でも彼は新たな仕事に手を付けていた。それが『海外各国翻訳新聞誌』の立ち上げ。やはり彼には新聞ジャーナリズムに対する強い思いがあったようだ。

 そしてこの『海外各国翻訳新聞誌』の立ち上げがユージン・ミラー・ヴァン・リードが在日14年で手がけた最後の仕事となった。『海外各国翻訳新聞誌』第2号の発行日は1月19日。それから4日後の1月23日、ユージン・ミラー・ヴァン・リードはパシフィック・メール社の蒸気船ジャパン号で日本を旅立っている。『横浜毎日新聞』掲載の訃報によればこの時点でも彼は叶うならば再び日本に戻ってくることを願っていたことがわかるのだけど、しかしそれが叶わぬ願いであることも彼にはわかっていたのでは? それほどもう彼の体力は衰えていた。そしてマーガレット・ポッパー・リード・ビドルが書いた小伝によれば、それからわずか10日後の2月3日、ユージン・ミラー・ヴァン・リードはキャビンで友人たちと談話中、ふと起こった笑いに咳き込み、傍らのグーリス博士(Dr Gurythe)に「血が出てきます(the blood is coming)」と告げるや、その腕の中に倒れ込んでそのまま亡くなったという。その後、遺体は保存処理されてサンフランシスコに運ばれ、ローン山の麓に埋葬された。ゴールデンゲートを通して太平洋を望む、夕日の奇麗な〝死者の丘(the Land of the Departed)〟に……。