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明治元年の亡命者

 こういう話、ワタシは好きでねえ。こういう真偽定かならぬ話というのは……。

 定説では日本からアメリカ本土に渡った入植者の第1号は、1869年、ヘンリー・シュネルに率いられた「若松コロニー」の人たちとされている。しかし、どうも彼らよりも早くアメリカに入植した日本人の一団がいたらしい。このことはビル・ホソカワという日系アメリカ人が書いた『二世:おとなしいアメリカ人』に記されている。この本、1969年にウィリアム・モローから刊行されたNisei: the Quiet Americansの邦訳で、当時はマイノリティの権利拡大を訴える公民権運動が盛んだったこともあってニューヨーク・タイムズの書評で取り上げられるなど、全米で注目を集めたそうだ。そんな本の第4章「前衛の到着」でビル・ホソカワは「若松コロニー」の人たちのことについて記しつつ、それが1966年、カリフォルニア州によって「歴史的事件」と認定されたことや、日系アメリカ人市民協会が1969年をアメリカへの日本移民100周年に指定したことなどを列挙した上で、「しかしながら」として次のように記している――

 しかしながら、若松入植者に先立って、カリフォルニアには、日本人の入植者がいた形跡がある。一八六九年六月十七日付けのサンフランシスコ・クロニクル新聞は「一年前にさかのぼって」日本人が到着したことを伝えている。その記事には、「彼らはその故国においては、教養あり勢力のある紳士たちで、文明諸国を旅した結果、その思想があまりにも自由主義的になり、ミカドに仕えるにふさわしくなくなったので、ほとんど無一物となり、やむを得ず国から逃亡したものである」と説明されていた。さらに、その報道はつけ加えて、その日本人たちは英語とフランス語を話し、「ジェド(原文のまま)の合衆国領事の父親」バン・リードという人の助言に従ってアラメダ郡に農園を借入れたといっている。それらの紳士についての、その後の消息は不明である。(井上勇訳)

 実に興味深い。で、確かにワタシが確認したところ、サンフランシスコ・クロニクルの1869年6月17日号にはそういう内容の記事が載っていることがわかった。ただ正確に言うと記事が載っているのはサンフランシスコ・クロニクルの1869年6月17日号ではなく、デイリー・モーニング・クロニクルの1869年6月17日号。

 ここは少しばかり説明が必要だろう。そもそもサンフランシスコ・クロニクルは1865年、デイリー・ドラマチック・クロニクルという題号で創刊。それが1868年にデイリー・モーニング・クロニクルと改められ、さらに1869年8月にサンフランシスコ・クロニクルと改められた。つまり1869年6月17日の時点ではまだデイリー・モーニング・クロニクル。また創業者はチャールズ・デヤングとマイケル・ハリー・デヤングという兄弟なんだけど、デイリー・ドラマチック・クロニクルを創刊した時、2人はまだ10代。何でも創業資金は大家から借りた20ドルぽっきりの現金だったというから驚き。デイリー・ドラマチック・クロニクルという、新聞というよりもダイムノベルか何かを連想させるような題号といい、いかにも子供の遊び然としているんだけど、これがあれよあれよという間にカリフォルニア州を代表する新聞へと成長したのだから世の中はわからない。またエピソードも豊富。実はデイリー・ドラマチック・クロニクルにはまだ無名だった時代のマーク・トウェインが無署名で寄稿していたことが知られている。これはマーク・トウェインが兄のオライオンに宛てた手紙で書いているので間違いない。またエイブラハム・リンカーンの暗殺をスクープしたことでも知られる。その日の朝、たまたま地元電信局を訪れた弟のマイケルが局員からリンカーン暗殺を伝える至急報を見せられたのがきっかけという。これによってデイリー・ドラマチック・クロニクルの名前は一気に高まった。しかし1868年にはそのせっかく高まった名前を捨てデイリー・モーニング・クロニクルという題号に変更。確かにこっちの方が一流紙っぽい。ただデイリー・モーニング・クロニクルなんて他にもありそう。ということなのか、わずか1年でその題号も捨て、今度はサンフランシスコ・クロニクルと地名を冠したものに変更。おそらくは港町サンフランシスコの発展を見込んだ上でのことだったんだろうけど、結果としてこの題号のまま今日まで存続していると、こういうことになる。

 ちなみに、このサンフランシスコ・クロニクルの最大のライバル紙だったのがデイリー・アルタ・カリフォルニア。日本の「北部連合」が「上野の宮様」を「新しいミカド」に選出したという、ワタシが『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』を書くきっかけになった記事が掲載されていた新聞。1849年創刊の老舗で、カリフォルニア州初の日刊新聞としてその名を歴史に残す。しかしそんな老舗新聞は1891年にあえなく廃刊。半世紀に垂んとする歴史を誇る老舗新聞があっけなく市場から退場することになるのはサンフランシスコ・クロニクルとの競争に敗れたということに他ならない。元をたどればたった20ドルの手持ち資金ではじめられた〝新聞ごっこ〟が遂には老舗ライバル紙を駆逐してカリフォルニア州を代表する新聞に成り上がった。こういうのをアメリカン・ドリームと言うんだろうなあ。

 ――と、当時のサンフランシスコの新聞事情をアタマに入れてもらったところで、さて、そんなデイリー・モーニング・クロニクルの1869年6月17日号にその〝もうひとつの日本人コロニー〟をめぐる記事は掲載されている。カリフォルニア州で発行された新聞のアーカイヴとしてはカリフォルニア・デジタル・ニュースペーパー・コレクションという無料で利用できるものもあるのだけど、残念ながらデイリー・モーニング・クロニクルは同コレクションでアーカイヴされている55紙には含まれていない。しかしNewspapers.comという有料のサイトで閲覧できる。以下はその全訳(改行がないのは原文の通りなので悪しからず)――

日本人移民たち

 最近、大いなる関心を集めているのはエルドラド郡のグレイソン農場に入植した日本人移民たちの一群である。心の底で国益について考えている思慮深いものなら誰もがこれらの新参者がわれわれの仲間入りしたことを満足感を持って受け止めるに違いない。中国人に対してはさまざまな異論が投げかけられた。彼らはただ一時逗留者としてやって来て白人労働者と直接競合し、白人男性に雇用されることに執着する傾向がある。また家族を伴うことはなく、キリスト教徒でもなく、われわれの言語、習慣、慣例を学ぶこともない。しかしこれらは日本人には当てはまらない。彼らはもし支障なく仕事に従事することが許されるならずっとここに留まるつもりでやって来る。彼らは妻や子供、そしていくつかの重要な新産業をわれわれに紹介するための物資とともにやって来たことは国家に大いなる利益をもたらすに違いない。彼らがもたらした新産業とはたとえば絹糸紡績であり、茶の木、竹、その他の多くの商品価値のある植物栽培の導入である。これらの植物はこれらの忍耐強い人々によってこの土地に根付かされることが期待されている。彼らはどの生産者のクラスとも競合することはない。むしろ新産業の紹介によって国家の富を増大させることになるだろう。またこれらの人々は異教徒ではない。彼らの多くはキリスト教徒である。そして信仰への迫害から逃れるためわれわれの国にやって来たのだ。聖フランシスコ・ザビエルによって13世紀に彼らの国に蒔かれた種は決して根絶やしにされることはなかった。日本人は到着するや否やわれわれの習慣を身につけ、われわれの衣服に身を包む。そしてわれわれが彼らの言葉を学ぶよりもはるかに速くわれわれの言葉を学ぶ。最近、シュネル氏によって開設されたコロニーがわれわれの中に入植した最初の日本人であると見なすのは間違いである。1年ばかり前、ヴァン・リード氏が日本人の一群に仕事を世話するため職業紹介所に連れてきた。ヴァン・リード氏は永らく彼の地で暮らす江戸のアメリカ領事の父である。生きるためにこの国に漂着した男たちの1人は江戸奉行だった。もう1人は条約交渉をすべく日本政府によってヨーロッパと合衆国に派遣された使節団の一員だった。そして全員、洗練された紳士であり、自国では影響力のあるものたちだった。しかしながら彼らは自分の国からほとんど見捨てられ、逃亡することを余儀なくされた。文明社会を見た彼らはミカドとは相容れない自由な考え方を身につけてしまっていたのだ。英語とフランス語を話すこれらの日本人紳士は誰であろうが役に立つ仕事を教えてくれるものがいるなら1年間無償で働くことを申し出た。しかし彼らの奉仕を受け容れるものは誰もいなかった。そこで彼らはヴァン・リード氏のアドバイスによってアラメダ郡の農場を借りることにし、指導を受けるため数人の知識のある白人も雇った。この実験の結果、彼らは食べて行くに十分な収入も得た上に購入したすべてのものの支払も済ませ、さらに投資に見合うだけの結構な収益も得た。シュネル氏のコロニーが当地にやって来ることになったのもこの実験の結果に触発されたためだ。このより大きな実験の結果はアメリカ全土にとって予想できないくらい重要な意味を持つかもしれない。

 文中、「最近、シュネル氏によって開設されたコロニーがわれわれの中に入植した最初の日本人であると見なすのは間違いである」とあるのは、前日6月16日付けでデイリー・アルタ・カリフォルニアがヘンリー・シュネルにも取材した上で移民団をそう評していたことに対する、言うならばダメ出し。デイリー・モーニング・クロニクルのデイリー・アルタ・カリフォルニアに対する強烈なライバル心がうかがえる。

 で、それは結構なんだけど、問題は記事の中身。しかしこの点になるとこの記事自体に相当のダメ出しをしなければならない。たとえばフランシスコ・ザビエルが日本でキリスト教の種を蒔いたのは13世紀ではなく16世紀。またヴァン・リード(フルネームはユージン・ミラー・ヴァン・リード。実はこの人物についてはワタシは格別の思い入れがあるのだけど……ま、ここではあえて触れません)が江戸のアメリカ領事だった事実はない。神奈川の領事館で書記官を務めていただけ。そして最大の問題はグループの中に「江戸奉行(Governor of Jedo)」が含まれていたという点なんだけど、幕末の江戸町奉行に当たってもそれらしい人物は見当たらない。まあ、最後の江戸北町奉行・石川利政は前職は外国奉行。ロシアとの国境画定交渉のため訪露した実績もあり、この点で「文明社会を見た彼らはミカドとは相容れない自由な考え方を身につけてしまっていた」という↑の記事が記載する条件にも合致するとは言えるか。ただ、石川利政は慶応4年に亡くなったとされているのでねえ。しかも自殺だったとか。これは元南町奉行所与力の原胤昭という人物が昭和4年に刊行された『江戸は過ぎる』という史談集の中で語っていることなんだけど――「公にはなつてゐないが、終ひに意見が合はないので、病死となつてゐますが、自殺をしたことに一面からは見られて居ます」。

 しかし、グループの中にかつてアメリカに派遣された使節団の一員が含まれていたという点について言えば、その可能性のある人物を指摘することはできる。実は慶応3年に派遣された小野友五郎を正史とする使節団で副使を務めていた松本寿太夫の維新後の消息が全くの不明なんだ。それどころかちょっと見過ごしにできないことを記している本がある。小野らが渡米した際、アメリカ側で交渉役を務めたウィリアム・スワードは国務長官辞任後の1870年から71年にかけて世界一周旅行をしているんだけど、その旅の模様は養女のオリーヴ・リズリー・スワードによってWilliam H. Seward's Travels around the Worldという本に纏められている。何でも当時、アメリカではベストセラーになったそうだ。

 この旅行記の第2部が日本・中国編で、スワードは9月25日に横浜に到着し、江戸(既に東京と改められていたんだけど、本では江戸となっている)、兵庫を経て10月14日、長崎から上海に向かっている。この間、東京で天皇に謁見するなど、プライベートな旅だったにもかかわらず国賓待遇を受けていることがわかる。で、注目は東京滞在中の10月6日。この日、スワードはアメリカ領事館で新政府の役人に会っているんだけど、この際、小野友五郎と松本寿太夫の近況を訊ねているんだ。それに対する新政府の役人の答がなかなかに意味深で――

10月6日 この日の江戸での日程は領事館でのスワード氏の会見で始った。訪問者は少しばかり海外の事情に通じた日本人だった。スワード氏は大君の使節だった小野友五郎と松本寿太夫について訊ねた。彼らとはワシントンで交渉を行ったことがあった。しかし、その後、革命があった。ミカドは当時、名ばかりの君主だったが、今は絶対君主として城にいる。一方、大君は国家の罪人だった。小野友五郎もまた罪人だという。誰も彼がどこにいるか知らなかった。また松本寿太夫は逃亡者だった。あるものは上海にいると言い、あるものはサンフランシスコにいると言う。アメリカの新政権が誕生し、スワード氏が首を刎ねられたり公的な関心を失うことなく政権を去ったことは彼らの理解を超えるようだった。

 「逃亡者」は原文ではfugitive。「亡命者」と訳しても問題はない。もしかしたら本当に明治維新という革命の過程で亡命者よろしく海を渡った旧幕府の高官がいたのかもしれない。しかしそうした事実は一切、世の知るところとはならなかった。そして、その後の彼(ら)の運命も。ビル・ホソカワが記すところに従うなら、「それらの紳士についての、その後の消息は不明である」……。


William H. Seward's Travels around the World
著者のオリーヴ・リズリー・スワードはこの世界一周旅行の途中でスワードの養女になっている。40歳以上も年の離れた2人の関係をめぐっては、当時、ゴシップめいた噂も囁かれており、それを打ち消すため、スワードはオリーヴを養女にした。

付記 本稿の内容に興味を持っていただけた場合はぜひ「再考・明治元年の亡命者①」もお読みください。新しい知見を元に本稿の記載内容を上書きしております。松本寿太夫のアメリカ亡命の〝真相〟ばかりではなく、もう1人の亡命者の存在を裏付ける史料の紹介や謎の「江戸奉行(Governor of Jedo)」の正体についても考察を行なっております。