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再考・明治元年の亡命者①

 「明治元年の亡命者」公開後、新たに確認できた史資料を元に、明治元年に密かにアメリカに渡ったと思われる元幕府高官について再検討。まずグループに松本寿太夫が含まれていたことはウラが取れた。郵便制度の創設者、前島密が明治5年に創刊した「郵便報知新聞」の明治7年12月6日号(柏書房版『郵便報知新聞 復刻版』第4巻所収)にこんな記事が掲載されている――

○偶ま横濱毎日新聞を閲するに支那我に輸する五十萬テールを資として無人島開拓の事に下手せ𛂞可ならん就て𛂞若彼島の樣子案内の人あら𛂞告知せられん事を望まるヽ投書あり予か所知に同島に至り能く年を渡り及ひ地理を知悉せる者三人あり其一人𛂞横濱の區長高島小八郎其一人𛂞京橋煉火石屋に住せる諸機械商林和一にして又其一人𛂞靜岡縣士族にて曾て米利堅へ脱航し年を經て歸れる松本壽太夫なり此人々の話を聽くに彼島に越年する抦𛂞迚も本國の米穀を仰て常に缺乏に至らさるを保する能わされ𛂞性覺坊と鰐魚とを常食にする覺悟ならざれ𛂞安住爲し難し其性覺坊𛂞囮媒を以て之を獲る至て安し既に獲て之を地上に仰置すれ𛂞彼自から覆りて俯行する能𛂞す四脚空を掻き延首長鳴する旬日にして死す則ち屠りて陬う可し鰐魚𛂞秤鉤を繋くに大麻繩を以て鰈比目の類全魚を其鉤に貫き餌と爲し崖より投して之を鉤るなり彼島に住する米人の屋前に𛂞此二種の食常に澤山に貯へりと此他港脚の美よりノブスマ谷の絶景キサゴノヲバケの恠行等此三人に就て直聽せ𛂞思い半に過きん

 ちょっとよくわからないことだらけではあるんだけど……冒頭の「支那我に輸する五十万テールを資として」云々は、この年、日本は台湾に出兵しており、その結果として結ばれた「日清両国間互換条款」に従って「清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した」(ウィキペディア)――という事実を踏まえているものと思われる。また「無人島開拓」云々は、この翌年に明治政府が後に初代小笠原島司となる小花作助らを父島に派遣していることを考えるなら、小笠原諸島開拓のことを指していると考えていいのではないか? そして記事ではその小笠原諸島と思しき島に滞在経験があり、地理にも知悉している人物の1人して松本寿太夫の名前が挙げられているのだけど――「曾て米利堅へ脱航し年を經て歸れる松本壽太夫なり」。おお、確かに松本寿太夫はアメリカに渡っていたのだ! このことが、この記事によって、明確に裏付けられたと言っていい。

 ただ、それと同時に、この記事が掲載された時点で既に日本に帰ってきていた……。これはちょっと意外。ていうか、興醒め。ワタシはてっきり彼(ら)は「異国の土」になったものと考えていたので。「この国を見限ってやるのは俺のほうだ」と、そう啖呵を切ったんなら、最後までつき通せよ、「永遠の嘘」ってやつをよ……。もっとも、そもそも何で彼(ら)が「亡命」という決断をするに至ったかを知れば、この結末はさほど意外ではない。ま、この件については後ほど改めて。なお、なぜ松本寿太夫が「同島に至り能く年を渡り及ひ地理を知悉せる者」として名前が挙げられているかについても書いておくと、幕府は文久元年から2年にかけて小笠原諸島の実効支配を内外にアピールするための「小笠原回収」と呼ばれるミッションを敢行しており、松本寿太夫(当時は松本三之丞。実はこれは『明治元年の亡命者』を書いた時点では把握できていなかった事実なのだけど、松本寿太夫は慶応3年の遣米使節団ばかりではなく、万延元年に派遣された日米修好通商条約の批准書交換のための使節団にも外国方として随行しており、当時の史料には「松本三之丞春房」という名前で登場)も徒目付として参加していた。このミッション自体は文久2年3月には完了し、外国奉行・水野忠徳以下の調査団本体は江戸に帰還するものの、定役元締佐・小花作之助(小花作助のこと。この当時は小花作之助と名乗っていた)以下5人はそのまま父島に残り、翌文久3年5月まで島の管理に当っている。松本三之丞はその5人の内の1人だった。ここは明治39年に刊行された『小笠原島志』(山方石之助編)より引けば――「水野筑後守一行歸國の後は小花作之助を以て長官とし益田松浪松本林掘の五名と共に島務の處理をなす」。また外務省が明治33年に編纂した『小笠原島紀事』の巻之三十一には「在島松本三之丞小花作之助連署パキアン島巡視建白」なる一文も収録されている。松本寿太夫が「同島に至り能く年を渡り及ひ地理を知悉せる者」として名前が挙げられているのは、こういう理由による。

 さて、この松本寿太夫に加えてもう1人、グループに加わっていた人物を特定できた。もっとも、特定したのはワタシではない。実は横浜にある海外移住資料館の常設展示「海外移住の歴史」の「第1期 海外渡航のはじまり」で問題のデイリー・モーニング・クロニクル(展示ではサンフランシスコ・クロニクル)の記事をある人物の「亡命中の消息」を伝える記事として紹介しているのだ。その人物とは、塚原昌義。万延元年の遣米使節団に外国奉行支配調役として参加した人物。ワシントンの海軍工廠では他の5人の使節団メンバーとともに記念写真に収まっており、ひときわ精悍な風貌が目を引く。また文久3年には池田長発を正使とするあの横浜鎖港談判使節団(何が「あの」なのかは「よく熟慮された親切という奥ゆかしい行動」参照)にも参加しており、もしかしたら記事が言う「条約交渉をすべく日本政府によってヨーロッパと合衆国に派遣された使節団の一員」とは塚原昌義のことかも知れない。

 この塚原昌義がグループに加わっていたことを裏付ける史料としては、まずは『史談会速記録』第298輯(原書房刊『史談会速記録』合本39)に収録された「明治二三年頃米国桑港邦人の有様」を挙げることができる。元会津藩士で明治3年にアメリカに渡った石沢源四郎なる人物が滞在先のサンフランシスコで出会った日本人について語ったもので、なんといの一番に語られるのが「傳兵衞」と名を変えた元外国奉行・塚原昌義と会ったという「奇遇」――

𛁚れから六年目か七年目に桑港に行た、所がどうも何處か見覺へのある人が居るが分らぬ、三日も四日も考へて見たが分らぬ、其人の名は傳兵衞さんと言て、桑港のウエンリーと云ふ人の内に日本の紙鳶賣弘め廣告の爲めに居る、時々郊外に出て子供を相手に紙鳶抔を揚げている、どうしても分らぬ、所が偶と心に附いたのは、どうもあの人は傳兵衞さんではない、外國奉行塚原但馬守に違いないと思て、そこで私は密に傳兵衞さんの所に行て、貴方は外國奉行をして居た塚原さんではないかと言たら吃驚して顏色が違つた、イヤ驚くには及ばぬのだ、私は會津の者た、貴方どうして此處へお出でになつたかと色々話を聞いた、何しろ船中で二三度顏を見た位で、六年跡の事であるから、顏を見忘れたのは當り前で、塚原が言うには、實は私も此方へ來て人に遇ふことも好まむ、日本から來て居る者は僅か斗りの人間である、誰にも分らないから祕密にして呉れと言た、さういふ奇遇抔がありました

 なんと外国奉行まで勤めた男が子供相手に紙鳶(=凧)売りをしていたとは。まあ、これなら早晩、心が折れてしまうのは見えている……。そして、案の定、塚原昌義は日本に舞い戻ってくることになるわけだけど、実は塚原昌義が帰国後に徳川家に提出した「洋行中始末書」なるものが存在する。国立公文書館が所蔵する「太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第二百四巻・治罪・赦宥二」に収録されており、国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧が可能。件名は「静岡藩塚原但馬犯罪自訴ニヨリ寛典ニ処セラレン事ヲ乞フ」。日本を脱出した経緯や、滞米中の様子がつぶさに(というか、当たり障りのないかたちで?)記されたもので、ここは全文を紹介することにしよう――

 奉申上候書付
私儀 
去辰年三月中逼塞被仰付謹愼罷存候處嚴譴ニモ可被處哉之趣風ト承込恐懼之アマリ不辨前後家出仕候處差向可罷越見當モ無之横濱表ニハ存候者モ有之候間彼地ヘ立越候兼テ懇意ノ亞墨利加人商人ユージンヘンイニ不斗面會致シ同人方ニ暫時罷在同人懇意之醫師ボーム歸國致候間一先彼地ヘ參候方可然哉之㫖相勸候間其意ニ任セ同年四月上旬(六日頃ト相覺申候)横濱出帆合衆國サンフランシスコ港ヘ著致シ右ボーム世話ヲ以同港内農業家ヘンリーステンセル大學校教頭ウイービードル鑽鑛器械製造方ウパーマ方等ニ逗留罷在遂ニ三十ケ月之餘ニ相成彼地著港以來モ御咎中出奔仕候段奉恐入何卒歸國之上御仁憐之御沙汰奉願度且暮故國慕敷舊冬横濱表ヘ歸著仕候處亞墨利加ミニストル儀者兼テ懇意ニ付申勧ニ任セ彼方ニ心ナラスモ消光罷在候得共出奔仕重罪之上尚潛沒罷在心得違之段重々奉恐入候儀悔悟服罪仕此段御藩廳ヘ自訴仕候尤外國ニ滯在中御國禁ニ關係候儀ハ勿論御國辱ニ相成候所業仕候義毛頭無御座候右之通リ始末柄申上候次第聊相違無御坐候此段以書付奉申上候以上
  未五月
塚 原 昌 義判 
     靜岡御藩
       御役人衆中樣

 横浜を出帆したのは4月6日頃というのだけど、当然、これは和暦だろうから、西暦に直すなら4月28日。そして、確かにこの日、パシフィック・メール社の蒸気船ニューヨーク号が横浜港を出港している。このことは同船のサンフランシスコ到着を伝えるデイリー・アルタ・カリフォルニアの1868年5月19日号で確認できる。ただ、同号掲載の乗客名簿には塚原はおろか「醫師ボーム」と思しき人物も見当たらない。まあ、乗客として名前が記されているのは一等船室の乗客だけだろうから、身分を偽り、三等船室の中国人クーリーの群に紛れこんでいたと考えられる塚原の名前がないのはわかるとしても、なぜ「醫師ボーム」と思しき人物が見当たらないのかは謎。あるいは「醫師ボーム」は船医として乗り込んでいたという可能性も? その場合は乗客ではないので記載されていていなくても不思議はないということにはなるが……。

 それにしても、「亡命」に至ったそもそもの発端が「嚴譴」、つまりは厳罰=死罪もありうるという風聞に「恐懼之アマリ」、前後も弁えずに出奔してしまったというのはなあ。そんな性根だったとしたら30か月余りで帰ってきてしまうというのも不思議はないか。もっとも、そもそもこの文書は徳川家に帰参するに当って差し出した詫び状のようなもので、このような文書の場合、自分なんて「取るに足らない人間」で、自分の取った行動も実に「取るに足らないもの」だったということにした方が処罰する側にしたってコトを処理しやすいという暗黙の了解みたいなものがある。あの輪王寺宮も奥羽鎮撫総督府に提出した「謝罪状」で「一時顚倒心中惑亂之餘リ、前後何等之分別モ無之、只管官軍之探索ヲ相怖レ、終ニ不思寄奧州路ヘ一先相避候處」云々。だから、この「洋行中始末書」に記されたことをそもまま額面通り受けとることは避けるべきかとは思うんだけど(一応、ワタシは2度の外遊も経験した〝国際派〟の官僚として、長年、「攘夷」を振りかざしてきた薩長が主導する新政権の先行きに展望を見出せなかった、というもっと真っ当な理由もあったと、そう思う――というか、思いたいんだけどね)、ただ現に彼(ら)はわずか30か月で日本に帰ってきてしまったという現実があるわけだから。これは例えば同じくユージン・ミラー・ヴァン・リードの手引きでアメリカに渡った小沢善平(「ある不良外国人に捧げる『時の娘』②」参照)がブドウの栽培やワインの醸造法などを習得して帰国したのが明治6年だったことを考えても、あまりにも早過ぎる。そもそもの彼らの「覚悟」を疑わざるをえないところではあるよなあ(ただし、もしかしたら松本寿太夫の帰国はもう少し後だった可能性もある。というのは、『幕末維新外交史料集成』第6巻の「小野友五郎松本壽太夫使節一件」に明治4年9月段階の情報として「壽太夫ハ舊幕府瓦解ノ際謹愼中脱走其踪跡ヲ知ラズ」とされているのだ。この時点で塚原昌義は既に徳川家に自訴しているのだから、もし2人が行動をともにしていたとするなら当然、松本も静岡で謹慎中だったはず。さて……)。

 ということで、なぜ彼(ら)がそんなザンネンな決断をするに至ったのかについてなんだけど、これはそもそも彼(ら)が亡命に至った理由が厳罰を科せられることを怖れたことにあったということを前提にするなら、おそらくはこういうことだったのでは? という1つのシナリオを提示したい。実は彼(ら)の亡命を手引きしたユージン・ミラー・ヴァン・リードは1870年に1度、アメリカに帰っているのだ。理由は結核の転地療養のため。で、これは「洋行中始末書」には記されていない事実ではあるものの、石沢源四郎が証言しているのでそれを信じるならば、彼(ら)はカリフォルニアではヴァン・リードの父に世話になっていた。であるならば、当然、ヴァン・リード本人とも会っていたはず。そして、いろいろ日本の状況について尋ねたはず。特に明治新政府から「戦犯」と名指しされた者たちのその後を……。

 慶応4年2月19日、徳川家は輪王寺宮が徳川慶喜の助命嘆願のために西上することになったのに合わせ、次の8名を逼塞処分にしている。当然、追って沙汰が下されることを前提としたもので、言うならば徳川家が主君の助命を嘆願するに当って差し出した〝スケープゴート〟の面々――

  • 元老中首座 板倉勝静
  • 元老中格  大河内正質
  • 元若年寄並兼陸軍奉行 竹中重固
  • 元若年寄  永井尚志
  • 同     平山敬忠
  • 元若年寄並 塚原昌義
  • 元大目付  滝川具挙
  • 元勘定奉行 小野広胖

 この内、塚原昌義を除く残る7人の明治3年時点での境遇(+その後の簡単な処世)を紹介すると――板倉勝静は長男・勝全とともに安中藩に「永預」(終身禁固刑)の身(その後、同5年には特旨で赦免。同9年、上野東照宮の祠官となった)。永井尚志は東京・辰ノ口の軍務官糾問所の牢獄に入牢中(同4年、特赦により出獄。同5年、開拓使御用掛として任官)。竹中重固は福岡藩預りの身(同4年、親族の竹中黄山へ預け替えとなり、同年、養父・重明とともに北海道に入植)。平山敬忠と滝川具挙は徳川家の静岡移封に伴って静岡へ移住。滝川具挙はそのまま隠居した。また小野広胖はまたの名を小野友五郎と言い、松本寿太夫が副使として参加した慶応3年の遣米使節団で正使を務めた人物。William H. Seward's Travels around the Worldでは「誰も彼がどこにいるか知らなかった」とされているものの、その時点(明治2年)では平山敬忠や滝川具挙とともに静岡で謹慎中。しかし優秀なテクノクラートだった小野の才能を文明開化を急ぐ明治政府は必要とした。明治3年4月、民部省からの出仕要請に応じ、同省が手がけていた鉄道建設のための測量業務に従事。その後も大久保利通に中央天文台の設置を建言するなど、同10年に退官するまで日本の近代化のためのさまざまな事業に従事した。で、残る大河内正質(大多喜藩藩主)は鳥羽・伏見の戦いで徳川方の総督(大将)を務めた人物なんだけど、明治新政府からは閏4月4日付けの太政官通牒(東京大学史料編纂所所蔵『大日本維新史料稿本』の当該ページ)で「尤巨魁ナルハ大河内豊前竹中丹後等ニテ」と名指しされていたほどで、鳥羽・伏見の戦いのA級戦犯という扱いだった。そして、その大河内正質に次ぐ副将を務めていたのが塚原昌義。彼が「嚴譴」を怖れたのはそういう事情から。しかし、「巨魁」と名指しされた大河内正質はなんと全くのお咎めなし。藩主交替や減封などの処分を科されることもなく藩存続を認められている。そして明治2年には大多喜藩知事に就任している。

 ――と、こうして見ると、塚原昌義とともに〝スケープゴート〟として差し出されたものの中で実際に塚原が怖れたような「嚴譴」に処されたものは1人もいない。もしかしたら彼(ら)はヴァン・リードからこうしたことを聞き出したのではないか? そして帰国しても死罪となることはあるまいと判断した……?

 また、他ならぬヴァン・リードが彼(ら)に帰国を勧めたというシナリオもありうる。実はヴァン・リードはそれに類したことをしたことがあるのだ。というのも、ヴァン・リードは明治2年3月、箱館にいた星恂太郎に和睦を呼びかける手紙を送っているのだ。

ゴキゲン ヨロシウ アナタノテガミ マヤリマシタ イロイロノ メヅラシイモノモライマシタ マコトニ アリガト トキトキ テガミ モライタイ アナタノテガミ イセカツニアケマシタ シンフンノコト 一モンカヽリマセンヨイ サンガツ十九ニチ タイテ カクン(官軍)ハコタテ マヤリマシヤウ ナルタケ ワボクロヨシウ ワタクシノ トモタチ ミナミナ ヨロシク ヘサヨナラ
ウエンリイト   

 世間ではヴァン・リードは札付きの不良外国人ということになっているのだけど、実際の彼は戦地にいる「トモタチ」にこんな手紙を送るような友誼に厚い男だった。そんな彼ならば塚原らに日本国内の状況を伝えた上で帰国を勧めるというのも十分にありうると思うのだが、どうだろう?

 いずれにしても、彼(ら)がわずか30か月余りで日本に舞い戻るという彼(ら)に思いを寄せるものから見るならばザンネンな決断をするに至ったのは、帰国しても死罪となることはあるまいという判断があったから――、そう考えてまず間違いないと思う。そして、その判断は正しかった。帰国後、彼(ら)はしばらくはアメリカ公使(塚原昌義は「亞墨利加ミニストル儀者兼テ懇意ニ付」と書いているんだけど、当時のアメリカ公使はチャールズ・デロングという人物。しかし、日本に赴任したのは1869年で、塚原とは入れ違い。外国奉行時代の塚原が懇意にしていたとするなら、1861年以来、アメリカ公使館で秘書官を勤めていたアントン・ポートマンではないか?)の元に身を寄せるも、翌年4月に徳川家に自訴。徳川家は5月になって↑の「洋行中始末書」を添えて政府に塚原に対する寛典を願い出ている。それに対し明治新政府は翌明治5年2月になって「塚原重五郎儀其縣ヘ御預被 仰付置候處以特命被免候條此旨相達候事」(「公文録・明治五年・第三十九巻・壬申一月~二月・兵部省伺(一月・二月)」に収録。こちらも国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧が可能。件名は「塚原但馬御処置ノ儀ニ付御届」)。

 一方、松本寿太夫だが、徳川家が明治新政府に対し塚原昌義に対するのと同様の措置を取ったことを裏付ける史料は見当たらない。松本は塚原と違って「戦犯」扱いはされていなかったのでそのような措置は必要なかったのかも知れない。ただ、「郵便報知新聞」の記事では松本寿太夫を「靜岡縣士族」としているので、松本寿太夫も帰国後は徳川家に身を寄せていたのは間違いないと思われる。また樋口雄彦「塚原昌義と武田昌次―物産学を学びアメリカへ亡命した旗本―」(『洋学:洋学史学会研究年報』第22号所収)によれば、塚原昌義は罪を許された後、武田昌次と名を変え、明治新政府に出仕しているという。確かにそれを裏付ける史料は国立公文書館デジタルアーカイブでも見つけることができる(たとえばコレ)。しかし、松本寿太夫に関してはそうしたものは見当たらない。もしかしたら松本寿太夫としては帰国は本意ではなかったのかも知れない(そもそも彼は塚原昌義よりも遅れて帰国した可能性もある)。そして明治政府に出仕することがなかったということは、あるいは「忠臣は二君に仕えず」という武士の本分を貫き通した? ま、1人くらいはそんな意地を見せてくれても……。

 ――と、ともあれ、こうしてデイリー・モーニング・クロニクルの1869年6月17日付け記事に記された謎の「日本人移民たち」の正体は、その〝顚末〟までも含めてほぼ明らかになったと言っていいと思うんだけど、ただまだ未解決の謎が1つある。それは、グループの中に元「江戸奉行」がいたとされている点。最後にこの件についても少しばかり。実はワタシは「明治元年の亡命者」を公開して以来、この件を自らに課した宿題としておりまして、今回紹介したあれやこれやの史料もその宿題に取り組む過程で遭遇したものなのだけど――そんなワタシにはコレと睨んだ、言うならば〝最重要容疑者〟がいた。それは、「明治元年の亡命者」でも名前を挙げた石川利政。え、でも、石川利政は慶応4年中に亡くなっているんでしょう? だったら容疑者とはなりえないのでは? まあ、確かにそうなんだけど、ただなんともミステリアスなんだ。ここは河原芳嗣著『江戸の旗本たち:墓碑銘をたずねて』(アグネ技術センター)より引くなら――

 忠誠の士である石川利政は、主戦論の頭目、小栗上野介が幕閣内で論に敗れ退隠してからも、抗戦の意を変えることはなかった。利政は官軍から市中取締りの命令を潔しとせず、おそらく拒絶したと思われる。利政に共鳴した北町奉行所の与力・同心は上野の彰義隊へ走った。利政がどう身を処したかは、記録の上では一切明らかにされていない。慶応四年(一八六八)五月、彰義隊に加担し内通していたとの嫌疑を受け、官軍に邸を囲まれて自刃して果てたともいい、最後の将軍徳川慶喜が江戸城開城の日、上野寛永寺大慈院を出て水戸徳川家を頼って発って行く時、千住宿まで見送り、千住大橋上で切腹して果てたともいう。また、彰義隊の上野戦争で戦死したとも、さらには炎上する瑠璃殿に消えたともいわれるが、真相は定かではない。

 ね、さまざまにその死にまつわる〝物語〟が語られてはいるものの、「真相は定かではない」。しかし、唯々諾々と薩長の軍門に降るようはヘタレではなかったという、このことだけは間違いないよう。原胤昭も『江戸は過ぎる』で石川について「なか/\氣力のある人」だったとしており、それだからこそ死因についても「公にはなつてゐないが、終ひに意見が合はないので、病死となつてゐますが、自殺をしたことに一面からは見られて居ます」。で、そんな人物ならばあるいは表向きは「死んだ」ということにして密かに日本を脱出するというのもありうるのでは? と考え、実はワタシの中ではデイリー・モーニング・クロニクルの記事に言う元「江戸奉行」とは十中八九、石川利政で間違いなし――と、↑で紹介した「洋行中始末書」を読むまでは考えていた。しかし、「洋行中始末書」によってその可能性はほぼ消えたと言っていい。というのも、塚原(ら)が日本を脱出したのは4月6日頃とされているので。そして、現にその日、パシフィック・メール社のニューヨーク号が横浜港を出港していたことが当時のデイリー・アルタ・カリフォルニアで裏付けられることも既に記した。しかし、石川利政は、さまざまにその死にまつわる〝物語〟が語られ、かえってその真相が見えなくなっているものの、1つだけ確かな事実があって、それは彼が5月21日に行われた奉行所の新政府への引き渡し式に北町奉行として立ち合っていること。この事実は『復古記』にもちゃんと記されている。曰く「廿一日、鎭臺府判事役(原註、土方大一郎、江藤新平、北島千太郎等、)御使番等、町奉行所ヘ來リ、河内守、鐇五郎、其外役々立會、役所竝ニ諸記録引渡相濟、調役兼帶與力以下直ニ徳川藩士ノ儘ニテ、是迄ノ通リ勤績ノ儀、判事ヨリ口達、河内守、鐇五郎ハ役所引拂」(文中、「河内守」とあるのが石川利政のこと)。5月21日時点でも日本にいたのが確かならば、彼が4月6日に横浜港を出港したニューヨーク号に搭乗していた可能性はない。もっとも山田風太郎の『警視庁草紙』では「隅の御隠居」(これはバロネス・オルツィの「隅の老人」に対する〝オマージュ〟ってやつだね)こと駒井信興(元南町奉行)が最後の町奉行は北が石川河内守、南が佐久間鐇五郎だったことを語った上で、2人とも引き渡し式という名の「降伏調印式」に出席するのをいやがって「石川はとうとう前夜に逃げてしまった。そこでしかたなくわしが引っぱり出されて、石川に化けて立ち合った」。一体、山田風太郎はどこからそんな話を仕入れてきたのかは知らないけれど、常識的にはねえ。

 ということで、ワタシとしては、石川利政の線は消えた――という判断。ただ、そうなると、デイリー・モーニング・クロニクルの記事が言う元「江戸奉行」って? ワタシは塚原昌義の「洋行中始末書」の記載内容から見ても同記事の信憑性は十分に担保されていると思うので(おそらくは「農業家ヘンリーステンセル」というのが塚原らが雇ったという「知識のある白人」だろう)、グループには間違いなく元「江戸奉行」が含まれていた――、そう断定していいと思う。ということで、改めて幕末期の江戸町奉行を手当たり次第に当ってみたのだけれど――松浦信寔はどうか? 最後の南町奉行である佐久間信義の1代前の南町奉行。実は南町奉行は慶応4年1月5日に駒井信興(『警視庁草紙』では「この人は徳川最後の江戸町奉行ではない」としつつも、物語の語り手である元同心・千羽兵四郎の弁として「暗黒の嵐の中に治安に苦闘していた――しかも自若として苦闘していたこの人が、江戸最後のただ一人の町奉行さまであったように印象されている」)が陸軍奉行並に異動となったことにより、まず黒川盛泰という人物に引き継がれるのだけど、わずか2か月余りで退任して松浦信寔に引き継がれる(就任は3月5日)。しかしその在任期間はわずか5日間だったとされる。そしてその後任に任命されたのが佐久間信義であり(就任は3月20日)、結局、この人物の手で南町奉行所が明治新政府に引き渡されることになるのだけど……まあ、黒川盛泰はよしとしよう。一応、2か月ばかりは務めているので。わからないのは松浦信寔ですよ。だって、在任期間わずか5日ですよ。しかも、後任が任命されたのはそれから10日後。10日間も江戸の治安を守る責任者が不在だった。ま、仮に松浦信寔の辞任後、後任が間髪を入れずに選任されているのなら、松浦信寔の町奉行就任は後任が着任するまでのつなぎ役だったと考えることもできるのだけど、実際には10日間に渡って南町奉行が不在だった。これはむしろ松浦信寔の急な辞任に徳川家の人事が追いつかなかったと考えるのが自然。そしてそれほど松浦信寔の奉行職辞任は急な、想定外の出来事だったと考えるなら……もしかしたら松浦信寔は出奔したのではないか? そのためやむなく佐久間鐇五郎信義という官名さえない人物(ちなみに駒井信興は「相模守」、黒川盛泰は「近江守」、松浦信寔は「越中守」。また石川利政は「河内守」だったことは既に記した)を後任に据えた……。おそらく徳川家が松浦信寔に托した役割は南町奉行所の新政府への引き渡しのみ。しかし松浦信寔はそれをよしとしなかった。そして、南町奉行就任5日にして何方へと姿を消した……。

 さて、そう考えるとしてだ、その日付は3月10日。塚原(ら)が搭乗したと考えられるニューヨーク号が横浜港を出港するのはそれから26日後。どう、匂わない?

 また松浦信寔をデイリー・モーニング・クロニクルの記事にある元「江戸奉行」と考える理由は他にもある。それは松浦信寔が徳川家家臣でありながら、徳川家の駿府移封に同行していないと見られること。維新後、今の静岡県に移住した徳川家家臣をめぐってはその名も『駿遠へ移住した徳川家臣団』(前田匡一郎編)という優れた成果物があるのだけど(徳川幕府の旗本・御家人の内、維新後、静岡に移住した約1万3千戸について、遺族、寺院、図書館、資料館などに当り、判明した3,371名について、生没年、家系、幕府時代および維新後の略歴、墓地などを列記した労作。2007年には第6回伊伝財団文化財保護振興奨励賞受賞)、同書には松浦信寔という名前が見当たらないのだ(松本寿太夫や塚原昌義の名前もない。一方、駒井信興の名前はある)。わずか5日で南町奉行を辞職した上に主君の転封にも従わず、何方へと姿を消した男――。もっとも松浦信寔の「その後」を伝える史料は存在する。それは国立公文書館に所蔵されている「博覧会事務局御用掛松浦信寔豆州ヘ出立届」。明治8年6月2日の日付を付されたもので、博覧会事務局副総裁・佐野常民が博覧会事務局の御用掛である松浦信寔に伊豆出張を命じたことを報告する文書。何でも明治7年3月20日、前年に開催されたウィーン万国博覧会に日本から出品された美術品や欧州で買い求めた美術品など192箱を積んだフランス商船が静岡県伊豆半島沖で座礁・沈没したとかで、積荷の一部は8年になって博覧会事務局によって引き揚げられている。この時の出張はこれに関するものと思われる。またこの翌年にはフィラデルフィア万国博覧会が開催されているので、松浦信寔が「博覧会事務局御用掛」だったとするならば、それに関係する仕事もしていたものと思われる。いずれにしてもこの時点で松浦信寔は明治新政府に出仕していたということ。フィラデルフィア万国博覧会に関係する仕事をしていたとするなら、滞米経験を買われたという可能性も考えられるか。またこれに関連してもう1つ興味深い事実が。実は塚原昌義(武田昌次)も博覧会事務局に「二級事務官」として出仕していた。そしてフィラデルフィア万国博覧会に関係する仕事をしていたことも裏付けられる。フィラデルフィア万国博覧会の報告書である『米國博覧會報告書』には武田昌次という名前が「出品主任」として記されている。これは単なる偶然だろうか? 1868年、2人はともにアメリカに渡り、帰国後はともに明治新政府に出仕、滞米経験を活かしてフィラデルフィア万国博覧会の事務作業に従事した……。

 ま、全くの憶測です。新たな史料が出てくれば(新史料とは限らない。「郵便報知新聞」の記事にしろ「洋行中始末書」にしろ、既に知られていたもの。単にワタシが知らなかっただけ……)あっけなく否定されてしまうかもしれません。でも、それならそれで、いいか。その時は「隅の御隠居」の話をヒントに、デイリー・モーニング・クロニクルの記事に言う元「江戸奉行」とはやっぱり石川利政だった――という超絶推理(?)に挑むことにして……。