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コルトのジョーさ。命は貰うぜ、親分!
〜城戸禮と「国産ハードボイルドの嚆矢」をめぐる一考察〜

 定説では「国産ハードボイルドの嚆矢」は『宝石』1955年1月増刊号「新人二十五人集」に掲載された高城高の「X橋付近」とされている。この「国産ハードボイルドの嚆矢」という表現、池上冬樹が『X橋付近 高城高ハードボイルド傑作選』(荒蝦夷)の巻末解説「原石の輝き」で使っているものなのだけれど(曰く「国産ハードボイルドの歴史を考えるとき、筆頭にあげられるのは大藪春彦(昭和一〇/一九三五年生まれ)であり、デビュー作の『野獣死すべし』だろう。だがしかし、この作品が同人誌を経て『宝石』に転載されるのは昭和三三年七月号で、高城高の「X橋付近」の三年半後となる。河野典生(昭和一〇年生まれ)のデビューが昭和三四年、日本テレビと『宝石』共催の原作小説コンテストで佳作入選した「ゴウイング・マイ・ウェイ」であることを考えれば、高城高が国産ハードボイルドの嚆矢と考えることも可能だろう」)、かねてからワタシはこうした見方に疑問を持っておりまして。いやいや、「国産ハードボイルドの嚆矢」が放たれたのはもっと早いんじゃないの? 1955年じゃ、いかにも遅すぎるでしょう……。

 何を基準にワタシが「もっと早い」とか「遅すぎる」とか言っているかというと――最初にわが国に「ハードボイルド」なるものが〝輸入〟されてから。これについては定説というものがあるかどうかは知りませんが、ワタシが知る限りではそれは1948年ということになる。前年に「新しいアメリカ雑誌の日本語版」というキャッチフレーズを掲げて創刊となった『ウインドミル』(極東出版社)という雑誌が1948年7月号でダシール・ハメットの「死の商会」を掲載しており、これが第1号と思われる(→第1号は『新青年』1932年8月夏期増刊号に掲載された「恐ろしき計画」のようです。その後も『新青年』には5編ばかりのハメットの短編が掲載されています。ただ、当時はそれが「ハードボイルド」と呼ばれる新手のミステリーであるという認識はなかったんじゃないのかなあ……? ということで、本稿の記載を特に訂正することはしません。それで……モンダイないよね?)。その後も「フェアウエルの殺人」(1948年11月号)「謎の大陸探偵」(1949年1月号)「消えた令嬢」(1950年1月号)と続いて、雑誌自体が廃刊となる。一方、1949年には『マスコット』(銀柳書房)という雑誌(こちらのキャッチフレーズは「粋でモダンな読物雑誌」。このキャッチフレーズ自体はさほど「粋でモダン」ではない?)も創刊されていて、こちらでも「忍び寄るシャム人」(1949年1月号)「をんな二人」(1949年7月号)「第十の手懸り」(1949年9月号)とハメット作品の掲載が続き、そして廃刊――と、『ウインドミル』と同じような経緯を辿っている(なお、以上は雨宮孝氏作成の「翻訳作品集成」より抽出したデータです。ここに明記するとともにその甚大な努力に対し心からの敬意を表します)。で、こういうような前史があって、1950年の『別冊宝石』第11号の「R・チャンドラア傑作特集」となる。これは「翻訳権の帝王」ことジョージ・トマス・フォルスターから「日本版権」を買い取った上での翻訳・紹介で、以後、フォルスター事務所を介した海外ミステリーの翻訳は奔流のごとく図書市場を席巻して行くこととなるのだけれど――いずれにしてもだ、わが国に「ハードボイルド」なるものが輸入されるようになったのは1948年なのだ。この事実を踏まえた時、国産ハードボイルドの第1号が書かれたのが1955年であるというのは、得心が行かんというか。だって、それだと日本人が自らの手で「ハードボイルド」を自作するようになるのは輸入開始から7年後ということになってしまうので。この何でも器用に自作してしまう日本人が「ハードボイルド」を自作するようになるまでに7年もの歳月を要した――というのがねえ。しかも、当時は俗に「カストリ雑誌」と呼ばれる低俗な読物雑誌が大量に生れては消えて行った時代(同じような現象はイギリスなどでもあって、彼の国では俗悪なペーパーバックの大繁殖というかたちで表れた。そして、その種のペーパーバックを出版する出版社を「キノコ出版社(mushroom publishers)」と呼んだ。ここにその栄華を今に伝える1冊のトレード・ペーパーバックがある。題してThe Mushroom Jungle: A History of Postwar Paperback Publishing by Steve Holland。多分、こんな本を持ってるのは日本広しといえどワタシくらいだろうなあ……)。そういうものの中にハメットあたりの形骸だけを真似た粗悪なアクション小説が掲載されていても少しもおかしくない――というか、掲載されていない方がおかしい――とまで思っていた。しかし、なかなかウラを取ることができずにいたのだけれど……。

 きっかけは『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』を見たことだった。実は、見たことがなかったんだよね。しかし、ここにきて宍戸錠という俳優への関心がムクムクと高まってきて。「拳銃をして語らしめよ〜中田耕治と「通俗ハードボイルド」〜」にも記したようにワタシは「通俗ハードボイルドの味方」を自認しているんだけれど、「エースのジョー」こと宍戸錠こそは最も「通俗ハードボイルド」と親和性が高い俳優と言っていいでしょう。『殺しの烙印』然り『みな殺しの拳銃』然り。そんな「エースのジョー」がブレイクするきっかけになったのが『拳銃無頼帖』シリーズなわけですよ。正直、この時代の日活映画(「日活アクション」)は趣味ではないのだけれど(日活を代表するスターといえば、断然、石原裕次郎ということになりますが、ワタシがいわゆる「B級アクション映画」を求めて『ぴあ』を片手にせっせと映画館通いをした1970年代当時としても完全なる「体制派」。かてて加えて、「映画俳優は男子一生の仕事にあらず」だったかな? そりゃあ、当時の血気盛んな「映画青年」の支持を得られる道理がありませんよ)、ここはスジを通す意味でも1本くらいは見ておくべき。ということで、見てみたわけですね、某動画配信サービスで。いやー、いい。想像以上。特に、赤木圭一郎。ずぶの素人から映画界に入って、この時点でまだ2年くらいしか経っていないはずですが、台詞も問題ないし。ちょっと舐めてたかなあ(なんとなくワタシの中では赤木圭一郎と岩城滉一は重なるところがあって。それで台詞がどうなのかと)。それと、お目当てだった「エースのジョー」は、もう笑っちゃうくらいに「エースのジョー」で。まったく、大した〝役者〟だぜ……。


拳銃無頼帖 抜き射ちの竜

 ただ、そういうようなこともあるんだけどね、その前に1つ驚いたことがあって。それは、クレジットタイトル。その中に認められる「原作 城戸〓」(「〓」は「礻」に「豊」。以下、慣習に従って「城戸禮」と表記)という表示。これを見て、え、『拳銃無頼帖』って、原作があったの……? 『拳銃無頼帖』に原作があったなんてことは手元の西脇英夫著『アウトローの挽歌:黄昏にB級映画を見ていた』(白川書院)にも記されていない。そりゃあ、知らないわけだ(一応、この本はこと「B級アクション映画」に関してはワタシにとっての『伝道書』のようなものです)。加えて原作者としてクレジットされているのが、城戸禮? これまた全く初めて見る名前。映画の原作となるような小説の作者なら、読んだことはなくとも、名前くらいは知っている、というのが相場なんだけどねえ……。しかし、知らないものは知らない。で、大急ぎで調べたところ、「城戸 禮(きど れい、1909年11月26日 - 1995年8月11日)は日本の小説家。「城戸礼」表記もある。貸本を中心とするベストセラー作家として人気を得た」――と、ウィキ先生の言うことには。なるほど、貸本作家か。だったら、知らなかったとしても不思議はない(ちなみに、ワタシの少年時代はまだ町に貸本屋があった。ただし、記憶にあるのは1軒のみで、おそらくはあれがワタシという1人の〝20世紀少年〟の行動範囲内に限れば最後に残っていた1軒だったのだろう。ワタシは1958年の生れなんですが、多分、ワタシの世代くらいが貸本文化を知っている最後の世代では?)。もっとも、城戸禮は貸本作家にしては珍しく、この世から貸本文化なるものが消え去った後も職業作家として生き残り、亡くなる1995年まで第一線で活躍しつづけたことがウィキペディアのビブリオグラフィで裏付けられる。しかし、85歳で『勇猛ダイナミック刑事』とか書いていたの? スゴイね。わが国ではハードボイルド小説や冒険小説で名を成した作家であっても年を取るにつれて時代小説や歴史小説に軸足を移しはじめるというケースが少なくないのだけれど(ま、これについてはワタシも利いた風な口はきけない。歴史ネタとそれ以外じゃ、歴史ネタの方が多いくらいじゃないか? まったく、変われば変わるもんだ……)、そういうことを考えても、このビブリオグラフィは見事ですよ。これまでこういう作家がいる(いた)ことを知らなかった自分自身に対しては、喝! だな(笑)。

 さて、そんな城戸禮が書いた小説が『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』の原作だったわけだけれど、ただし映画では具体的な作品名までは示されていない。単に「オール読切・所載/東京文芸社・版」とされているだけ。しかし、それが1957年に刊行された『日本拳銃無宿』という小説であることを教えてくれるのが末永昭二著『貸本小説』(アスペクト)。曰く「『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』の原作は『オール読切』に連載された城戸禮の『日本拳銃無宿』である。オリジナル本は昭和三二年に東京文芸社から刊行され、同時に同題で『読切小説集』に再連載されている」(ちなみに、現在、ウィキペディアの記事では「また剣崎竜二を主人公とするアクション小説『日本拳銃無宿』は赤木圭一郎主演の『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』として映画化された」――と記載されておりますが、この部分を書いたのはワタシでして。従来は「シリーズの1作『抜き撃ち三四郎』は、赤木圭一郎主演の拳銃無頼帖シリーズとして映画化もされた」――と、『拳銃無頼帖』シリーズの原作は『抜き撃ち三四郎』であるとされていた。しかし、これは全くの間違いではないけれど、適当ではない。『抜き撃ち三四郎』は『日本拳銃無宿』を主人公の名前を竜崎三四郎と改めた上で再刊したもので、刊行されたのは1972年。こうした改変措置は旧作が春陽文庫に収められる際に行われていたようで、このことは『貸本小説』にも記されている。もっとも『抜き撃ち三四郎』のカバー折り返しでは「おなじみ城戸禮の〝三四郎シリーズ〟最新作巨篇!」と謳われていて、旧作の再刊であることは微塵も匂わせていない。春陽堂書店もなかなか商売がお上手なようで……。いずれにしも、1972年刊行の『抜き撃ち三四郎』を1960年製作の『拳銃無頼帖』シリーズの原作とすることは適当ではない)。これは、へえ、ですよ。『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』に原作があったというだけで十分に、へえ、なんだけれど、その原作というのが『日本拳銃無宿』という小説で、しかもそれが書かれたのが1957年というのは、これはもう、へえへえへえ、ですよ。だって、1957年ということは、『野獣死すべし』よりも早いわけだから。一体なんでこの事実がこれまで見過ごしにされてきたのか……。

 ただ、もしかしたら城戸禮という作家を大藪春彦と並べて論ずるのは当を失しているのかもしれない。というのも、末永昭二は城戸禮の作品の特徴について説明するに当たってこう記しているので――「映画とのメディアミックスのために、ハードボイルド、アクション系の作品が有名になってしまったが、城戸の本領はエロと殺人を排した明るいユーモアものにある」。確かにウィキペディアのビブリオグラフィを見ても『拳骨社員』とか『無敵!喧嘩社員』とか『青春空手娘』とか。やれ「拳骨」だの「喧嘩」だの「空手」だのと戦闘的(?)な言葉が踊っているものの、むしろこれらは「ユーモア熱血小説」とでも呼ぶべきものだそうで(『週刊朝日』が城戸禮について紹介した際、そういう表現をしている)。そう言われれば、ウィキペディアのビブリオグラフィからは、のちにその作品の多くが春陽文庫に収められていることがわかる。こうしたことからもこの作家の本領が「エロと殺人を排した明るいユーモアもの」であるというのは想像がつく。

 しかし、そんな作家が1957年には「抜き射ち竜」(「抜き射ちの竜」ではなく「抜き射ち竜」。映画『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』で主人公のニックネームに原作にはない「の」を加えたのは脚本の山崎巌。これについて末永昭二は「「の」を一つ入れただけで、野暮ったく、何か恐竜の名前のようにも聞こえる「抜き射ち竜」が都会的でスマートな響きになった」)の異名を持つ麻薬中毒のやくざを主人公とするアクション小説を書いた。そして、これ以降、『無双の一撃』(1959年)『無法街の風来坊』(1960年)『十字火射ちの男』(1961年)……と、末永昭二が言うところの「ハードボイルド、アクション系の作品」が創作活動の中心になって行く。それまで「エロと殺人を排した明るいユーモアもの」を書いていた作家がこうした急激な路線変更を遂げることになったのは――やはりアメリカ製ハードボイルドがわが国に紹介されはじめたことと無関係ではないだろう。そう考えないことには、この急激な路線変更を説明できない。

 で、そう考えた時にだ、はたして城戸禮がこの種のものを書いたのが1957年の『日本拳銃無宿』が最初なのか? それ以前にはその種のものは書いたことはなかったのか? ということは、ワタシのような問題意識を持つものならば当然、思い至ること。しかもだ、末永昭二は城戸禮のプロフィールに関してこんなことも書いているのだ――「疎開先で終戦を迎え、職を探していたとき、『読物と講談』の復刊に当たって執筆を依頼される。復刊第一号から第四号までのすべての作品を、城戸禮、村上元三、谷屋充の三人がさまざまな筆名を使って執筆した。それ以来、同誌は城戸の主要執筆媒体の一つとなる。当時の筆名としては、原健、原健二、原健次、高田一郎、弘田法夫、姫野譲二、ジェン・ウィットモアー、加藤静子などが確認できている」。ここに登場する『読物と講談』が「カストリ雑誌」に当たるのかどうかはよくわからない。ただ、いくつものペンネームを使い分けていたとか、その中には外国人ふうの名前や女性の名前まであったとなると、もうカストリ臭(?)がぷんぷんするではないか! これは面白くなってきた。少なくとも、調べて見る価値はある……。そう思って「国立国会図書館サーチ」で検索したところ、残念ながら『読物と講談』についてはデータが得られなかったのだけれど、その代り弘和書房発行の『青春タイムス』という雑誌に1949年から1952年にかけて相当数の小説を寄稿していることがわかった(この『青春タイムス』が「カストリ雑誌」に当たるのかどうかもよくわからない。あるいは、「カストリ雑誌」なるものの定義に照らすならば、いささか外れている、とは言えるか? ただし、↓に記す理由でワタシは「カストリ雑誌」と見ていいのではないかと考えます)。で、その多くは「愛慾小說 女體の罠」(1949年8月号)とか「怪奇小説 乳房を咬む人造人魚」(1950年4月号)といったいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」の範疇に入ると思われる作品なんだけれど、しかし「現代仁侠小説 愛慾の彈痕」(1950年8月号)とか「急襲東京麻薬街」(1951年4月号)とか、アクション系と思われる作品も。そして――「仁俠愛慾小説 悲恋拳銃無宿」(1951年7月号)。なんと、ここに「拳銃無宿」の4文字が……。

『青春タイムス』1951年7月号

 『青春タイムス』は、「国立国会図書館/図書館送信参加館内公開」という条件付きながら、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。ただ、こういう時、ワタシは現物を手にしたいという欲望を抑えられないという困った性分を持ち合わせておりまして。しかも、「日本の古本屋」で検索すると、1点、リーズナブルな値段で商品登録されているではないか! ということで、入手したのが→。「連載小説 聖淫婦」とか「グラビア小説 肉体女学生」とか、いかにもという感じの文字が踊ってはおりますが、カバーそれ自体の印象としてはさほど低俗という感じはしない。ただ、ひとたびページを繰るや……。「ヌード傑作選 女体は濡れて……」は2人のモデルがバストトップも露に……。さらには「夏期好色講座」とか「女を語る放談会」とか「性愛描写研究 あをかんの卷」とか……。これが「カストリ雑誌」でなくてなんだ⁉ と(笑)。

 そんな正統「カストリ雑誌」の112ページから121ページまでを占めるのがお目当ての「仁俠愛慾小説 悲恋拳銃無宿」なのだけれど……これは、いい。何がいいって、主人公は志摩譲二なる人物なんだ。これがですね、仲間内では「コルトのジョー」と呼ばれているという設定。のちに宍戸錠は『拳銃無頼帖』シリーズにおいて「コルトの銀」(『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』)とか「コルトの謙」(『拳銃無頼帖 不敵に笑う男』)とか「コルトの譲」(『拳銃無頼帖 明日なき男』)とか呼ばれる(あるいは、自分で名乗っている?)人物を演じ、遂には自らが「エースのジョー」と呼ばれることになるのだけれど、その原型とも言うべき人物が既にこの「仁俠愛慾小説」には登場しているのだ。もっとも、「コルトのジョー」はキャラクター的には剣崎竜二の原型。では、「コルトのジョー」のキャラクターとは? 小説は「コルトのジョー」こと志摩譲二が2年の刑期(実際に科せられた刑期は3年。しかし、担当刑事の意見書が係官の心証を良くしたために1年早く出所できたと説明されている。実は剣崎竜二も一度、刑務所入りとなっているものの、模範囚だったために4年の刑期を3年弱に短縮されている)を終えて出所してきたところを当の担当刑事である谷島刑事が声をかける、というところから始まる。で、読者への〝説明台詞〟よろしく谷島刑事のこんなココロの声が綴られているのだけれど――

 〝コルトのジョー〟などと呼ばれ、仲間の間でも、無気味な存在と煙たがられてはいるが、中退ながらも一応は大学程度の教育は受け、暴力を背景に、正しいが故に弱い人たちを、虐げるだけが仕事の他のやくざどもと違つて、筋の通らない仕事には、頑固なくらい手を出さない、まつとうな正義感を持つている志摩譲二を、職掌と云う意味を離れて、谷島刑事は好きだつたのだ。

 これはほぼ剣崎竜二とも共通するキャラクターで、『日本拳銃無宿』によれば――「いつも竜二は、ダニやオオカミにとって絶好の餌食である、正しいがゆえによわい人々の味方をして、かれらに対抗するじゃまでうるさい存在だったからだ」。ま、「仁俠愛慾小説」とされながら、主人公の設定がこうなってしまうというのは、いかにも「ユーモア熱血小説」を書いていた作家らしい、とは言えるのかな。ただ、そんな「コルトのジョー」は所属する組の親分の命令で対立する組の親分を始末することになる(2年間、臭い飯を食うことになったのもそれが理由)。そこはさすがに「熱血」の2文字で片づけることはできない(はず)。もっとも、その描写はというと……。まあ、ここは実際に読んでもらうのがいいでしょう――

 翌日の正午、聚楽横にある二宮組の事務所の前に、譲二が立つていた。この時刻になると、二宮親分が妾のところへ、食事に出て行くのを知つていたからだ。 『こッ、この野郎ッ、何をしやがるッ』
 事務所から、一二間来た辺りで、物をも云わず力一杯、二宮親分の頸を殴りつけると、脱兎の如く二三間跳ね飛び、聚楽の建物を背にして、譲二は内ポケットに手を入れ、立ちはだかつた。
『ウウッ、貴、貴様はッ?』
 噛みつくように怒鳴つた、二宮親分をジッとみつめると、
『コルトのジョーさ。命は貰うぜ、親分』
 ユックリ云つて、譲二はニヤリと嗤つた。
 殴つたのも、聚楽を背にしたのも、譲二は充分計算しての上だ。二宮親分の弾丸がもしはずれたとしても、コンクリート造りのガッシリとした建物だけに、罪のない人たちには怪我はない。では、譲二の弾丸は? はずれないのだ、自分の腕に、譲二は絶対の自信を持つていた。
『な、なンだとッ』
 譲二の右手が、内ポケットへ入つているのを要〔ママ〕ると、素早く二宮親分は、左脇下に吊つていた拳銃を取り出した。〝コルトのジョー〟が、どんなに怖るべき男か、二宮親分もよく知つていたのだ。
 譲二の右手がジリッと動いた。その瞬間ダダーンッと二発、二宮親分の拳銃が火を吐いた。ガッガッビューン、譲二の背後のコンクリートが、えぐれて飛び散つた。
『慄えてるのかッ、親分ッ』
 嗤つた譲二の耳元へ、ダッビューンと、また一発。
『フン、案外下手だなッ』
 右手が雷光の如く動くと、
『行くぜッ』
 キラリ銃身が鈍く光り、ダーンッと一発腹の底に滲みわたる銃声。
『ウッウーッウッ』
 反射的に左胸を押えると、二宮親分の手から拳銃が、カチリッと音立てて舗道へ落ちた。
 一瞬、雑踏する人々の足音がピタリと止まり、シーンと静まり返つた無気味さの中に、
『チェッ、これでも親分か――』
 片頬を皮肉に歪めて嗤つた譲二の顔を、まるで化石したように、深い恐怖を湛えて無数の眼がみつめていた。

 擬音の使い方も含めて、テイストとしては『怪人二十面相』とかの少年少女向け探偵小説に近い? やはり「城戸の本領はエロと殺人を排した明るいユーモアものにある」という末永昭二の指摘は当たっている……。ただ、一方で「仁俠愛慾小説」と惹句(ちなみに、大衆小説におけるこの種の惹句は黒岩涙香の時代からの定番で、2行割り書きで題名の上に冠せられるのが仕様だったので「角(つの)書き」と呼ばれていた。歌舞伎などでは今でも使われているのかな?)が付されている通り、情婦との濃厚な愛欲シーンなどもあって、なかなかアナドレナイ――

 起き上ろうとする、朱実の胸のこんもりとした隆起が、プリップリッと重たく揺れる。その瞬間、熱風の如く軀中を走せ廻ぐる欲情を、もうどうにも押えきれなくなつて来た。
『アアッ、駄目ッ、駄目よッ』
 もがこうとする朱実の躰が、譲二の両腕に確りと抱きすくめられ、乱暴なくらい歯音を立てて、女の唇に男の唇が吸いついた。
『ウッウウッ』
 唇の間から女の声が洩れ、両腕が譲二の胸を押しのけようともがいた。自分を抗ばもうとする女の態度に、チラッと不審を感じたが、荒々しいまでに高調した官能の嵐が、その不審をたちまち吹き飛ばすと、朱実の厚い胸の上に、譲二の軀がノシかかつて行つた。
 その重い男の軀を、跳ね返えそうと二三度朱実は身悶えしたが、欲望に憑かれた男の手が、太腿と太腿の間に伸びると、半ば諦きらめたように、躰の力をスーッと抜いた。
 吸盤を思わせる激しい接吻と、官能を昻ぶらせて行く性愛の魔術。朱実の白い腕に義理でなく、徐々に力がこもり、やがて、譲二の軀に身をくねらせながら、自分の躰を絡ませて行つた。
 女の肉体が燃えて来るのが、荒い息使いと柔らかな躰のうねりに感じられると、堪えようもなく譲二は、確り抱えこんだ女の情痴のねばッこい沼の中へ、一気に、奔騒する情欲を沸ぎらせ注ぎこんで行つたのだつた。

 こういう描写も含め、全体的な印象としては、これはやっぱり戦後の混乱期に一時の現実逃避を求めた男たちのための読物なんだろうなあ、と。そういう意味では、キャロル・ジョン・デイリーやダシール・ハメットやポール・ケインら「アメリカン・ハードボイルドの嚆矢」と目される作家たちの作品群ともどれほどの違いもないのでは? キャロル・ジョン・デイリーやダシール・ハメットやポール・ケインらが主戦場としたのは「パルプ雑誌」と呼ばれる粗悪なパルプ紙に印刷された雑誌群。それが「禁酒法」と「大恐慌」によって定義される時代(1920年代から30年代にかけて)にあって一時の現実逃避を求めた男たちによって読まれたものであることは改めて指摘するまでもない。「国産ハードボイルドの嚆矢」について考えようとするのならば、こうしたアメリカン・ハードボイルドの成立過程も踏まえつつ、「カストリ雑誌」の誌面を飾った↑のような未生成な(それゆえいかなるジャンルへの振り分けもできない)作品群についても視界には入れるべき――と、こんなことを書いちゃうと、ここで記事が終っちゃうな(笑)。

 いや、終ってもいいんだけど、ただもう少しだけ書きたいことがあるので今しばらくおつきあいをいただくとして――ともあれこうして「仁俠愛慾小説 悲恋拳銃無宿」にはこれぞ「国産ハードボイルドの嚆矢」と見なしうる要素(社会の混乱期に一時の現実逃避を求めた男たちのための物語であること)と見なしえない要素(暴力描写がおよそ『怪人二十面相』レベルでとても「ハードボイルド」と呼びうるものではないこと)が混在しているわけだけれど、ただこれが書かれたのが1951年であるというのは、国産ハードボイルドの歴史について考える時、なかなか興味深い事実ではある。というのも、実はこの年、東映では『拳銃地獄』という映画が作られているので。さらにそれが引き金となったかのように『霧の夜の兇弾』(1952年)『七番街襲撃』(1953年)『暁の市街戦』(1953年)『暗黒街の脱走』(1954年)『二挺拳銃の竜』(1954年)……と、同じような匂いがたちこめる映画が次々と製作されている(ちなにみ、ワタシがこれらの映画の存在を知ったのは↑でもちょっと触れた西脇英夫著『アウトローの挽歌:黄昏にB級映画を見ていた』によってなんだけれど、西脇英夫は同書の中でこれらの作品を紹介するに当たって「Gメン活劇」としている。しかし、日本映画製作者連盟のデータベースで閲覧できるストーリーを読む限り、大半は「Gメン活劇」じゃないんだよね。たとえば『拳銃地獄』の場合は――「出征前夜に織り合った一人の女を想い続ける夜の紳士が、遂に真人間に立ち直る迄。鉄火と仁侠の渦巻く港町に展開する哀愁のドラマ」。また『霧の夜の兇弾』の場合は――「運命の港横浜を背景にして、暗黒街に巣食う仮面の紳士と熱血青年が織りなす昂奮のメロドラマ」。ハテ、西脇英夫は本当にこれらの映画を見たのだろうか?)。これらの映画が「ハードボイルド」という術語で語られることは、これまでもなかったし、これからもないだろう。しかし、明らかにこれらは「ハードボイルド」ですよ。それは、見なくてもわかる。なぜか? この時代の日本には「ハードボイルド」が生れてくる培地が間違いなく存在したので。

 「ハードボイルド」につてい考える時、最も重要な論点は何か? それは、「ハードボイルド」が「どのような」物語かではない。「どのように生れてきた」物語か――、これですよ。ここは少しばかり↑に書いたことを繰り返すことにもなるけれど、キャロル・ジョン・デイリーやダシール・ハメットやポール・ケインらがのちに「ハードボイルド」と呼ばれることになる特異な作品群を書きまくっていた1920年代から30年代にかけて。この時代、アメリカでは「禁酒法」が施行され、そのことがかえって〝反社会的勢力〟につけ入る隙を与え、シカゴなどは市長までがアル・カポネに買収されて、事実上、彼の手下になっていた。さらには1929年10月24日の「ブラックチューズデー」を引き金とする「大恐慌」によってアメリカの街という街は失業者であふれ返るなど、社会には緊張感が充ち満ちていた。「ハードボイルド」という異端の文学はそんな「社会的な緊張」を培地として生れてきた――というのが、ワタシの「ハードボイルド」についての基本的な認識。これについてはこれまでも繰り返し書いてきた。とりあえずここでは「工藤ちゃんの秘密〜松田優作とハードボイルドをめぐる「独自研究」①〜」にリンクを張っておきますが――「ハードボイルド」なるものをそのように捉えるならば、『拳銃地獄』以降の一連の映画を(見もしないのに)「ハードボイルド」と決めつめるのはなんら無謀ではない。なぜなら、この時代の日本にもそんな「社会的な緊張」が充ち満ちていたのは言うまでもないことなので。そこには間違いなく「ハードボイルド」を生み出す培地は存在した。そして、確かに「ハードボイルド」は生れていたのだ。それが『拳銃地獄』以降の一連の東映「B級アクション映画」群であり、そして「仁俠愛慾小説 悲恋拳銃無宿」である……。


※本稿公開後、城戸禮よりもさらに早く、しかも明確にハードボイルド・タッチで記されたと言い得る作品を発表していた作家がいたことがわかりました。その作家とは、日本人なら誰一人として知らぬもののいないあの「国民作家」だった……というオドロキの展開は「千田二郎は外套の衿を立てる。〜「国産ハードボイルドの嚆矢」をめぐる一考察第二番〜」にて。