PW_PLUS


ある郷土愛者の超主体的「史跡」考②
〜みやさきをゝいおとされたるよしきこしめし候ぬ。〜

 それにしても、この注釈はどーなのよ。本文よりもボリュームがあるくらいで、この程度の記事にここまでの注釈が必要? でも、これを書いた人(って、ワタシなんですけどね)としては、どうしても書かざるをえなかったんだろう。その執着の正体って一体……? あと、どーもこのヴィジュアルがなにかに似ているような気がずーっとしていて、なんだろうと考えていたんだけれど、ようやくわかった、『クトゥルー神話事典』ですよ。その「禁断の大百科〈用語事典〉」とか「暗黒の文学館〈作品案内〉」とか「深奇の紳士録〈作家名鑑〉」とか。事細かに羅列してはいちいちコメントを付している、その〝狂気〟に通ずるものがあるようなないような……。

 ま、自分で書いたものに自分でコメントするようになったら、もう立派なHPL的世界の住人だ(笑)。ということで、本題に入ろう。「北陸宮の御墳墓」の「史跡」としての価値に疑問を投げかけるだけでは飽き足らず、宮崎太郎の諱を「長康」とする「北陸宮と宮崎太郎のための資料編さん委員会」の調査結果にもイチャモンをつけたワタシではありますが、朝日町ないしは朝日町が誇る歴史資産へのネガキャンはまだつづく。今度のターゲットはこれだ――


宮崎城跡・案内板

 宮崎城跡の本丸跡に設置された案内板なのだけれど、ハッキリ申し上げる、この説明文はいただけない。どこがか? 宮崎太郎を「宮崎太郎長康」としているところ? それについては、もうやったので。それ以外に、もう1か所、どうにも納得できない部分がこの説明文にはあるのだ。それは「皇位継承の望みを断たれた北陸宮の入洛後は承久の変(1221)の戦場となり」――としている部分。いや、宮崎城が承久の乱の戦場となったのは間違いない。これについては『承久記』などには記載はないものの、時の最高権力者の書状(御教書)にそれを裏付ける記載が認められるので疑いを挟む余地はない。宮崎城は、間違いなく、承久の乱の古戦場。で、↑の案内板でもそのことに触れてはいるわけだけれど――でも、あまりにも表現がアッサリとしすぎてやいませんかってんだ。特にさ、その時の宮崎城主は誰だったのよ。これは特記するに値する情報じゃないの? そのすぐ後には「安土桃山時代には前田家が家臣の高畠、小塚などの武士を配しておりましたが」――とあって、単に城代を務めただけの人物の名前を(姓だけではあるけれど)シッカリと明記している。それでいながら、合戦の規模としてはソノモノたちが経験したであろうものとは比べものにならないような(なにしろ、幕府側が動員した兵力は〝主催者側発表〟で19万、北陸道軍だけに限っても4万とされている)承久の乱当時の城主の名前がハブられている――、そんなことが納得できようか? できるわけがない!

 ということで、まずは越中宮崎城が承久の乱の古戦場であることを裏付けるおそらくは唯一の史料と目されるものを紹介しておこう。既に記したようにそれは時の最高権力者の書状(御教書)で、承久の乱当時の最高権力者と言えば――そう、鎌倉幕府第2代執権・北条義時。来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公であります。ということは、もしかしたら……⁉ この御教書、山形県酒田市にある本間美術館が所蔵する「市河家文書」に含まれるもので、当時の市河家当主と思われる市河六郎刑部なる人物から北条義時に送られた書状(戦況報告)への返書というかたちになっている。ちなみに市河家というのはもともとは甲斐国市河荘の荘官だったらしい。しかし、いろいろあって(この「いろいろ」について事細かに説明するだけの歴史的教養はワタシには備わっておりません。不悪)、この当時は信濃国に所領を有する御家人だったらしい(後ほど紹介する『宮崎定範事歴』では「下高井郡市川村等の地頭」とされている)。で、幕府の召集に「いざ、鎌倉」とばかりに馳せ参じて北条朝時を「大将軍」(『承久記』などでこの呼称が使われている)とする北陸道軍の配属となり、5月30日付けで北陸戦線の最新の戦況を書き送ってきた、それに対する返書――ということになるらしい。なお、牛山佳幸「「市河文書」註釈稿(二)」(『信州大学教育学部紀要』第78巻)によれば、北条義時は信濃国の守護でもあったとかで、この書状も幕府執権という立場ではなく、「信濃国守護の立場で同国住人市河六郎刑部に宛てたものか」とされている。なるほど、そういうことならば、時の最高権力者と一介の御家人の間で書状が交わされているという不可解さもそれなりに説明はつくか。もっとも、これが幕府執権としての公式文書である御教書であることは奉書形式が取られていることからも明らかで、名義人(奉者)である人物の署名(藤原兼佐)の下には「奉」の一字も記されている。さらには北条義時の花押も記された紛れもないホンモノ。偽文書の可能性は、ない。紹介するに当たっては「「市河文書」註釈稿(二)」等、テキストとすべきものはいろいろあるのだけれど、ここでは『大日本史料』第4編第16冊(東京大学史料編纂所の「大日本史料総合データベース」でも閲覧可能)から(極力)原文のままで――

(義時花押)
五月卅日ねのときに申されたる御ふみ、けふ六月六日、さるのときにたうらい、五月つこもりの日、かんはらをせめおとして、おなしきさるのときに、みやさきをゝいおとされたるよしきこしめし候ぬ、𛁈きふのせうをあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたきおひおとしたるよし申されたる、返々しむへうに候、又にしなの二らうむかひたりとも、三百きはかりのせいにて候なれは、なにことかは候へき、又しきふとのも、いま𛂞おひつかせ給候ぬらん、ほくろくたうのてにむかひたるよしきこえ候𛂞、みやさきのさゑもん、にしなの二郎、かすやのありいしさゑもん、くわさのゐんのとうさゑもん、又しなのけんし一人候ときゝ候、いかにもして一人ももらさすうたるへく候也、山なとへおひいれられて候𛂞ゝ、山ふみをもせさせて、めしとらるへく候也、さやうにおひおとすほとならは、ゑ中、かゝ、のと、ゑちぜんのものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれ𛂞、大凡山のあんないをもしりて候らん、たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす、又ちうをぬきいてゝ、さやうに御けんにんをもすゝめてたゝかひして、かたきをゝいおとされたる事、返々しむへうにきこしめし候、しんたのおとゝの四らうさゑもん、六らうなとあひともにちうをつくしたるよし、返々しむへうに候、又おの/\御けんにんにも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたきをもうちたらんものにおきて𛂞、けんしやうあるへく候なり、そのよしをふれらるへく候也、あなかしく、
六月六日 藤原兼佐 奉
いちかわの六郎刑部殿 御返事

 鎌倉幕府の召集に「いざ、鎌倉」とばかりに馳せ参じた総勢19万の内、北陸道を経由して京をめざす北条朝時を「大将軍」とする4万が、承久3年5月30日、越後と越中の国境にある「蒲原」なる地(この「蒲原」なる地がどこを指すのかは必ずしも判然としない。『訳註大日本史』では「越後国蒲原郡大蒲原村のこと」としているものの、それだと越後と越中の国境とするには離れて過ぎている。また『承久記』の「一方ハ岸高クシテ人馬更ニ難通、一方荒磯ニテ、風烈キ時〔ハ〕船路心ニ不任、岸ニ添タル岩間ノ道ヲ傳フテトメ行バ、馬ノ鼻五騎・十騎雙ベテ通ルニ不能、僅ニ一騎計ル道也」という描写とも一致しない。そういう描写と一致するのは「天下の険」として知られる親不知。しかし、こんなことをやっているからウィキペディアの「宮崎太郎」の記事の注釈みたいなことになってしまうわけで……)で朝廷軍と激突したことは『承久記』や『鎌倉北条九代記』などにも記されている。しかし、同じ日、宮崎でも合戦があったことを伝えているのはこの御教書だけ。しかも、「みやさきをゝいおとされたるよし」と書いているのだから、これは「宮崎城を落とした」ということであり、朝廷軍側は蒲原の防衛線(逆茂木などを張りめぐらして鹿砦化されていたことが『承久記』などに記されている)を破られた後は宮崎城に籠もって抵抗を続けていたということだろう。で、実はこれはかなり重要な事実で、というのも宮崎城がいつ築かれたのかはハッキリとしたことはわかってないんだよね。宮崎太郎を初代宮崎城主とするのが一般的ではあるものの、宮崎太郎の時代に既に城が築かれていたことを裏付ける確たる証拠があるわけではない。しかし、承久3年(1221年)の時点では城はあった――、それがこの御教書でハッキリ裏付けられると言っていい。であるならば、宮崎太郎が北陸宮を宮崎に招いた寿永元年(1182年)か、義仲軍が京へ向けて進軍を開始した寿永2年(1183年)の時点では既に城が築かれていた――としても全然おかしくはないわけですよ。だって、承久3年の時点では城はあったわけだから。その間、わずか40年しかない。となると、たかだか40年早いか遅いかというだけの話で、それで「学問的根拠はなく当時から城であったという確証はない」――とか、そんなチマチマとしたツッコミを入れなくてもいいと思うんだけどねえ……。なお、ウィキペディアの「宮崎城 (越中国)」の記事の今言った下りにつづけて「しかし、承久3年(1221年)の承久の乱の時点では既に城であったことは確実で、5月30日午後4時頃、北条朝時を大将軍とする幕府軍に攻め落とされたことが北条義時の承久3年6月6日付け御教書で確認できる」――と、ツッコミ返し(?)とも言える加筆をしたのは、ご推察の通り、このワタシであります。オタクに対処する最善手は、こっちもオタクになることですよ……? ともあれ、こうして宮崎城はかの承久の乱の古戦場の1つであることは確実なわけだけれど、にもかかわらず現地の案内板での扱いがなんともアッサリしている――というのがワタシの不満でして。むしろ宮崎城を舞台に繰り広げられた数々の合戦や歴史的イベントの中でも最も字数を費やして記すべき出来事なんじゃないの? なんたって、承久の乱なんだから。日本史上、全国規模の合戦というのはいくつかあるけれど、その中でも19万もの大軍が東海道、東山道、北陸道という3ルートに分かれて京に攻め上るというオペレーションはそのダイナミズムにおいて群を抜いていると言っていい。はたして来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』がこのダイナミズムを首尾よく映像化できるかどうか――、その点に若干の危惧を抱かざるをえないところで、まかり間違っても『新選組!』の鳥羽・伏見の戦いみたいなことにはならないように……と、そんな心配をしたくなるくらいにはスケールの大きな合戦ですよ。そんな歴史好きの血を滾らせずにはいない大合戦の古戦場である――という割には説明がアッサリしているんじゃないの? しかも、問題なのは、当時の宮崎城主の名前が記されていないこと。もしかして、わかっていない? とんでもない。その人物の名前は↑の御教書にもちゃんと記されている。すなわち「ほくろくたうのてにむかひたるよしきこえ候𛂞、みやさきのさゑもん、にしなの二郎、かすやのありいしさゑもん、くわさのゐんのとうさゑもん、又しなのけんし一人候ときゝ候」――という、北陸道で幕府軍を迎え撃った朝廷軍側の将官として真っ先に名前が挙げられている「みやさきのさゑもん」こと宮崎左衛門尉定範(一応、これについても説明しておくと、諱については「時政」とも「親成」とも伝わるものの、鎌倉幕府の公式記録とも言うべき『吾妻鏡』では「定範」とされている。また宮崎左衛門尉定範は大正6年になって正五位を追贈され、晴れて「忠臣」の列に加えられているのだけれど、その際も「定範」とされていた。しかし、ねえ、そういう人物を例の〝皇族芸人〟を講師に招こうとした朝日町教育委員会が完全スルーしているというんだから。で、ワタシみたいなパヨクがそれに文句を言っているという……)であることがハッキリしている。だから、富山県教育委員会ならびに朝日町教育委員会もここは特記すべきなんだよ、「皇位継承の望みを断たれた北陸宮の入洛後は承久の変(1221)の戦場となり、城主・宮崎左衛門尉定範が官軍の総大将となって4万の幕府軍と戦った」――とかなんとかね。こうすれば、俄然、宮崎城跡の「史跡」としての価値が高まること請け合い。

 しかし、どういうわけか富山県教育委員会ならびに朝日町教育委員会はお国から「忠臣」と認められた人物の名前を説明文からオミットした。実は宮崎城跡には↑の案内板以外にもいくつか案内板が設置されているのだけれど、宮崎左衛門尉定範の名前が記されたものは1つもない。1つもない(ここはあえて2回書いておこう。大事なことは2回書く。これ、基本)。これはねえ、なんとも奇妙だと言わざるをえない。で、こんな奇妙なことがまかり通るに当たっては、必ずなにかしらの理由があるはず。それについて、富山県教育委員会ないしは朝日町教育委員会に問い合わせよう――とは、もう思わない。どうせあちこち電話を回された揚げ句、「後程こちらの方からかけなおします」ということになって、結局、その電話はかかってこないんだから(「ある郷土愛者の超主体的「史跡」考①〜我かくてペルソナ・ノン・グラータとなりにけり。〜」にも書いたように、1度ならず2度までもそういう扱いを受けた。どうやらワタシは朝日町の歴史資産にイチャモンをつけるペルソナ・ノン・グラータと見なされているらしい……)。だから、以下に記すことは完全にワタシの〝下衆の勘ぐり〟であるとお断りした上で――要は宮崎太郎長康なんだろう。朝日町は初代宮崎城主を宮崎太郎長康であるとしており、その宮崎太郎長康が後白河法皇の皇孫である北陸宮をこの宮崎の地に招いて秘護した――、この事跡を宮崎城跡にまつわる最大のストーリーとして数々の観光プロモーションを繰り広げている、という事実がある。↑の案内板の説明文からも、そのことは十分うかがえるはず。しかし、初代宮崎城主を宮崎太郎長康であるとするのは、実は間違いなのだ。いや、間違いと決めつけるのはいささか言い過ぎかな。ここは、「ある郷土愛者の超主体的「史跡」考①〜我かくてペルソナ・ノン・グラータとなりにけり。〜」にも書いたように、「今、深刻なチャレンジを受けている」――としておきましょうか。いずれにしても、1970年に「北陸宮の御墳墓」と「宮崎太郎長康公の供養塔」が三の丸跡に造営されて以来、丸50年に渡って朝日町が繰り広げてきた宮崎城跡にまつわる観光プロモーションは、今、破綻の危機に瀕していると言っていい――そのことを、朝日町教育委員会なり朝日町観光課なりが認めるかどうかは別として。

 ただ、そのことと、朝日町の観光戦略から宮崎左衛門尉定範の存在が完全にオミットされていることとの関係は? とお尋ねならば、こう答えよう――朝日町は(彼らが初代宮崎城主であると言い張る)宮崎太郎長康と宮崎左衛門尉定範の関係を説明できないのだ。実はこれについては1984年に刊行された『朝日町誌 歴史編』ではこう記されている――「長康家が木曽義仲の根拠地である信濃へ移ってから朝日町では宮崎村の定範家が有力者となっていた」。つまり、宮崎左衛門尉定範は同じ宮崎姓ではあるけれど、宮崎太郎長康とは別流である、としているのだ。まあ、ねえ、初代宮崎城主を宮崎太郎長康とする以上はそうせざるをえないでしょう。宮崎太郎長康は、朝日町教育委員会が1960年代に行った調査で最大の典拠とした『南信伊那史料』(ないしはそのネタ元である信州伊那の宮崎家の系譜)を信じるならば「義仲亡フルニ及ンテ長康獨リ逃レテ信州ニ入リ伊那郡黑田村ヲ押領シテ此ニ居館ヲ搆ヘ家號ヲ以テ在名ヲ立テ地字ヲ宮崎ト稱ス」――、つまり信州伊那に逃れて、以後、その家系は信州の地で紡がれて行くことになるのだから。そうすると、承久3年当時、宮崎城主だった宮崎左衛門尉定範は宮崎太郎長康とは別流である、ということにせざるをえない。でも、同じ宮崎の地で宮崎の姓を名乗っていながら、別流である、というのはいかにも苦しいという気がするんだけどねえ。さはありながらだ、そうせざるをえなかった。だから、『朝日町誌 歴史編』などではそう書いた。でも、それがいささか苦しい説明であるというのは、朝日町の側でもわかっていたのだろう。だから、できることならば宮崎左衛門尉定範については触れないようにしたい――というか、宮崎城跡は北陸宮と宮崎太郎長康で売り込む、ということに徹するのならば、ことさら宮崎左衛門尉定範については触れなくて済む。↑の説明文はそういう方針に則って記されたもの……。

 しかし、いずれこんなことは終わりにしなければならない。「ある郷土愛者の超主体的「史跡」考①〜我かくてペルソナ・ノン・グラータとなりにけり。〜」にも書いたように、黒部市荒町で宮崎文庫記念館・尊史庵を運営する宮崎隆造家では初代宮崎城主にして同家の始祖に当たる人物を宮崎太郎重頼としており、3代を宮崎定範としている。こちらの系譜を信用するならば、宮崎太郎と宮崎左衛門尉定範との関係は別流などではなく嫡流ということになる。そして、朝日町としては、この説を採用しちゃえばいいんだよ。そうすればすんなりと説明できるじゃないか。もちろん、その場合、初代宮崎城主たる宮崎太郎の諱を「長康」としたのは間違いだった、と認めなければならないわけだけれど――認めちゃえばいいじゃないか。「過ちては改むるに憚ること勿れ」だよ。それには、ちょうど良い機会だと思うけどなあ、来年、『鎌倉殿の13人』の放送を控える今というタイミングは。朝日町だって、乗っかりたいに違いないんだから。『鎌倉殿の13人』が北条義時を主人公とする以上、最大の見せ場が承久の乱になるのは間違いない。その承久の乱の古戦場を抱える朝日町としてはこれに乗っからないという手はないわけで……乗っかればいいんだよ。大河ドラマってのはそういうものなんだから。そのためにも、初代宮崎城主を宮崎太郎長康としてきた1970年以来の誤謬を改め、初代宮崎城主は宮崎太郎重頼で、その孫こそは宮崎左衛門尉定範であり、北条朝時率いる4万の大軍に敢然と立ちはだかるも「寡兵如何でか衆兵に敵すべき」。ここは大正6年に宮崎定範が正五位を追贈されたのを記念して当時の宮崎村から刊行された『宮崎定範事歴』の名調子を引くならば――「五月晦日拂曉、賊軍の先進別隊、信濃國の住人下高井郡市川村等の地頭市川六郞刑部等來攻せしかば、定範衆を勵まし、山上より弩を放ち應戰奮鬭したり、既にして天明け、折しも風波靜まり海上穩になりければ、賊兵心安く波打つ磯を渡り、山上山下潮の如く一時に大擧し來る、是を見たる定範、難關遂に敵の破る所となるあな殘念なり、と腕を扼し齒を䫴み、國境に退却し境川にて防止せんとしたりしが、寡兵如何でか衆兵に敵すべき、勝ち誇りたる賊軍の追擊益々急にして再び敗北し、同日午後四時頃本據地たる宮崎城をも支ふること能はず、敵の累破する所となり陷落の悲境を見るに至りしは、洵に凄慘の極なりき」。その悲境の古戦場こそは、この宮崎城である――と、今、堂々と言えるチャンスがやってきたのだと……。