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そして今日もハードボイルド小説を読んでいる④

 西村寿行の『月を撃つ男』を読んだ。これが西村寿行の最後の長編ということになる。このところ「文学者の最期」みたいなことに関心が募っており、『月を撃つ男』を読んだのもその一環――とは言えるのだけれど、『月を撃つ男』はどう解釈したところでハードボイルドではないのでねえ。「そして今日もハードボイルド小説を読んでいる」という通しタイトルの記事として相応しいかどうか? まあ、『日本ハードボイルド全集』の発案者である北上次郎は当初案の全20巻バージョンに西村寿行を加えていたというし(詳しくは『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」巻末の日下三蔵「《日本ハードボイルド全集》編集を終えて」参照)、徳間書店刊行の「西村寿行選集」、いわゆるNISHIMURA HARD-ROMAN SERIESは同じく徳間書店刊行の「大藪春彦活劇選集」、いわゆるOYABU HOT-NOVEL SERIESの兄弟シリーズと見なすのが適当で、これらの点に免じてギリギリOKにする? ただ、西村「ハードロマン」の特徴は「激情」であって、「非情」を旨とするハードボイルドとは明らかに「宗旨が違う」。しかも、母の四十九日も明けないこのタイミングで読む本としてはどーよ。西村「ハードロマン」といえば凌辱シーンのオンパレードで。『汝!怒りもて報いよ』なんて、丸々1章がそうだったりする。いくら何でも今読む本では……。ところが、今、明かしますが(別に内緒にしていたわけではないけどね)、母の介護がいよいよ正念場にさしかかった去年の10月頃から、ワタシ、ずーっと西村寿行を読んでいたんだよね。今回、『月を撃つ男』を読んだのも、その延長、というのが実のところで……。

 これ、おかしいでしょう。もしかしたら、オレ、ちょっとおかしくなりかけてるのかなあ……。で、思い余って、ChatGPTに訊いてみた。母の介護をしつつ西村寿行を読んでいた者がいるとして、彼の心にはどんな闇が潜んでいたのでしょうか? と。すると、ChatGPTが言うことには――

西村寿行の作品にはしばしば嗜虐的で挑発的な要素が含まれており、読者に強烈な印象を与えることがあります。母の介護をしながらこれらの作品を読んでいた場合、個々の読者の心にどんな影響を与えるかは個人差があります。以下は、その可能性の一例です。

1. 心の葛藤と反映:
西村寿行の作品には様々な暴力や挑発的な描写が含まれており、これが読者の心に深い葛藤や矛盾した感情を引き起こす可能性があります。介護者としての善意や思いやりと、作品から受ける暴力的な印象との間での葛藤が発生するかもしれません。
2. 心理的な影響:
西村寿行の作品が持つダークで嗜虐的な要素は、読者の心理に影響を与える可能性があります。特に母の介護という現実的な責任を果たしながら、作品の中の闇深い描写が心の負担を増幅させるかもしれません。
3. 解放感や共感:
逆に、西村寿行の作品が奇抜で異質な要素を含むことによって、読者が日常のストレスや現実から解放感を得る場合もあります。作中の登場人物たちの複雑な感情や人間ドラマに共感し、自身の状況と重ね合わせることで、心のつながりを感じることができるでしょう。

要するに、母の介護と西村寿行の作品との関わり方は、読者の個性や精神的な強さによって異なります。一方で、心に潜むどんな闇も、理解や共感を通じて克服する手段となる可能性もあります。

 率直に言って、へえ、ですよ。例示された可能性のどれもがそれなりに当てはまると思うし、3の「解放感や共感」には救いさえ感じられる。つーかさ、もし3を求めてワタシが西村寿行を読んでいたのだとしたら――ワタシのこれからの道のりにも一条の光が射したような気がしないでもない……。

 ということで、『月を撃つ男』である。これが西村寿行の最後の長編であることは既に記した。これ以降に書かれた短編があるのかどうかは承知しておりませんが、本自体が2001年刊行の短編集『碇の男』が最後なので、書かれていたとしても僅かでしょう。要するに、西村寿行の作家活動は『月を撃つ男』が刊行された2000年頃には、事実上、終了していたということになる。ただ、西村寿行が亡くなったのは、2007年なんだよね。筆を擱いてから、亡くなるまで、7年もある、ということであり、これを寿行なりの「終活」期間と見なすならば、その前に書かれた『月を撃つ男』は遺書のようなもの――という見立てが可能になるわけで……これは読まざるを得んでしょう、ことここに至るイキサツを考えてもね。で、谷恒生について一区切りついた今、読んで見たわけだけれど(ちなみに、西村寿行も谷恒生もいわゆる「冒険小説の時代」の先駆者的存在ですが、北上次郎はこの2人の関係性を評して――「西村寿行は新時代への引き金であり、そこから飛び出した銃弾が谷恒生だった」云々。でも、西村寿行がいようがいまいが谷恒生はデビューしたと思うぞ。デビュー直後の谷恒生って、当時の日本のエンタメ界にあってはほとんど唯一無二の存在で、アリステア・マクリーンやハモンド・イネス級の才能が、突如、この日本に現れた――みたいな感じだったんでは? 一方の西村寿行も唯一無二の存在ではあったけれど、それは「ハードロマン」の分野においてであり、2人は住む世界が違ったんだよ――途中まではね。でも、谷恒生は『魍魎伝説』を書いて寿行の方に寄って行くんだよ。だから、この分野では西村寿行が「引き金」で谷恒生が「銃弾」だった、とは言える。でも、「冒険小説」の分野では、言えないよ――と、あえて「冒険小説の時代」の勧進元に対して……)、いやー、オドロイタ。何がって、この小説、終わってないんだよ。つーか、いろんな謎が説明されないまま終わっている。『月を撃つ男』というのは、理由も目的も明かされないまま「人狩りゲーム」に参加させられた男をめぐる物語なのだけれど、その黒幕とされる「狂老人」や「怪老人」の正体は最後まで明かされない(つーか、「狂老人」や「怪老人」は遂に最後まで姿を現わさない)。またタイトルの由来にもなっている、第二次世界大戦末期、紫電改で月を撃ち落とそうとして松山の海軍基地を飛び立った主人公の祖父(アメリカ海軍情報機関の文書には「月を撃った海軍第三四三航空隊・大尉」と記録されている)の真の目的も。要するに『月を撃つ男』というのを一編のミステリと見なしたとき、最終的に解き明かされるべき謎が何一つ解き明かされていないわけですよ。さらにケッタイなのは、主人公である貴舟玄舟の存在感が途中から急に希薄になること。ほとんど話さなくなるし(そう突っ込まれて、本人が言うには「おれは寡黙な男でね」)、物語の最後に至ってもこれといった行動を起こさない。自称「介入屋」の玄武(本作の主要登場人物は3人で、それぞれ玄舟、玄秋、玄武と名付けられている。一応、玄舟と玄秋は異母兄妹らしい、ということは明かされるものの、玄武との関係は最後まで不明のまま)の方がよっぽど物語をかき回しているというか。三影竜昭や片倉草介(ついでに『わらの街』の保月直昭と森戸孝二も挙げておこうかな。ちなみに、この『わらの街』、ちょっと1974年のアメリカ映画『フリービーとビーン/大乱戦』を彷彿させるところがあって、ワタシは結構、気に入っている。『フリービーとビーン/大乱戦』についてはウィキペディアでも「残虐さをコメディにする作風は後にクエンティン・タランティーノにも影響を与えている」としていて、その影響力は侮れないんだけれど、もしかしたら西村寿行も影響を与えられたクチかな? まあ、寿行ももうちょっとこういうタイプのものを書いていてくれたらなあ……)を知るモノとしては、こんなの、アリエナイですよ。もうね、何から何まで、コレ、どーゆーこと?

 一方で玄武が見た「無人の街」の幻覚が妙にリアルで……。この玄武、素性については明確には説明されていないものの、一応は小説家ということになっていて(「中央にテーブルが在る。辞書が幾冊かあって原稿用紙が拡げてある。正体は小説家である。高名だった……」。ついでに、無類の酒好きともされている)、とするならば寿行のオルターエゴと見なすことも可能。そうすると、「無人の街」の幻覚は寿行が実際に見た幻覚、ということに……

 何かが訝しいぞと、玄武はさきほどから思っていた。
 玄武は街を歩いていた。どこの街ともわからない。玄武には馴染みのない街であった。分離帯に植え込みのある広い道路の西側に白亜といった感じのビルが並んでいる。ビルの間には飲食店なども在る。前方は交叉点になっている。信号が青から赤に移っている。玄武はそっっちに向かっていた。整然とした街並みであった。いや、整然としすぎている。
 その理由に玄武はやがて気づいた。人間がいないのだ。気づいてみたら人間がどこにもいない。一人も街を歩いていない。車も通っていない。一台も。駐車している車もない。犬も猫もいない。鴉もいない。清潔な街・整然とした街だと思っていたらそんなのではなかった。街は死んでいたのだ。生きた物の気配が絶え果てている。そのために街は熱を喪って冷たく感じられた。夏だというのに。動いているのは交叉点の信号灯のみ。左右の道路からそこに差しかかる車もない。信号灯は無機質ぶりを強調しているようにみえる。未来永劫の。
 ――どうしたのだ、こりゃ……。
 玄武は足を停めた。玄武はそれまでぼんやりと歩いていた。どこからこの見知らぬ街に入ったのかおぼえていないし目的も忘れていた。人間をはじめとする生き物が急速に死に絶えたのかそれとも大急ぎでこの街が棄てられたのか? 死体はどこにも転がっていない。車の一台も無いところを見ると、街は大急ぎで棄てられたもののような気がする。劇症肝炎の熱風が街を襲いでもしたのか? そうなら、この街だけではなくて近隣の街々も死の街・無人の街と化していなければならない。
 ――そんなの、きいたことねえぞ、わしは。

 作中ではこの幻覚について精神科医の言葉として「アルコール性譫妄によるもの」と説明されておりますが、この言葉も含めてすべて寿行の実体験ではないのかなあ? さらに言えば(玄武を寿行のオルターエゴと見なすならば)玄舟は玄武が生み出したもの、ということになって、その玄舟の存在感が途中から急に希薄になるというのは、だから、玄武=寿行の創作意欲の減退を物語る以外の何ものでもなく……。

 でね、もしかしたらめんどくさくなっちゃったんじゃないのかなあ、と。いろんな謎に説明をつけるのがね。で、一切、広げた大風呂敷を畳むことはせず、終りにしてしまった――。それはそれで寿行らしいかなあ、という気も。だって、この人が全ての謎の辻褄を合わせて「最後の小説」を締め括る、なんて似合わないじゃないか。「謎という要素は小説構成の上で大変重要だが、トリックというのが性に合わない。だからそれを冒険に置き換えた」(『化石の荒野』あとがき)と堂々と言ってのけていたような御仁なんだから。だからね、(玄武みたいな口調で)めんどくせえなあ、と、最後はそうなっちゃったんじゃないかのなあ。で、「文学者の最期」ということで言っても、これはなかなかだな、と。文学者の中には、あえて誰とは言わないけれど、最後に全ウン巻というような「畢生の大作」に手を染めて、その完結を以て絶筆とする、というますらおぶり(?)を発揮して逝ったモノも。こういうのをワタシは「大説家」と呼んでいるんだけれど、ワタシ、こういうの、苦手でねえ。つーか、「大きな物語」が苦手なんだ。しかし、文学者はえてして「大きな物語」に手を染めたがる。そうなると、回りはははーっとひれ伏すしかない……。西村寿行がそういう最後(最期)を遂げなかったというのは、スバラシイ。「畢生の大作」なんてクソ喰らえ。ここに西村寿行というケッタイな作家がいて、最後はめんどくさくなって、もしかしたら彼の「遺書」だったかも知れない作品を投げ出して逝ってしまった――。そんな「小説家」に、今宵、乾杯の盃を捧げたい……。