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映画でココロの空洞を埋める実験①
〜井上昭監督『勝負は夜つけろ』〜

 終わった、全て(の事務手続き)が。そして、もうオレに求められることは何もない、オレは社会的には「無用の人」なんだ――と頻(ひたぶる)にヒタンに暮れていたのだけれど、ハタと気がついた、オレはもともと「無用の人」だったんだ。母の介護に身を捧げたこの4年間――あるいは、父が死んで母との2人暮しが始まった2010年1月以降をその期間と見なすならば14年間――が特別なのであって、オレはもともと「無用の人」だったんだ。今、その〝平常運転〟に戻っただけ――と考えるならば、なにをヒタンすることがある……。

 ということで、映画を見ようと。「無用の人」と映画はすこぶる相性がいい。ワタシが人生で最も映画を見たのは1970年代後半から80年代前半にかけてですが、当時のワタシも掛け値なしの「無用の人」だった。で、当時、見て、もう1回見たい映画もあるし、当時、見逃した映画もあるし。そういう映画をこの際、集中的に見てやろうかなと。ま、一種の「実験」の意味も込めてね。

勝負は夜つけろ

 で、最初に選んだのは→。生島治郎のデビュー作『傷痕の街』を井上昭監督が映画化した1964年の作品ですが、今回が初見。そもそもワタシがこの映画に注目するようになったのもごく最近で。そのきっかけは「文春オンライン」の連載「春日太一の木曜邦画劇場」の2022年2月8日付けコラム「現役最年長監督、井上昭逝く! その美意識、1秒たりとも油断するな!」。正直、このコラムを読むまではこの映画がそんなに評価の高い作品だとはついぞ思わず。だって、監督は井上昭ですよ。主に時代劇を撮っていた監督さんで、確かに時代劇専門チャンネルでやっていた「鬼平外伝シリーズ」とかはなかなかにスタイリッシュな作りで大映残党の底力を見る思いではあったんだけれど、とはいえ所詮は時代劇プロパーの職人監督さん――というのがこの監督に対するワタシの偽らざるニンシキで、それが若い頃に会社の都合かなにかで生島治郎のハードボイルド小説を原作とする映画も撮っていた――というよなね、ま、そんな程度の映画だろうと。ところが、件のコラムにはこう書かかれているじゃないか――「カメラマンが井上の盟友でもある森田富士郎なのもあり、その美意識が存分に発揮されている。冒頭のタイトルバックからして、反射光を受けて煌めく田宮二郎・川津祐介のアップと背景の海面――という映像にジャズが流れる。それは井上・森田が影響を強く受けていたフランスのヌーベルバーグそのものだ。その後も、極端に誇張したモノクロの陰影、会話する人間をあえて正面ではなく画面の隅に配置する構図、スラム街を目まぐるしく動く手持ちカメラ――どのカット一つを切り取っても徹底して「オーソドックスな画」はなく、一秒たりとも油断できない」。これは、へえ、ですよ。特に「井上・森田が影響を強く受けていたフランスのヌーベルバーグそのものだ」ってのがねえ……。ただ、ここであえて書いておこうと思うんだけれど、実はこの春日太一のコラムよりも早くこの映画をヌーベルバーグに重ね合わせるかたちで評価していた記事があって、それは某密林のこちらのカスタマーレビュー。日付けは2015年2月8日とあるので、ちょうどこの映画がDVD化された年であり、春日太一が件のコラムを書く7年も前――ということになる。しかも、そのレビューたるや春日コラムのヴァリアント(異本)かというようなシロモノで。曰く「波光煌めく横浜港を背景にジャズピアニスト菅野邦彦によるダークなテーマ曲が流れるタイトルバックから作品に強く惹き込まれる」。曰く「久保菜穂子のジャンヌ・モローと比較したくなるような妖艶な中に可憐さを秘めたファム・ファタールぶり」。曰く「全篇に流れるクールなモダンジャズの旋律とモノクロームの陰翳を活かした大胆でスタイリッシュな構図」。もうね、春日コラムはこのレビューのパクリじゃないの? と言いたくなるくらい。これを書いたのが一介の在野の映画ファンだなんて。いやー、「野に遺賢なし」なんて、どこのどいつが言ったんだ⁉ ま、そんなこんなで、この映画に捧げられた賛辞を紹介するなら春日太一のコラムばかりではなくこちらのレビューもぜひ紹介しておくべきかな、と。ともあれ、こうしてこの映画にはプロ・アマ問わずこうした熱ーい賛辞が捧げられている状況なんだけれど、共通点はヌーベルバーグへのメンションだよね。特に某密林のレビューからは、10人が10人、ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』を連想すると思んだけれど……ここでワタシの中に一抹の不安が。というのも、生島治郎はレイモンド・チャンドラーの正統な後継者として(あるいは、それをめざして)わが国のミステリー文壇に殴り込みをかけた作家なので、どちらかと言えばアメリカンテイスト。『傷痕の街』だって、海外の名作映画の〝本歌取り〟を狙うならばエリア・カザン監督、マーロン・ブランド主演の『波止場』あたりじゃないかという気がするんだよねえ。実際、作中には「ノック・アウトされても、選手控え室までは、誰でも歩いていかなくちゃならない」なんて『波止場』を連想させる台詞もあって(ご存知のように『波止場』でマーロン・ブランドが演じているのは元ボクサー。八百長に加担してボクシング界を追われ、今はニューヨークの波止場でニコヨンとして働いているという設定。なお、この台詞はほぼそのまま映画でも使われている)、当の生島治郎も結構、意識していたんじゃないのかなあ。それが『死刑台のエレベーター』ですか。生島ハードボイルドの世界観に合うかなあ……。

 でね、やっぱり違うと思うんだよ。まず、音楽が。春日太一が「冒頭のタイトルバックからして、反射光を受けて煌めく田宮二郎・川津祐介のアップと背景の海面――という映像にジャズが流れる」と書くそのジャズとは、トランペットのミュート奏法なんだよ。マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』の劇伴で披露して世界にその魅力を知らしめた――。でも、原作(者)をリスペクトするならここはジャズ・ボーカルでしょう。生島治郎が原作で久須見健三に聴かせているのはヘレン・メリルなんだから――「部屋の中は、いつものように、適度な乱れと適度な静けさを保っている。隅にある、小型のステレオには、三日前に聞いたヘレン・メリルのレコードがそのままになっていた。モダン・ジャズにうつつをぬかす年齢でもなく、私にわかるのは、せいぜいヴォーカルぐらいだったが、今はそれを聞いてみようという気分にもなれなかった」。なんかね、映画の中では稲垣(川津祐介が演じている役)の家の床にはポケミスと思われるものが散乱していたりして、へえ、こんなことをやってくれてるんだ、とは思ったんだけれど、原作(者)をリスペクトするというのならそんなことをするよりも「ニューヨークのため息」と謳われたヘレン・メリルのあの気だるい歌声を冒頭から聴かせるべきだったのでは? それによって醸し出される世界観がフランス・ヌーベルバーグとは異質なものだとしても。

 あと、久保菜穂子だよねえ。確かに「久保菜穂子のジャンヌ・モローと比較したくなるような妖艶な中に可憐さを秘めたファム・ファタールぶり」は目を奪われるばかり。でも、欲を言えばここはジャンヌ・モローではなくローレン・バコールで行ってほしかったなあ。原作でも斐那子(久保菜穂子が演じている役)の特徴として――「斐那子は相手の眼をじっとのぞきこむくせがあった。またたきもせず、じっと相手をのぞきこむ――それは決して容易に燃えはしないが、いったん燃えはじめたら、燃えつくさずにはいない炎を絶えずきらめかせていた」。目力といえば、なんといってもローレン・バコールですよ。いわゆる「The Look」というやつですね。もうね、たまりませんですよ、この挑みかかるようなまなざし……。さらに、久保菜穂子演じる斐那子がファム・ファタールであるというのなら、あの告白はいただけません。ここは43分ころから繰り広げられる久須見と斐那子の会話をそっくりそのまま書き出すなら――

斐那子 あたしさっきパパに会ってきたわ。
久須見 井関に?
斐那子 あなたに手を出さないように頼みに行ったの。
久須見 余計なことをするんじゃない。
斐那子 どうして? パパは何をするかわからない人よ。あなたはまだ本当のパパをよく知らないのよ。
久須見 よく知ってるさ。だがおれに井関を憎むなといったって無理な注文だぜ。
斐那子 憎むのはかまわないわ。あたしだって憎んでる。でも事件に深入りすることだけは……。
久須見 わかったよ。しかし君は本当に井関を憎んでるの?
斐那子 憎んでるわ。それが知りたいの?
久須見 知りたいね。おれはまだその理由を聞かされちゃいない。君のことを考えると、おれはいつもそこにぶつかるんだ。君はおれの前で井関を憎んでいるように言うけれども、本当は裏で井関と手を結んでいるんじゃないか。そのことが最初っからおれの頭にひっかかるんだ。君を素直に抱けないのもそのためだ。
斐那子 じゃあ言うわ。井関は私の父親じゃないの。私は母の連れ子なの。私が17になった時、井関は私の体を犯したわ。私はそれから何度か井関のおもちゃにされた。そのたびに死のうと思ったけど、あの男に復讐しない限りは死ねないと思った。ただそれだけのために生きぬいてきたの。母さんは私のことを知って、それから間もなく自殺したわ。首を縊って。
(間)
斐那子 本当は殺してやりたいくらいパパを憎んでるわ。
久須見 今はパパはどうなんだ。
斐那子 どうって?。
久須見 君のような美しいおもちゃをよく手放す気になったな。
斐那子 私が恨んでいることを知ったからよ。私は井関の欲望の犠牲にはなったけど、あの男の前で一度だって女の喜びを見せたことはなかった。いつも死人のように冷たくなってやった。
(間)
斐那子 こんなことを言いたくなかった。ねえ、あたしを抱いて。

 なんとファム・ファタールはティーンの頃に養父に性的虐待を受けたというトラウマを抱えていて、これは映画を最後まで見れば明らかになるんですが、全ての犯行はそのリベンジのために彼女が仕組んだものだったんだよね。正直、なんじゃ、こりゃ? ですよ。もうね、後の大映ドラマのルーツをここに発見した、てなもんで……。で、実はこれは映画のオリジナルなんだよね。生島治郎の原作ではこうはなっていない(生島治郎がこんなどろどろした話を書くはずがない)。生島治郎の原作でも全ての絵を描いたのは斐那子ということになっているのだけれど、斐那子は井関の実の娘だし、映画のように父を憎んでもいない。それでいて、父を裏切る。ここは講談社文庫版の243ページに記された斐那子の台詞をそのまま書き出すなら――

「はじめは、なにもかも仕事のためだったの」
 そう云って、斐那子はつと顔をあげた。頬は濡れていたが、声は乾いていた。
「あたしは、ちいさいときから、パパにあこがれていたの。いつかはあんな風に仕事をやる人になりたい、そう思いつづけて、大きくなったのよ。だから、一人前になった時、あたしは、パパのような組織をつくることを思いついたの。彼以上の組織をつくり、彼以上の利益をあげようと決心した。そうするためには、パパがつくった組織を自分の手におさめるのが、一番確実で簡単な方法だわ。あたしは、そのチャンスをずっとねらいつづけてきた。吉田を手なずけることからはじめてね……。彼を味方にするのは、むずかしくなかったわ。連絡係りではなく、パートナーにしてやると云えばよかったのよ。麻薬を扱う人間には、それなりの仁義もあるし、仲間意識もつよいわ。だから、素人がちょっとお金をばらまいたぐらいじゃ、ルートはできやしない。でも、その点もあたしは恵まれていたのね。井関の娘だったんですもの。組織の連中が井関を裏切って、あたしについても、どうせ親娘じゃないかと、良心の呵責になやまないですむ心理を、あたしはうまく利用し、急所急所でお金をばらまけばよかったのよ」

 頬は濡れていたが、声は乾いていた――。また、その告白内容もこれっぽちもじめじめしていない。全ては野心のなせる業で、これぞファム・ファタールってもんですよ。なんで映画ではこの原作の最も大事な部分(ミステリー小説としての種明かし部分に当たるのでここが最も大事であることは論を俟たないでしょう)を改変しちまったのか? 今だったら大問題になっているかも知れないよ。ちなみに、生島治郎は自伝的小説『星になれるか』でこの映画に触れていますが――「田宮二郎の主演で封切られたその映画を、越路は試写室で見て、どうにも背中がむずむずして仕方なかった。田宮のファンではあったが、脚本が悪いせいか、台詞がキザでどうにもならなかった」。いや、台詞がキザっていうよりも、ここまで原作を改変されたんじゃ背中がむずむずどころか腹がむかむかして「どうにもならなかった」のでは? で、その脚本家はというと、舟橋和郎。ワタシはどういう人か全然知らなかったのでウィキ先生にお訊ねしたところ、あの舟橋聖一の実弟だそうで。もっとも、「あの」と言ったところで、ワタシは読んだことがないんだけどね。だから、それはいいとして――舟橋和郎のフィルモグラフィを見る限り、とてもハードボイルドを手がけるような人じゃないんだよなあ。手がけた作品の中には生島治郎とは浅からぬ因縁のある水上勉原作の『雁の寺』もある。総じて、日本的というのかな? この国の風土に特有の湿度を感じさせる作品群(に思える)。さすがは舟橋聖一の実弟だけのことはある(だから、読んだことがないんだって……)。で、そんな脚本家が脚本を手がけながら、後世、映画の見巧者から「和製フィルムノワールの隠れた佳品」と評されることになる作品に仕上がったというのは、だから、むしろ奇跡に近いのかも知れない。そこがまさに春日太一が指摘している「カメラマンが井上の盟友でもある森田富士郎なのもあり、その美意識が存分に発揮されている」という部分なんだろうね。で、その点はワタシも十二分に認めた上で――それでもこの映画に点数をつけるとするなら、せいぜい☆☆☆★★だなあ。だって、そのヌーベルバーグふうの映像美は認めたにしても、それがラッピングしている商品本体は何かと言えば、すぐれて日本的な「女の情念」なんだから。そこを見誤っちゃいけない。それに、そもそもこの映画は生島治郎の『傷痕の街』が原作なんだからね。原作者が「脚本が悪いせいか、台詞がキザでどうにもならなかった」と書いている映画をその原作者の信奉者が評価するわけにはいかんでしょう。なんとなく、新人作家のデビュー作なので、軽く扱われたという感じもあるし。映画屋さんには、そういう尊大なところがある。そう考えると、なおさらね。

 しかし、オレは変わらないなあ。ムカシもこうして見た映画をことごとく貶していた。それがあの時代の流儀だったとはいえ、それを今の時代に持ち込んで何か得られるものがあるものやら。いや、得られるものがあろうがなかろうが「無用の人」には何の関係もない……。