慶応4年は日本における新聞ジャーナリズムが花開いた年だった。まずは2月24日、『中外新聞』が創刊。さらに4月には『内外新報』と『公私雑報』、閏4月には『江湖新聞』『遠近新聞』『横浜新報もしほ草』『日日新聞』……と、もう創刊ラッシュと言っていい。で、本来ならばこれらの新聞は戊辰戦争の実相を今日に伝える貴重な資料となっていた――はず。ところが明治新政府は6月8日付けで太政官布告第451号を布告し新聞を許可制にした。許可制とはいうものの、実際に許可が下りた新聞は1紙もない。だから事実上の新聞禁止令。明治新政府は3月14日に布告した「五箇条の御誓文」の第一条で「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と高らかに謳っていたのだけど、その謳い文句が泣こうというもの。ほどなく明らかになるこの政権の強権的体質が早くも明らかになったと言っていいか。いずれにしろ、こうしてせっかく花開いた日本における新聞ジャーナリズムは早々に冬の時代を迎えることになる。
ところが――そんな中、ただ1紙だけ、6月8日以降も発行を続けた新聞がある。それが『横浜新報もしほ草』。なぜ他の新聞が枕を並べて討ち死にする中、『横浜新報もしほ草』だけは生き残ることができたのか? それは『横浜新報もしほ草』はアメリカ人を発行人としていたため。その発行人こそはユージン・ミラー・ヴァン・リード。表紙にはこうした事実を強調するように「九十三番ウエンリート」という文言が印刷されていた。こうなるとさしもの太政官も手が出せない。いわゆる「治外法権」というやつ。で、『横浜新報もしほ』は「江戸の春」よろしく一斉に花開いた新聞ジャーナリズムの灯を守りつづけた貴重な新聞となったわけだけど、こうなると気になるのはですね、ジャパン・ガゼットが1868年8月21日付けで報じていたあのニュースについては何と書いていたのか? 東北で上野の宮様が〝もう1人のミカド〟に擁立されたというあの誰もが腰を抜かすであろう驚愕のニュースについては――
政治上のニュースで最も重要な事項は北部または徳川派が高僧の1人である上野の宮様を新しいミカドに選出したことである。この行動により今や日本には2人のミカドがいることとなり、元のミカドは依然、南部で権力を保持している。
8月21日付けジャパン・ガゼットはこの新たな事態について次のように報じている:
ここしばらくの間、われわれの報道は、政治的な動きの詳細については提供したが、現在日本で荒れ狂っている内戦の両当事者に関する真に新しい立場を叙述することはできなかった。
今回、われわれは両当事者間のいかなる決定的変化も発表することはできないが、北軍が踏み出した大胆な一歩について報告することはできる。彼らは新しいミカドを選出した。従ってこの国には現在、2人の新しいミカドがいることになる。われわれはこの情報について今月13日に次のような表現で報じた:
極めて重要!
北部からもたらされたニュースによれば上野の宮様がミカドに指名された模様。
われわれはこうした出来事は大いにありうるとは考えるものの、われわれが入手した情報のこの部分が正確であると確認するにはまだ至っていない。しかしながら北部の兵士が新官軍と名乗り、南軍のそれと色が違うだけでほぼ同じような紋章を身に着けていることは疑いもない事実である。九条様はそもそもはミカドによって仙台に派遣された特使だったが北部に味方することを宣言した。そして新しいミカドによって正二位の公卿に任命された。
今月19日、われわれはこのニュースを確認し次のようなパラグラフをもって宣言した:
新しいミカド。
最近、北部からもたらされた報告によりわれわれの先の情報が確認された。宮様は公式にミカドの座に就き、出羽の庄内近くにある羽黒山に住んでいる。彼のミカドとしての最初の仕事は年号を改めることだった。次に行ったのは九条大納言を太政大臣に任命することだった。
新しいミカドの指名に関しわれわれが受けた説明によれば、これはもう1人のミカドを退位させるものでは決してなく、北部連合の行動を指揮する権威あるチーフを指名するものであるという。北部連合は、われわれの理解が正しければ、依然として元のミカドをこの国の真の支配者と考えている。上野の宮様は彼の叔父である。新政府のために事態の調整に当たるため最初に江戸に来たのは、有栖川宮様ではなく、上野の宮様なのである。しかし彼は、人々の間に広がる真の感情を見てとるや徳川の権利を支持し、ミカドに京都へ戻り自分の本来の職務に専念するよう命令を発したのである。われわれは聞いた説明を必ずしも完璧に理解できたわけではないが、教養があり今日の政治事情にも通じた日本人の意見では、上野の宮様は命令を出したり位階や任命を承認するなどの活動を独立して行うことになるのではないかという。しかし新官軍の戦いの目的が達成された暁には彼は再びただの宮に戻り全ての権力を真のミカドの手に委ねることになるのではないかともいう。
この指名の真の意義についてはわれわれも読者同様ほとんどわかっていないのだが、とりあえず以上の説明をそのまま読者に提供することとしたい。われわれの見解としては、もし北部が勝利するなら、彼らが奉ずる人物が支配者となりもう一方は引退に追いやられることになるのではないか。
ところが『横浜新報もしほ草』のどの号にもこの記事に記されたような事実を匂わせる記事は見当たらない。まあ、強いて言うならば9月5日発行の第21篇で「新官軍」という語が用いられており、このことは「北部の兵士が新官軍と名乗り、南軍のそれと色が違うだけでほぼ同じような紋章を身に着けていることは疑いもない事実である」というジャパン・ガゼットの記事とも符合するとは言えるはず。しかし、新帝擁立というそのこと自体については何も記していないのには変わりがない。はて、どーゆーこと? 『横浜新報もしほ草』は同じ横浜で発行されていた英字新聞の記事を翻訳・紹介することを一つの目玉としており、であるならばこの記事についても当然、翻訳・紹介してしかるべき。しかも『横浜新報もしほ草』の時事報道に対するスタンスは徹底した親徳川。北関東戦線で大鳥圭介率いる徳川脱走陸軍が連戦連勝しているような、今で言う〝飛ばし記事〟を書きまくっていた。そんな『横浜新報もしほ草』なら頑強に薩長への帰順を拒否する東北諸藩が上野の宮様を〝もう1人のミカド〟に擁立したというニュースに無関心でいられるはずがない。にもかかわらず……。
では、ジャパン・ガゼットが「北部連合」による新帝擁立を報じた8月21日(7月4日)以降の『横浜新報もしほ草』の報道はどのようなものだったか? これが奇妙としか言いようがない。まず、その7月4日をはさむかたちで『横浜新報もしほ草』の発行は1か月以上のブランクがある。第17篇が発行されたのは6月10日。そして第18篇は7月28日。『横浜新報もしほ草』の発行は不定期とはいえ、これほど長いブランクは閏4月11日の創刊以来はじめて。さらにそうして発行された第18篇の紙面構成も実に面妖なもの。記事と呼べるものは1面と2面、最終10面にわずかに記されているだけで、残り7面はそっくりイラストで埋められている。あるいはイラストでお茶を濁していると言ってもいいか。こうした面妖な紙面構成は他の号には見られないもの。何か尋常でないものがそこには感じられる。あたかももともとあった記事を急遽、差し替えたかのような(→『横浜新報もしほ草』第18篇 )……。
さらに興味深い事実がある。それは第17篇をもって『横浜新報もしほ草』の編集人が交代していると思われること。『横浜新報もしほ草』はアメリカ人を発行人とはしていたのだが、英字新聞ではなく日本語の新聞なんだから、当然、編集者は日本人。それが岸田吟香という人物。もともとは美作国久米北条郡垪和村(現在の岡山県久米郡美咲町)の百姓の出だそうだが、22歳のときに挙母藩の中小姓となった。しかし28歳で脱藩、江戸に出て妓楼の主人をやったりしていた。その頃に「銀次」と名乗り、仲間内では「銀公」と呼ばれ、それを捩って「吟香」を号にしたという、どこかすっとぼけたところのある人物。しかし相当多才な人物だったようで、「精錡水」という名の目薬を販売したり、ヘボンことジェームス・カーティス・ヘップバーンが『和英語林集成』の印刷のために上海に行った際はその助手のようなことをしたり。
そんな吟香が携わった仕事の一つに『横浜新報もしほ草』の編集があったわけだけど、ただ彼はいずれかのタイミングで『横浜新報もしほ草』から手を引き、後を宮津藩士の栗田萬次郎に引き継いでいる。もっともそれが正確にいつのことかは裏付けとなる史料がなく、判然としない。ただ岸田吟香自身がのちに『朝野新聞』で述べたところによれば、「予は京浜間の汽船事業に従事したるをもって、この新聞の編輯を栗田某に托したり」。京浜間の汽船事業というのは稲川丸という蒸気船で江戸―横浜間を朝夕に1往復したもので、これが日本初の定期蒸気船事業となる。運航開始は明治26年に刊行された『横浜沿革誌』という本では慶応3年10月とされているんだけど、正しくは慶応4年2月。これについてはのちほどじっくりと。で、岸田吟香は同年8月にこの汽船事業の差配人(支配人)になっている。とするなら岸田吟香が『横浜新報もしほ草』の編集から手を引いたのはその頃か、その少し前ということになる。
『横浜新報もしほ草』第18篇の発行は7月28日、第19篇は8月25日。とするなら第18篇を最後に――、そう考えることもできるんだけど、ただこの点について少し異なったアプローチを披露しているのが山口順子「ヴァンリードの『もしほ草』官許をめぐって」(『メディア史研究』2005年6月号)。何でも『横浜新報もしほ草』は現在でも相当数が現存しているそうなんだけど、同じ号でも表紙の体裁が異なるものがあるらしい。理由は再版。今の新聞を前提にするとなかなか考えにくいんだけど、『横浜新報もしほ草』は頻繁に再版されているんだ。それだけ人気があったということなんだろうけど、結果、どれが初版でどれが再版かなど、現存する異本を書誌的に整理するのはなかなか厄介らしい。ただ岸田吟香が編集に携わっていた時代のものについてはそれを見分ける顕著な目印があって、それはGinji Kicidaの角印。この角印こそは岸田吟香が編集に携わっていた何よりの証しであり、当然、その時代に発行された初版ということになる。そしてこの角印があることが確認できるのは、現存しているものの中では第17篇までという。これを踏まえて山口順子は第17篇を最後に「吟香の中心的な関与はなくなった」としている。なかなか説得力があると言えるんじゃないかな。
で、第17篇をもって岸田吟香が『横浜新報もしほ草』の編集から手を引いたと仮定して、吟香自身はその理由を「京浜間の汽船事業に従事したるをもって」としているんだけど……しかしそれはちょっと説得力に欠けるんだよ。というのも彼はこの年8月、『渡航新聞のりあひはなし』という新聞を新たに立ち上げているのだから。現在までに発見されているのは初編のみで、『幕末明治新聞全集』には収録されているものの、発行人が岸田吟香だったことも永らく不明で、『幕末明治新聞全集』の解題で尾佐竹猛などは「会津藩の出張所が神奈川にあつたことがあるから、この関係者の手で発行されたのではないかと想像するのである」――と、全くピント外れなことを書いていたくらい。しかし1980年、東京芸術大学所蔵の「高橋由一油画史料」の中からこの新聞の出板を予告した岸田吟香の高橋由一宛て書簡が発見され、岸田吟香の発行だったことが明らかになった。ちなみに高橋由一は「高橋由一履歴」で岸田吟香を「親友」と呼ぶなど、交友は生涯に亘るものだったそうだ。
ともあれ、「予は京浜間の汽船事業に従事したるをもって、この新聞の編輯を栗田某に托したり」と言いながら、一方で『渡航新聞のりあひはなし』という新たな新聞を立ち上げていた。こうなると彼が『横浜新報もしほ草』の編集から手を引いたのは汽船事業で忙しくなったからとは考えにくい。それは表向きの理由で本当の理由は他にあった――、そう考えるのが順当。そしてそのことと『横浜新報もしほ草』第18篇の面妖な紙面構成には何らかの関連がある……。
では、岸田吟香が『横浜新報もしほ草』の編集から手を引いた本当の理由とは? おそらくその答とは、彼の思想的バックグラウンドを探れば自ずと明らかになるはず。実は彼は尊王派だった。岸田吟香は『横浜新報もしほ草』で旧幕脱走陸軍が北関東戦線で連戦連勝をつづけているかのような、今で言う〝飛ばし記事〟のようなものを書きまくっていたわけだけど、それだけを見ればゴリゴリの佐幕派という印象も受ける。しかし若い頃は藤田東湖、梅田雲浜、頼三樹三郎といった尊王派の論客とも盛んに交流するなど、人脈的にはむしろ尊王派。吟香自身、一歩間違えば安政の大獄に連座していたかもしれない、それほど危うい場面もあったらしい。また豊田市郷土資料館編『明治の傑人 岸田吟香』によれば、安政の条約をめぐって幕府を激しく批判した書状も残っているとか。そもそも彼は幕臣でも何でもないんだから徳川方に義理立てしなければならない理由は何もなかった。にもかかわらず『横浜新報もしほ草』では旧幕脱走陸軍優勢の〝飛ばし記事〟を書きまくっていたのは、そうした方が売れたということが一つ。それと他ならぬ『横浜新報もしほ草』のオーナーであるヴァン・リードが筋金入りの佐幕派だったからだろう。ヴァン・リードが「奥羽越列藩軍務総督等謹告」の配布に協力していたことは『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』にも記した通り。また徳川慶喜に対して「外國人ノ援助ヲ得テ」政権の奪回を図ることを勧める建白書を提出していたことも知られている。さらには旧幕府高官の政治亡命をサポートしていた可能性さえ(「明治元年の亡命者」参照)。そんなゴリゴリの佐幕派であるヴァン・リードの下で尊王派の岸田吟香が〝雇われ編集者〟をしていた、そういう構図だったということをまずアタマに入れておいてもらって……。
さて、そんな岸田吟香は第17篇をもって『横浜新報もしほ草』の編集から手を引くと同時に明治新政府に急接近していたことがいくつかの事実によって裏付けられる。実は岸田吟香は『渡航新聞のりあひはなし』の創刊に先立ってもう一つ別の新聞の発刊にも関わっていた。これについては『朝野新聞』のインタビューでこんなふうに語っていることで裏付けられるんだけど――「予の明治元年に『金川日誌』というものを発刊せしころ」云々。この時代、『太政官日誌』とか『江城日誌』とか、「日誌」と付く新聞が盛んに発行されている。実はこれらはすべて官報。尾佐竹猛も『明治文化叢説』で「日誌とはこの頃の用例では官報といふ意呼である」。で、『金川府日誌』――吟香は『金川日誌』と言っているんだけど『金川府日誌』が正しい――は新政府の神奈川行政府が発行した官報ということになる。岸田吟香はその発刊に関わっていた。明治新政府との間にそれなりの接点がなければそうしたことにはならないはず。
またそもそも『渡航新聞のりあひはなし』の発行自体、明治新政府との〝特別な関係〟がなければなかなか説明ができない。明治新政府は6月8日付けで太政官布告第451号を布告し新聞を許可制にしていた。そんな中、岸田吟香は8月11日付けで『渡航新聞のりあひはなし』を立ち上げている。『横浜新報もしほ草』は発行人がヴァン・リードなので太政官布告の規制を潜り抜けることができたんだけど、『渡航新聞のりあひはなし』はそうは行かない。一体どうやって発行が可能に? さらに内容もいささかその背景を詮索したくなるようなもの。ここでもう一度、↑でリンクを貼った『渡航新聞のりあひはなし』初編の紙面を見てほしいんだけど、トップで掲載されているのは「奥羽越列藩軍務総督等謹告」。ただし横尾東作が持って横浜に走った11か国の公使・領事に宛てたものではなく、その元となったプロイセン公使に宛てたもの。11か国の公使・領事に宛てたものは当時、さまざまな媒体で報じられていたのだけど、こちらが表沙汰になるのはこれが初めて。
このオリジナル版「奥羽越列藩軍務総督等謹告」について記事では「新潟にてうちとりたる庄内の老臣石原金右衞門が懷中にありし書類のうつし」としていて、これについては『大日本外交史料』でも「奥羽越列藩軍務総督等謹告」について紹介する中で「編者注」として「外務省記」なるものに「庄内中老石原倉右衞門討取候節懷中ニ有之候書之冩」として収められていることを記していて、新政府はまさに『渡航新聞のりあひはなし』が記すようなかたちで当該文書を入手していたことが裏付けられる。またこの時、新政府が入手した文書には他にも奥羽越列藩同盟がエドワルド・シュネル(いわゆる「スネル弟」)に注文した武器の明細を記した文書も含まれていて、こちらも『渡航新聞のりあひはなし』で紹介されている。岸田吟香は何らかのルートでこうしたものを入手し、言うならばそれらを目玉記事とするかたちで『渡航新聞のりあひはなし』を立ち上げたということになるんだけど、当然、その入手先は新政府筋と考えるしかない。実際、こうした見方を裏付けるように記事における彼我の関係も「新潟にてうちとりたる」。決して「新潟にてうちとられたる」ではない。
さらに言えば、岸田吟香が京浜間の汽船事業の差配人となった経緯についても明治新政府との〝特別な関係〟を疑わせる事実関係を指摘することができる。で、まず最初にこの日本初とされる定期蒸気船事業については正確な事実関係を記した文献は存在しないと断言させていただきたいのだけど、そんな中でも最も事実関係が詳細で信頼できそうなのが既に紹介した『横浜沿革誌』。元神奈川奉行所の役人だった太田久好なる人物が記したもので、横浜開港資料館でも横浜の歴史に関する基本文献という扱い。この『横浜沿革誌』では、稲川丸の運航開始は慶応3年10月、また事業主については江戸は松坂屋弥兵衛、横浜は鹿児島屋亀吉だったとされている。で、岸田吟香は翌慶応4年8月にこの事業の横浜側の差配人となっているんだけど、その経緯についても『横浜沿革誌』には8月29日の条として詳しく記されていて、実は一旦、運行を開始した稲川丸なんだけど、思いもかけないかたちで「官廳」の「引受」、つまりは神奈川裁判所の没収となっている。その経緯はというと――「慶應三丁卯年江戸小網町回漕問屋松坂屋某横濱九十三番米國人ウエンリートヨリ代價壹萬五千弗ヲ以テ買受タルモ其代價ノ過半延滯シ到底皆濟スル能ハス依テ官廳之ヲ償却シ該船ヲ引受ルニ至ル」。
何とここにもヴァン・リードの名前が登場する。「ともかく才気縦横で、起居振舞の俊敏さ、驚くべきばかりの男であったらしい」――とは、美作女子短期大学などで教鞭を執った杉山栄という人物が『三代言論人集』(時事通信社刊)所収の岸田吟香の評伝に記したヴァン・リード評なんだけれど、確かにそういうところはあるかなあ。もっとも同氏が描くヴァン・リードの横顔は「それはいくらなんでも」と言いたくなるような代物なんだけど……。ともあれ、稲川丸はこういうかたちで神奈川裁判所に没収となり、当然、その時点で事業は頓挫。しかし神奈川裁判所としても江戸―横浜間を結ぶ定期蒸気船事業の有用性そのものは認めている。さらにはせっかくの船を遊ばせておくのももったいない。ということで――「空シク之レヲ繋留スルモ無益ノミナラス當時横濱東京間の通路不便ナルニ際シ且築地明石町役所ニ時々公用アルヲ以テ乘合船トセハ大ニ便益ヲ感スルナラント之レニ一決ス然レトモ官廳直ニ之ヲ爲ス能ハザルヲ以テ差配人二名ヲ置ク即チ横濱ハ岸田銀次(吟香)東京ハ小網町松坂屋彌兵衞ニ命ス」。
岸田吟香が稲川丸の差配人となった経緯は、『横浜沿革誌』によるならば粗々こういうことになる。で、稲川丸が江戸は松坂屋弥兵衛、横浜は岸田吟香を差配人として運行を開始した日付についてはしっかりとした史料があるのでこの記載の日付である慶応4年8月29日ということで問題はない。しかし、太田久好には申し訳ないんだけど、そもそもの事業開始が「慶応三丁卯年」であるという点をはじめとして、それ以外の部分については相当、赤を入れさせていただく必要がある。というのも、この一連の経緯について当の岸田吟香が詳細に書き記した〝日記〟が存在するんだ。はたしてそれが本当に日記として書かれたものなのかどうか、ワタシは疑いも持っているんだけど、ともあれ、そこで記されていることとは相当、事実関係が食い違うんだよ。
まずは岸田吟香の日記なんだけど、よく知られているのは彼が『和英語林集成』印刷のため上海滞在中に記した「呉淞日記」。実に洒脱な口語体で綴られたもので、最近は言文一致の先駆けをなすものとしても注目が高まっているようだ。で、岸田吟香はこの「呉淞日記」以外にも相当程度の分量の日記を書き残していたそうで、その一部は昭和初期に円地文子の夫である円地与四松によって『社会及国家』という雑誌に紹介されている。「呉淞日記」が最初に紹介されたのもこの時。残念ながらそれらの日記の原本はほとんど関東大震災で焼失してしまって現在残っているのは「呉淞日記」と明治24年1月から2月にかけてのものだけとか。しかし円地与四松が『社会及国家』に紹介してくれていたお陰で何とかその一端をうかがい知ることができるという状況。もっとも『社会及国家』は国立国会図書館にも欠号があって、吟香の日記が掲載されている号を所蔵しているのは東京大学図書館とか、いくつかの大学の付属図書館に限られるようだ。
ともあれ、そんな『社会及国家』に掲載された日記のうち、汽船事業の舞台裏が詳細に記されているのは昭和6年7月に刊行された第184号掲載の「横浜異聞(二)」。記されたのは明治2年6月で、慶応3年から4年当時の出来事を振り返るかたちになっている。そういう意味では日記というよりもエッセイに近い。「横浜異聞」というのは岸田吟香がつけたものではなく円地与四松の「思ひつき」だというんだけど、もしかしたら円地与四松としてもこれを日記と呼ぶことに躊躇があったのかもしれない。ともあれ、この中で吟香は稲川丸がなぜ「おいらがもの」となったのかを綴っているのだが、これがまあ実に洒脱な口語体で、ここはぜひとも「くの字点」も含めて原文通り味わっていただくのがいいと思うので別ウィンドウで縦書きで表示――
ね、実に洒脱でしょう? しかも興味の惹き方が巧み。「その船をかひとりし時の事に多少の云云あり。それにつき又多少の云云あり。あゝめんどうだ、もういやになつた、今ハかゝない」――とか、「ここまでかいて、やめてあつたのを、七月廿四日の夜十一點鐘の時かきつぐ」――とか、読む方としてはつい引き込まれてしまう。そういう意味でもこれは絶対、人に読ませることを想定して書かれている。吟香は何らかのかたちで公表することを意図していたと、そう思うんだけど……。
ともあれ、そもそも定期蒸気船の運航がはじまった時期や稲川丸買い入れの経緯、また一旦、運航を開始した稲川丸が「官廳」の「引受」となった理由など、ことごとく『横浜沿革誌』の記載と食い違う。ワタシが『横浜沿革誌』の原稿には相当、赤を入れさせていただく必要があると言った理由もわかってもらえたと思うんだけど、じゃあこの〝日記〟に記された事実関係をもって『横浜沿革誌』の記載を修正すればそれで日本初の定期蒸気船事業についての説明としては完璧か? いや、それでもまだある重要な事実についての説明が不十分。その重要な事実とは、一旦、神奈川裁判所に没収された稲川丸が横浜側は岸田吟香、東京側は松坂屋弥兵衛を差配人として再運航されることになった経緯。有り体に言うならば、なぜ岸田吟香が差配人に選ばれたのか? この最もデリケートな部分について『横浜沿革誌』は言うに及ばず、吟香自身も何の説明もしていないのだ。それは神奈川裁判所の判断で岸田吟香は与り知らないということ? 実はそうではない。岸田吟香はその経緯についても誰よりもよく知っている。知っていて、記していないんだ。
実は彼はこの間、〝日記〟にも名前の記されている大隈八太郎に手紙を出している。大隈八太郎というのは……そう、あの大隈重信のこと。当然ながらと言うべきか、手紙も早稲田大学図書館が所蔵。大隈重信宛書簡は他にも早稲田大学史資料センターや佐賀市大隈記念館にも所蔵されており、総計約7,000通にも上るそれらの書簡は『大隈重信関係文書』として順次、翻刻・公刊されており、岸田吟香の書簡も2012年刊行の第4巻に収録されている。その慶応4年5月26日の日付を付された手紙で岸田吟香はどういうことを記しているか? これもやはり別ウィンドウで表示――
注目は太字部分。まず大黒屋六兵衛、丁子屋甚兵衛、大坪本左衛門など、岸田吟香が〝日記〟で官金横領の張本人としている人物の素性がことこまかに記されている。その上で「此人昨年以来勘定奉行等と同腹に相成、長崎会所之貸金を私に取捌右丁甚大六へ委任致候由内々承候」だの「此者御呼出し御尋披成候はゝ少し者申相分り可申候」だの――。岸田吟香が〝日記〟に記していることを額面通り受け取るなら、稲川丸の買い入れに持ち逃げされた官金が流用されていたことは大隈八太郎の「たんさく」によって判明したというふうに理解できるんだけど、しかしそもそも大隈八太郎にそうした情報を垂れ込んだのは吟香自身だったのだ。そのことがこの手紙によって一点の曇りもないかたちで明らかにされたと言っていい。しかもそうしたことを吟香は〝日記〟には一切記していない。あるいはそもそもあの〝日記〟は自分が稲川丸をめぐるゴタゴタ――有り体に言うならばスキャンダル――とは無関係であることをアピールすることを目的に記されたと見るべきか? そしてそれをどういうかたちでか公表するつもりだった……。
しかし、こうなると岸田吟香がなぜ稲川丸の差配人に指名されたかも想像がつくというもの。吟香の言葉を借りるならばそれは神奈川裁判所が吟香の訴えを「御憐察」した結果。実は岸田吟香はこれ以外にも何通も大隈八太郎に手紙を書いていて、稲川丸の差配人に指名された直後の9月15日付け書簡では「江戸往返大輪船も八月廿九日より相始、日々百人余搭客も御坐候。偏に御蔭と奉拝謝候」。ここから読み取れるのは、日本初の定期蒸気船の差配人の選定にあたっては時の外国事務局判事・大隈八太郎の政治的関与があったということ。このことはどうやら否定しようがない。そして、もう1つ、それによって最も恩恵を蒙った人物が岸田吟香であることも。これは従来、岸田吟香にまつわって言われてきたこととは相当、かけ離れていると言わざるを得ない。例えば上述の『三代言論人集』で杉山栄はこの定期蒸気船事業に関連して次のように記しているのだけど――「かようにくらい裏街を歩き続けたヴァン・リードと手を携えて、吟香が定期航海事業に奔走したり、『もしほ草』を発行したりしたことは、吟香にとってマイナスになる場合も少なくなかったであろうが、吟香は却って巧みに彼を利用して、しかも朱に交わって毫も赤くならなかった点は高く評価してよい」。もし杉山栄が定期蒸気船事業の真相を知っていたらこんなフレーズは書かれるべくもなかった。正直、ワタシにとっても岸田吟香にこういう〝政商〟まがいの一面があったというのはショック。ワタシにとっての岸田吟香はひとえにあの洒脱な口語体を〝発明〟した人。ただそれだけの人であってほしかった……。
――と、こうしてさまざまな角度から岸田吟香が急速に明治新政府に接近していた実態を見てきたわけだけど、こうした事実を踏まえるならば岸田吟香が『横浜新報もしほ草』の編集から手を引いた本当の理由は明らかではないだろうか? つまり、急速に明治新政府に接近しつつあった吟香が佐幕派であるヴァン・リードと同紙の編集方針をめぐって意見を異にした――、それが最も蓋然性の高いシナリオと言えるのでは? その上で『横浜新報もしほ草』第18篇のあの面妖な紙面構成に話を戻したいんだけど、こうした辞任理由とあの面妖な紙面構成に何らかの関連があると考えるなら――こういう想定はどうだろう? 実は幻の『横浜新報もしほ草』第18篇が存在した。それはジャパン・ガゼットの8月21日付け記事の翻訳ばかりではなく、吟香が独自に取材した事実や、過去にあった両朝併立の事例解説など、奥羽越列藩同盟による新帝擁立にまつわる記事が全10面を占める特報とでも呼ぶべきもの。何しろ東北で京都のミカドに代わる〝もう1人のミカド〟が擁立され、改元までされたというんだ、ジャーナリストとしての血が騒がないはずがない。そして実際に原稿は版元に回され、ゲラ刷りまででき上がっていた――。岸田吟香が『朝野新聞』で語ったところによれば、『横浜新報もしほ草』の版元は「えびす屋庄七」。調べたところ確かに恵比寿屋庄七という版元が江戸の照降町にいたそうだ。
ところが、その恵比寿屋庄七からゲラ刷りが上がってきた後、問題が起きた。ゲラ刷りを見たヴァン・リードが記事の内容に強い難色を示したのだ。というのも、岸田吟香が書いた記事は奥羽越列藩同盟による新帝擁立を「尊氏ノ惡例」に倣うものとして厳しく糾弾する内容だったから。岸田吟香の思想的バックグラウンドから言っても彼がこの件について何か書くとするならそういう論調にならざるをえない。もしかしたら彼はこれを機に『横浜新報もしほ草』の時事報道におけるスタンスを新政府支持に転換したいと、そんなことさえヴァン・リードに告げたかも。しかしそれはヴァン・リードとしては到底、受け容れられるものではなかった。こちらも彼の政治的立ち位置からするなら当然。で、記事を書き直すよう命じるヴァン・リードとそれを断固拒否し、そのままのかたちでの出版を求める岸田吟香。そんな対立が抜き差しならないところまで行って、さて最終的にどういう結論に達したものか、それはわからない。しかし、結果として『横浜新報もしほ草』第18篇は第17篇の発行から1か月以上も経った7月28日になって、ようやく、しかも原形を全くとどめないかたちで世に出ることになった……?