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有馬頼義の「北白川宮生涯」について

 山口瞳の『血族』を読んだのは、あれはいつ頃のことだったろう。多分、山口瞳の存命中だったろうとは思うのだけれど。でも、それほど昔のことではない。というのも、ワタシは決して山口瞳の愛読者というわけではないので。もしかしたら、最初に読んだのが『血族』だったかもしれない。この作家の作品としては他にも『人殺し』だとか『伝法水滸伝』だとか、読んでいるものはあるのだけれど、いずれも『血族』を読んだ後に、過去の作品を遡るかたちで読んだのではなかったか? ワタシが読んだ山口瞳の作品の中では、そういうトリガーとなりうるものは『血族』以外には見当たらない。実際、『血族』はワタシ好みの小説だった。誤解を恐れずに言えば、『血族』は探偵小説である。あるいは、探偵小説の風味を濃厚に醸し出している。しかも、この場合の探偵小説とは、たとえばロス・マクドナルドが作り出したタイプのもの。主人公である「私」が丹念に人々を訪ね歩いてとある人物(『血族』の場合は、それがたまたま主人公の母ということになる)の生家にまつわる謎を解き明かしていく――というこの小説の基本構造はまさにロス・マクドナルドが生み出したロサンゼルスの私立探偵、リュウ・アーチャーを主人公とするシリーズを彷彿させるではないか。しかも、そうして明らかになる〝真相〟が深い悲しみを纏っている――というあたりもね。そして、特筆すべきは、これが作者の自伝的色彩がきわめて濃厚な、むしろノンフィクションに近い作品であること。よく途中で怖じ気ずくことがなかったものだ。ワタシが山口瞳の立場だったら最後までやり通せたかどうか? 多分、やり通しただろう――と言い切る自信はない。これは、わが家にも少しばかりの謎があることを踏まえた上での偽らざる思い。それだけに、山口瞳が『血族』という傑作自伝小説として結実することになるディテクティヴ・ワークをやり通したことについては、もう、敬服する、とでも言うしかない。そして、こういう人こそが真の「文学者」なのだろうと……。

 さて、ここからは少しばかり有馬頼義の「北白川宮生涯」のことを書きたい。まず、「壮士一たび去りて〜ジュール・ブリュネと輪王寺宮公現法親王〜」でワタシはこんなことを書いたのだけれど――

北白川宮能久親王の死は公式にはマラリアに罹患したことに伴う戦病死だったとされているものの、北白川宮の孫に当る有馬頼義が昭和43年に発表した「北白川宮生涯」の最後で、「某日、ある人から私のところへ電話がかかってきた。その人の言によると、能久親王はマラリヤで亡くなったのではなく、実はピストルで自殺されたのだという」。情報を寄せた人物は台湾遠征に加わっていた軍人の子孫で、有馬頼義によれば「ちゃんとした人」だという。しかし、結局、有馬頼義は「自殺説の根拠をなすものには、証拠がない」として当の人物と会うこともせず、この情報についても「こういう異説もある」として書き留めるに止めている。その判断を傍がどうこう言うべきではないのかもしれないけれど、しかしたとえば山口瞳だったならここで二の足を踏むようなことは決してしなかっただろう。むしろ「某日、ある人から私のところへ電話がかかってきた。その人の言によると、能久親王はマラリヤで亡くなったのではなく、実はピストルで自殺されたのだという」――というところから、一編の小説を始めていたのでは? 有馬頼義には文学者としての「業」が決定的に不足している――というか、そもそも彼がなんで「北白川宮生涯」を書いたのかが大いなる謎と言うべきなのだけれど……
『別冊文藝春秋』第105号

 この最後の部分ね。そもそも彼がなんで「北白川宮生涯」を書いたのかが大いなる謎と言うべきなのだけれど……。おそらく「北白川宮生涯」をお読みになっていない方はなんでワタシがこんなことを書くのか不思議にお思いのはず。北白川宮能久親王の孫である有馬頼義(北白川宮能久親王の第2王女・貞子が有馬頼義の母という間柄)が祖父の生涯を綴った伝記小説を書くことに何の不思議があるのか? と。それは、まあ、その通りではあるのだけれど、しかし実際に「北白川宮生涯」というタイトルを付されて『別冊文藝春秋』第105号の誌面に印刷されたものを読むと、どうしたってそう思わざるを得ない。だって、このページ数にして87ページ、400字詰め原稿用紙にして300枚(と表紙にそう書かれている。実際に300枚なのかどうかは知りません)という作品の大半が史料や他の作品からの引用なのだ。いや、ここは大半などという大雑把な言い方ではなく、具体的な数字としてお示ししましょう。有馬頼義作「北白川宮生涯」は『別冊文藝春秋』第105号の228ページから314ページ(最終ページ)までを占めており、その全87ページ中、史料や他の作品からの引用は実に68ページにも及ぶ。いいですか? 87ページ中の68ページですよ。つまり、有馬頼義が自ら書いた部分は残りの19ページしかないということになる。これは尋常ではありませんよ。ワタシもかなり引用に依拠する方ではあるのだけれど、こんなことはやりませんて。その有り様たるやいささか呆気にとられるくらいで、たとえば261ページから290ページまではずーっと引用が続くんだ。島峯颯平という人が書いた『彰義隊始末』という小説の引用。これでは「北白川宮生涯」を読んでいるのか、『彰義隊始末』を読まされているのか、わからなくなる。『別冊文藝春秋』の編集部もよくこんなことを許したものだ……。

 ――というようなわけで、↑の引用(はて、自分が書いたものでも「引用」と言うのかな?)の最後はこう書き直すべきかな? つまり、そもそも彼がなんで「北白川宮生涯」こんなケッタイなものを書いたのかが大いなる謎と言うべきなのだけれど……。

 で、本稿ではこのことについて少しばかり考えてみたいと思う。そのためには、まずは「北白川宮生涯」のざっくりとした内容をご説明する必要があるだろう(以下、引用が多めにはなりますが、なるべく短めになるよう務めたいと思います。ハイ)。まずは冒頭。うん、これはなかなか期待を抱かせるではないか――と思わせられる書き出し部分――

 その人の一生は、まるで歴史の中の一こまの影絵でしかないようである。いや、むしろ、今になってみれば、歴史上の人物ですらない。しかし、私が、この人のことを書いておきたい、と考えついたのは、十年の昔のことだ。私には、この人のことを書いておかなければならない義務のようなものがあったが、何分、資料皆無という状態で、今でさえ、この人の一生を書いた資料は、日本に三冊しかない。私はこの三冊の古い書物を、くり返し、くり返し、ひまをみつけては読んでいたが、そのうちに一つの妄想のようなものが浮びあがってきた。しかし妄想を出なかった。それで、この三冊の書物をもとににして、この人の一生を、年譜のかたちに書き直してみた。すると、どうも、おかしいところがある。鳥羽・伏見の戦いあたりから以後、所謂正史というものが、波濤のような一つの強力な流れを見せて居り、この人の生涯は、その渦中にありながら、かんじんのところで影になり、また実像であったと思うと、影でしかないように見えるのである。

 ね、なかなか期待を抱かせるでしょう? これはページを繰る手も進むというものですよ……。ちなみに、ここで有馬頼義が北白川宮能久親王の一生を書いた「三冊の古い書物」と記しているのは社団法人台湾教育会編『北白川宮能久親王御事蹟』、稲垣其外著『北白川宮』、森林太郎編『能久親王事蹟』の3冊。最後の『能久親王事蹟』の編者(正確には「編集兼発行人代表者」)である森林太郎とは、言わずと知れた森鷗外のこと。森鷗外こと森林太郎は台湾総督府陸軍局軍医部長として宮の最期を看取った人物。そもそも同書は北白川宮能久親王の近衛師団長時代の部下に当たる陸軍大将・川村景明や同中将・阪井重季らが中心となって明治41年に刊行されたもので、編纂に当ったのも陸軍将校の社交倶楽部である「東京偕行社」内に設けられた「棠陰会」なる団体。そして、この「棠陰会」が実際の編集実務を担う「編集兼発行人代表者」として白羽の矢を立てたのが当時、陸軍軍医総監兼陸軍省医務局長だった森林太郎。編纂者としてはもうこれ以上ないくらいの人物を得て、さぞや読み応えのある一代記に仕上がっているものと思いきや……。ともあれ、こうして有馬頼義の手元には3冊の参考文献があったわけだけれど、しかし、それだけでは彼は祖父の伝記執筆に手を付けるには不十分だと感じていた――

 ところが、上野の東叡山寛永寺に、門外不出の「能久親王年譜稿」という、当時つくられた和とじの本が数巻あることを、ある人からきき、しかし、それは門外不出であり、北白川家にもないので、人に頼んで、全部、写真にとってきてもらった。私が、資料として頼れるのは、だから三冊の書物と、門外不出の記録しかないということになった。

 門外不出――。なんという香ばしい言葉であることよ。ここに至って読む者の期待はマックスにまで高まることとなる。そして、有馬頼義は駄目押しのごとくこう続けるのだ――

 私は今、この人の生涯の隠れた部分を、まとめておきたい義務のようなものを感じている。それは、この人が、私の祖父であるという事以外に、資料を読んでみると、現在伝えられている正史と、ずい分違うところが発見されたためであった。
 私は、どちらかといえば、正史を信用しない。正史には、誤りがある。私は今、そのあやまちを正してみたいと思うのである。しかし、そんなことに、どれだけの意味があるのだろうか。意味がなくても、私は書いておきたいのだ。

 私は、どちらかといえば、正史を信用しない――。えー、巷では今、佐藤健のバックハグの破壊力がハンパないと大盛り上がりのようですが、いやー、破壊力ということで言うならこっちのほうが上でしょう。だって、北白川宮能久親王の孫が「私は、どちらかといえば、正史を信用しない」と言ってるんですよ。そして、これから北白川宮能久親王の一生を書くと言ってるんですよ。もうこの時点でワタシのハートは完全に有馬頼義のモノ……。ところが――有馬頼義はこの後、実に意外なことを書く。

 私が、正史と違っている点を発見したのは、有栖川宮熾仁親王を総大将にし、西郷隆盛を参謀とした東征軍が、江戸総攻撃を中止したときの事情が、薩摩屋敷での、西郷と、勝海舟の肚芸だったという一点である。江戸城の攻撃が中止され、勝海舟がその功績をもって、また西郷隆盛も、明治維新政府の重役に登用されたという事実に、疑問があるのである。私が、これを書いたからと云って、日本の歴史の一部が訂正されるとは思わない。しかし、隠された事実は白日のもとに提出されるべきであろう。

 え、江戸総攻撃を中止したときの事情? 「東武皇帝」即位説じゃないの?? ただ、まあ、それも決して小さな論点とは言えない。確かに江戸総攻撃の中止が「薩摩屋敷での、西郷と、勝海舟の肚芸」によって決まったというのはウソ。ここは有馬頼義が書くごとく、江戸総攻撃の中止はもっと早くに決まっていた。だから、有馬頼義がこの点にこだわりを見せるというのは、それはそれで意味のあることだとは思う。しかし、「私が、正史と違っている点を発見したのは(略)薩摩屋敷での、西郷と、勝海舟の肚芸だったという一点である」――と言われちゃうとねえ。もっと他に「正史と違っている点」があるんじゃないの……?

 しかし、有馬頼義はそんな読者の思いを置き去りにして、さっさと(?)物語を始めてしまう。曰く「輪王寺宮、後に北白川宮能久親王と名乗った一人の人間の一生を、たんねんに、その出生から辿ってみたい」。そして、その手始めとして繰り出されるのが――そう、引用なのだ、例の「門外不出の『能久親王年譜稿』という、当時つくられた和とじの本」の。これが230ページから244ページまできっちり14ページ続く。いいですか? 14ページですよ。冒頭で有馬頼義がこの小説を書くことになった動機みたいなものを記した部分が約2ページ。それが終わって、いきなり引用が14ページ。これには誰もが戸惑うでしょう。いかにそれが「門外不出」の貴重な史料であってもね。しかし、あたかもそうすることが祖父の生涯を「たんねんに」辿ることだとでも言うように有馬頼義はその「門外不出」の「和とじの本」を書き写していくのだ。で、この引用部分がカバーするのは北白川宮こと輪王寺宮(幼名は満宮)が弘化4年2月、伏見宮邦家親王を父に、堀内信子(伏見宮家に仕えた女房。ま、ざっくばらんに言うならば、伏見宮邦家親王は女中さんに手を付けたわけですね)を母に京都御車通今出川下るの伏見宮邸で呱々の声を上げてから慶応4年3月、駿府での有栖川宮熾仁親王との「引見」を終えて寛永寺に帰ってくるまで――ということになる。そして、ここでいよいよ物語は彼が言う「正史と違っている点」、つまり「有栖川宮熾仁親王を総大将にし、西郷隆盛を参謀とした東征軍が、江戸総攻撃を中止したときの事情が、薩摩屋敷での、西郷と、勝海舟の肚芸だった」というのは嘘である――という(彼にとっての)問題の核心に踏み込んでいくこととなるわけだけれど――ところがねえ、彼はこう書くんですよ――

 有栖川宮が、輪王寺宮の参内を、駿府城で阻止した事実は、正史の中では大したことではない。しかし、岩倉公実記と、輪王寺宮に関する資料を渉猟すると、意外な事実が発見されるのである。
 即ち、有栖川宮としては、輪王寺宮を京都へやってはならなかったのだ。少くとも、慶喜の使者が宮である以上、天皇は会見を許さざるを得ない。この場合帝が輪王寺より年上であれば、問題ではないが、もし若いみかどが、輪王寺の方を容れて、何らかの行動に出るとすれば、岩倉具視を中心としてすすめられた江戸城攻撃に変化が生じる。岩倉は、だから輪王寺宮の上洛を阻止しなければならなかった。別の云い方をすると、岩倉が糸を引いていた東征軍の動きは、大総督宮と西郷を通して、実現しようとしていたのである。
 くり返すが、正史には、江戸の薩摩屋敷で、西郷と勝とが二度にわたって会見し、江戸城無血占領に決定、西郷はもとより、勝海舟は英雄になっている。岩倉は、江戸で戦争が生じれば、勝海舟という人物は、死ぬか、自害するに違いないと思った。岩倉にしては、それは惜しいことなのであった。そういう理由で岩倉は東征軍は出しても絶対に江戸城を攻撃してはならないということを有栖川宮と西郷に厳命している。すべてが、岩倉具視の策謀なのであった。だから、本気で、慶喜助命のために、危険な上洛の旅に出た輪王寺宮は、全く意味をなさない旅をしたわけだ。そして勿論、この事実は、後になっても、輪王寺宮の耳にははいってはいなかった。(傍点は原著者)

 江戸総攻撃の中止はあらかじめ決められていたことであり、それは勝海舟を自害させないための「岩倉具視の策謀」だった――。その真偽は措いておくとして、ここで奇妙なのは、そのことはこれまで延々と引用してきた「能久親王年譜稿」によって明らかになった事実ではないという点。「岩倉公実記と、輪王寺宮に関する資料を渉猟すると、意外な事実が発見されるのである」――と。しかし、「岩倉公実記」や「輪王寺宮に関する資料」のどこにどんなことが書かれているからそう考えられるのかはなぜか記されていない。もし江戸総攻撃が「岩倉具視の策謀」であらかじめ中止と決められていたと言い張るなら、ここはよほど丁寧な説明が必要なはず。しかし、これほど膨大な引用に依存していながら、この肝心要の部分ではなんの史料も示していないという不思議。この時点でワタシの頭はもうウニ状態というか……。しかも有馬頼義は「私が、正史と違っている点を発見したのは、有栖川宮熾仁親王を総大将にし、西郷隆盛を参謀とした東征軍が、江戸総攻撃を中止したときの事情が、薩摩屋敷での、西郷と、勝海舟の肚芸だったという一点である」と書いておきながら、その「一点」について記した後も物語(?)は延々と続くのだ。今度は上野戦争勃発に至る経緯がまたぞろ関連史料や作品の引用というかたちで綴られていく。冒頭で「――の一点である」と言明したことが何の意味もなさない……。

 しかし、そうしたことは委細構わず物語は以後、上野戦争へとフォーカスを移して――さて、島峯颯平著『彰義隊始末』の登場となる。その引用が261ページから290ページまで延々と続くことになるわけだけれど、有馬頼義はそれに当ってどう書いているか? なんと、こう書いているのだ――「島峯颯平氏の著書は少部数しか刷られていないので、これから多少のこの本からも、引用を用いて、島峯颯平氏の遺志をもつぎたいと思う」。延々29ページにも及ぶ引用を「多少」と。この言語感覚はワタシには到底、理解ができません。また、そもそもなんで自分の祖父の生涯を描いた伝記小説に赤の他人が書いた歴史小説なんか引用するのか? しかも延々29ページにも渡って。読者が読みたいのは、有馬頼義が書いた北白川宮の伝記であって、島峯ナントカさんの書いたものではない……。しかし、そんな読者の思いを知ってか知らずか、有馬頼義はこういうことをやった。それにはそれなりの意図というものが当然、あるはずなのだけれど……たまに本格ものの探偵小説なんかで劇中劇ならぬ小説中小説というかたちでまるまる一編の小説が挿入されるということがある。島田荘司の『アトポス』なんかがそうなんだけど、これはいわゆるレッドへリングというやつで、有り体に言うならば読者をミスリードするための小道具。ま、小道具というわりには長尺で、これを読者をミスリードするためだけにわざわざ書いたのか? と思うと、なんというのか……ご苦労なこったなあと。ワタシには絶対にできません。しかし、ミステリーの世界ではそういう手法が用いられるということで、もしかしたら有馬頼義も言うならば小説中小説の手法で読者になんらかの印象づけを行おうとしたのかなあ、と(念のため、書いておくなら、有馬頼義は『四万人の目撃者』で日本探偵作家クラブ賞を受賞している)。ただ、この29ページにも及ぶ引用で植え付けられる印象と言えば、ハテ、一体これはなんなんだ? オレは今、何を読まされているんだ? という疑問というか、疑念を読者に抱かせることくらいでは……?

 で、この延々29ページにも及ぶ引用が終ると、いよいよ輪王寺宮の奥州遷座ということになるわけだけれど――これがですねえ、なんともあっさりしていると言うか。榎本艦隊の長鯨丸に「座乗」して奥州に入ってから戦局の悪化を受けて仙台城に避難するまでがわずか1ページ半で綴られている。それでいて、その間の宮の行動や目的をめぐってはいささか断定的にこう記している――

 仙台での宿は、眺海山仙岳院であったが、ここでは、藩主伊達陸奥守義邦父子、国老大内築後、石母田但馬、後藤孫兵衛等にあっている。一説によるとここで輪王寺宮が前掲「奥羽越同盟」の盟主になったとあるがこれは俗説だろうと思う
 その頃、大総督府では、江戸城を無血占領、彰義隊の始末を終えて、いよいよ、鳥羽・伏見の戦いの首謀者と目されていた、会津若松城主松平肥後守容保を討伐するため、奥羽征討軍の進撃を開始していたのである。総督九条道孝、副総督沢為量、参謀醍醐忠敬、大山格之助、世良修蔵を幹部に六百の兵士を進発させている。これによって、奥羽地方は、戦火の巷となった。この各地の戦いは、若松城の陥落、白虎隊の自尽等による終結まで続いた。その中で輪王寺宮は奥羽各藩の恭順を説いて回っている。(傍点は引用者)

 そして、この後はまた例の「門外不出の『能久親王年譜稿』という、当時つくられた和とじの本」の引用で奥羽征討軍に帰順した宮が東京に送還され謹慎させられるまでが物語られ、その後はさらに駆け足になって輪王寺宮公現法親王改め北白川宮能久親王としての後半生ならびに台湾遠征中の戦病死が今度は森林太郎の『能久親王事跡』の引用で物語られ――「時に明治二十八年、十一月二十八日、台南で、北白川宮能久親王はその一生を終った」。そして……まあ、最後はやはり彼自身の言葉で締めくくってもらうのがいいでしょう。多少、長めにはなりますけどね。

 私は今、輪王寺宮、後の北白川宮能久親王の数奇な一生を書きつづったが、私自身は、能久親王に生前勿論会ったことはない。ただ富子大妃殿下は、たしか、昭和十一年の三月だかに、高齢で世を去っている。この頃は、私は高校生か、大学予科の時代で、お通夜にも行き葬儀にも加わっている。大妃殿下の晩年については、幾つかの思い出もあるが、紙数がつきた。
 ところで、私が北白川宮能久親王のことを書いていることが、どこからどう洩れたのか、某日、ある人から私のところへ電話がかかってきた。その人の言によると、能久親王はマラリヤで亡くなったのではなく、実はピストルで自殺されたのだという。私は驚愕した。電話の相手は、ちゃんとした人で、(著名人という意味ではないが)その人の祖父が、台湾征伐に加わって居り、事実を目撃したという。しかし、当時のことだから、ひたかくしにされて今日に至った。その人は、その父君からも堅く口どめされたという。
 私は、まず、前に挙げた資料を、もう一度読み直してみたが、三冊とも、マラリヤの戦病死になっていることにかわりはない。まして、その一つは、森林太郎の編著であり、御発病から薨去までの約十日間の病状を、くわしく書いている。もし、ピストル自殺が本当のことであれば、鷗外が、全く嘘の病状を書いていたことになる。御発病から葬式までが、一日か二日ならばとも角、十日間の病状の記録が嘘であるとはどうしても思えないのである。自殺説の根拠をなすものには、証拠がない。それ故、私は、ここでは資料に対してあえて意義を立てることはやめたいと思う。ピストル自殺はかりにそれが事実とすれば、能久親王が軍略家もしくは指揮官として不適格であったがためであろう。そのために部下の将兵の多くを失い、今でいうノイローゼになって自殺を図ったと考えるほかはないが、そうだとしたら、その人の一生は、あまりにもみじめであったと云わなければならない。
 こういう異説もある、ということにとどめておくべきであると私は思い、その人に会って、くわしい話をするのをやめた。このことは、永く私の脳裡を去らないであろうが、もはや仕方がない。人間は、生れれば、いつかは死ぬものであろう。ただその人が、常に歴史の証言者であり、目撃者であったという点で、北白川宮能久親王の生涯は、正史のかげにかくれた、わびしい生涯であった。

 ワタシは今、「北白川宮生涯」という読み物のケッタイなあらましを書きつづったわけですが(笑)……一体、これはなんなんでしょうか? 有馬頼義は冒頭で「私は今、この人の生涯の隠れた部分を、まとめておきたい義務のようなものを感じている」と書いている。その思いはよーくわかる。有馬頼義には、確かにそうする「義務」があった。北白川家に生まれ、作家になったものが当然、負うべき「義務」――。しかし、そうして書き上げられた作品がこのようなものであるということは一体どういうことであるのか? 特に疑問に思わざるをえないのは『彰義隊始末』という公刊されている小説の一節を延々29ページにも渡って引用していること。つーか、29ページにも及ぶ引用なんて、もう引用の範疇を超えているよね。まあ、「能久親王年譜稿」の方もトータルでは同じくらいのボリュームになるのだけれど、こちらについてはそれが「門外不出」で、一般の読者にはまず目にすることのできないものであることを考えるなら、ここは多少ページ数を割いてでも紹介する意義はあるだろう。しかし、『彰義隊始末』の方は公刊されたものなのだから。しかも版元は新人物往来社。決してマイナーな出版社ではない。これがたとえば自費出版とかいうのなら、あえて『別冊文藝春秋』から割り当てられたページ数を割いてでも紹介するという意義はあるかもしれない。しかし、新人物往来社という歴史関連では名の通った出版社から公刊されている小説の一部を延々29ページに渡って引用する……。およそありえないことだと言わざるをえない。

 しかし、そのありえないことを、有馬頼義はやった。それにはそれなりの理由があったのだと考えるべき。では、その理由とは? ずばり、「北白川宮生涯」は、本当に有馬頼義が書きたくて書いた小説ではないのでは? それは、万やむを得ず書かざるを得なかった小説……。

 「北白川宮生涯」が収録された『別冊文藝春秋』第105号が発行されたのは昭和43年。その1年前、秋田大学史学会刊行の『秋大史学』第14号に1編のごく短い論文が掲載された。タイトルは「いわゆる大政改元史料をめぐって」。書いたのは文部省史料館(現・国文学研究資料館)の研究員・鎌田永吉。「鎌田永吉年譜」(鎌田永吉遺稿集刊行会編『幕藩体制と維新変革』所収)によれば、生まれは秋田県秋田市で、本論文を寄稿したのも出身大学である秋田大学史学会刊行の『秋大史学』。これは、秋田藩が奥羽越列藩同盟を逸早く離脱し、該同盟が輪王寺宮を「盟主」として仰いだことを「尊氏ノ惡例」に倣うものとして激しく攻撃したことを考えるならばなかなか皮肉なめぐりあわせと言わざるを得ない。というのも、この論文こそは昭和27年に武者小路實が『史學雑誌』に寄稿した「戊辰役の一資料」以来、久しぶりに「東武皇帝」即位説(あるいは「東北朝廷」仮説)に裏付け史料というブースターを提供するものであったため。武者小路實が「戊辰役の一資料」で紹介した、幻の(と、この際、書いておきましょう)「東北朝廷」の首脳名簿はその誰もが驚愕する内容の一方、その信憑性をクロスチェックする他の史料が一切存在しない(邦文史料に限ればね。ココ重要)というネックを抱えていたわけだけれど、鎌田永吉は所属する文部省史料館が所蔵する「蜂須賀家文書」の中からいわゆる「菊池史料」と類似する史料を発見、「菊池史料」と内容を突き合わせた上でその信憑性について検討したのがこの「いわゆる大政改元史料をめぐって」。そんなことを、旧秋田藩出身の人物がやったのだから、これはなかなか皮肉なめぐり合わせと言わざるを得ませんよねえ……。当時、この論文がどれほどの反響を呼び起こしたのかは知りようもない。しかし、「戊辰役の一資料」以来、久しく鳴りを潜めていた「東武皇帝」即位説に再びスポットライトが当てられるモーメントとなったのは間違いないのでは? そして、その翌年、「北白川宮生涯」は書かれた――というコトの流れを踏まえる時、朧げながら見えてくる〝絵〟というものがある。はっきり言うならば、「北白川宮生涯」は世間の注目を「東武皇帝」即位説から逸らすために書かれたのではないか?

 戊辰戦争中、輪王寺宮が奥羽越列藩同盟の「盟主」(『仙台戊辰史』によれば「軍事総督」)に就任し、東征大総督たる有栖川宮熾仁親王と対立する立場に立った――ということは、「正史」には記されていないものの、否定しようのない「史実」(ちなみに、輪王寺宮公現法親王が戊辰戦争中、有栖川宮熾仁親王と対立する関係にあったというのは榎本武揚の見方を踏まえたもの。『旧幕府』第1巻第5号所収の「榎本子談話」に曰く――「私共は徳川の家來で御座りますが、宮樣は大總督の宮樣とも御間柄で居らせられまする故、東西に御分れは道に違ひ候」)。また、輪王寺宮が奥州に遷座となるきっかけとなった上野戦争の最中、上野の山には翩翻と一旒の「錦旗」が翻っていたという「史実」も今では「なかったこと」にされている(彰義隊が「錦旗」を掲げていたことについては彰義隊の組頭格だった丸毛利恒の証言があるので間違いない。原書房版『史談会速記録』第8巻所収の「彰義隊成立並上野戰爭に關する事實」によれば、幹事の岡谷繁實から「(戦後)錦の旗を探したが見當たらなかったと云ふことでござりますが、そうでござりますか」と問われた丸毛利恒は――「夫れ𛂞後とから德川家より返上いたしました」。返上したということは、あったということ……)。こうしたいずれも否定しがたい「史実」の延長線上に「東武皇帝」即位説があるわけだけれど、しかしそれはアカデミズムの世界ではほぼ黙殺されてきたと言っていい。これは、裏付けとなる史料が「菊池史料」しかないという状況ではやむを得ざる仕儀だったと言えるかもしれない。しかし、昭和42年、鎌田永吉は所属する文部省史料館が所蔵する「蜂須賀家文書」の中から新たな史料を発見した。これによって「東武皇帝」即位説にまつわる議論が活発になるということは十分に予想された事態。これは、輪王寺宮にまつわる諸々の出来事をすべて「なかったこと」にしてやり過ごそうとするものからするならば由々しき事態だったに違いない。特に憂慮の念を強くしたのは当の北白川家だろう。北白川家は既に皇籍を離脱していたとはいえ(北白川家は昭和22年に皇籍を離脱した11宮家の1つ)、皇室と血のつながりのある旧宮家という立場にはいささかの変わりもない。そんな北白川家からするならば、2代前の先祖が「賊軍」とされた側の「盟主」の座にあっただの、ましてや「東武皇帝」を名乗り、もう1つの「朝廷」を組織していただのというのは絶対にあってはならないこと。ここは何が何でもそうした方向に世論の関心が向かうのを回避しなければならない。そのために書かれたのが「北白川宮生涯」――。

 なぜ「北白川宮生涯」を書くことが、世間の注目を「東武皇帝」即位説から逸らすことに繋がるのか? それは、こう考えればいい。折しも世間の注目が輪王寺宮に集まっている中、その〝血族〟によって綴られた宮の伝記小説を投入し、さらなる世の注目を惹いた上で、輪王寺宮に関る全く別の謎を提示するのだ。そうすると、どうなるか? いやでも世間の注目はそちらに向かうことになるだろう。それはイコール世間の目を「東武皇帝」即位説から逸らすことに繋がるはず……。ま、これは、いわゆるスピン・ドクターがよく使う手ですよ。ある疑惑がかけられた時、それとは別の疑惑を投下して世間の注目を逸らす――というね。そして、このケースの場合だと、世間の注目を逸らすために投下されたのが、東征軍の江戸総攻撃が中止になった〝真相〟ということになる。もちろん、小説の中では輪王寺宮の奥州潜行中の出来事についてはさりげなく「俗説」として退けておく――というか、軽ーく受け流しておく。つまり、ポイントはそこではないのだ、ポイントは東征軍の江戸総攻撃が中止になった経緯。そこにあたかも「大きな手」(『彰義隊始末』がこういう表現を使っている)が働いていたかのような印象を与えて世間の注目を引きつける……。

 ま、こんな仮説(妄想?)に立つならば、「北白川宮生涯」という小説そのものが世間の注目を真の疑惑から逸らすための〝レッドへリング〟だったということになるのかな? いずれにしても、「北白川宮生涯」とは、こうした目的を持って書かれた小説。そして、そう考えた時、そうしたことは有馬頼義が自らの発案で行ったとはまず考えられない。むしろそこには北白川家の意思というものが大きく作用していたに違いない。言うならば、有馬頼義は北白川家の意向を受け、北白川家の求めに応じて「北白川宮生涯」を書いた――。あるいは、有馬頼義に「北白川宮生涯」を書くよう求めた主体については、北白川家に加えて寛永寺が含まれていた可能性を考えてもいいか。「門外不出」とされる史料がなぜこのタイミングで表に出てきたのかを考えるなら、そういう想定も十分に合理性があるとは言えるはず。上野戦争中、上野の山には翩翻と「錦旗」が翻っていたというのは寛永寺としても「あってはならない」ことだろうから。そういう憶測が広がらないためにも、ここは有馬頼義に一肌脱いでもらいたい――そういうことが北白川家や寛永寺の総意として突きつけられれば、有馬頼義としても断るというのは難しかっただろう。つまり、彼としては万やむを得ずそうせざるをえなかったということ。そのことは、彼が提供された史料を自分なりに咀嚼して一編の歴史小説に昇華するという、通常の歴史小説の執筆の場合ならば当然、行われるようなことが一切行われず、史料をそのまま書き写すという安直な手法が取られていることからも見て取ることができる。彼としてもこんなことはやりたくなかったのだ。しかし、そうせざるをえなかった。あるいは、「私は今、この人の生涯の隠れた部分を、まとめておきたい義務のようなものを感じている」という、その「義務」とは、そういうことだったりして……?

 ――と、こんなふうに考えるならば、そもそもこの小説を取り上げて山口瞳の『血族』と比べてどうこうなんて、言う方がどうかしている、ということになる。有馬頼義だって、この小説を以て、有馬頼義には文学者としての「業」が決定的に不足している――と言われるのは不本意だろう。彼はもともとそういうつもりでこの小説を書いたのではないだろうから。あくまでも、北白川家に連なるものとしての「義務」を果しただけ。ただ――そんな彼にとって想定外の出来事が起きた。それは、「私が北白川宮能久親王のことを書いていることが、どこからどう洩れたのか、某日、ある人から私のところへ電話がかかってきた。その人の言によると、能久親王はマラリヤで亡くなったのではなく、実はピストルで自殺されたのだという」――という、この思いもかけない展開。「北白川宮生涯」を執筆するに当たってこういう展開が待ち受けているなど、想像だにしなかったに違いない。この「驚愕」の情報について有馬頼義は結局は「黙殺」という対応を取ることとなる。ただ、「このことは、永く私の脳裡を去らないであろう」とも。そして、はたしてそのことと関連があるのかどうか、それまでコンスタントに更新を続けていた有馬頼義のビブリオグラフィは「北白川宮生涯」発表後、ほどなく更新を止めてしまうのだ。そして、昭和47年には自殺未遂を起こすことになる(睡眠薬のブロバリンを80錠も飲んでガス栓を捻った)。その理由については、いろんなことが言われている。同じ年に川端康成がガス自殺を遂げており、それに誘発されたという見方。また、前年に発表した作品をめぐって恐喝事件(なんと本文中に引用した匿名の小説が「盗作」であるとして、新聞ダネにされたくないなら「慰謝料」を払うよう求められた。結局、有馬頼義は求めに応じ、100万円相当の金を支払ったという)に巻き込まれていたことを明かした上で、この一件が「尾を引いているのではないか」と推測をめぐらしている向きもある(大村彦次郎著『文壇うたかた物語』参照)。しかし、そもそも有馬頼義が薬物に依存するようになったのはそれ以前からなんだから。「もうおしまいの頃なんて、私が煙草を吸うようなもので、やたらに飲んでいつもボーッと、もうろうとしていました。何回も入院させたんですけど、ダメでした」――とは、千代子夫人の弁(文藝春秋編『想い出の作家たち2』参照)。有馬頼義がそれほど薬物に溺れ、自殺未遂まで起こすに至った理由――、それは思いもかけず突きつけられることになった祖父の死の〝真相〟を自分の中で消化できなかった結果と見るべきでは? 実際、自分でも書いているじゃないか、「このことは、永く私の脳裡を去らないであろう」。それは、彼が行ったことに対する報いであり、紛れもなく、文学者としての「業」のしからしむる結果。そう捉えるならば、有馬頼義が山口瞳と比較して文学者としての「業」が不足していたとは……。