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真言立川流と越中人
〜誓願房心定が『受法用心集』に記した謎〜

 しかし、朝松健は知っているのかねえ、仁寛が創始した真言宗の一法流(立川流)が髑髏本尊を崇拝する邪淫教だったという永らく信じられてきた通説が近年の研究で否定されつつあるということを。ハッキリ言ってこれは容易ならざる事態で。というのも彼は2000年に刊行された『百怪祭』のあとがきで、開口一番、「室町が好きだ」とコクった上で「室町」と恋に落ちた(?)きっかけをこう綴っているんだよね――「きっかけは、ささいなことだった。/デビュー以来ずっとこだわり続けてきたテーマである「立川流と文観上人」。これをそろそろどうにかしなければならない、と、ある日、思いたったのだった」。つまり、「立川流と文観上人」はホラー作家・朝松健にとっては積年のテーマだったわけだよ。ところが、彼がこのテーマに手を付けるのとちょうど軌を一にするかたちで「立川流と文観上人」をめぐるパラダイム・シフトが惹起、今や立川流が髑髏本尊を崇拝する邪淫教だったというのも後醍醐天皇の護持僧だった文観房弘真がその立川流の「中興の祖」だったというのも否定されつつある――つーか、否定された、でいいのかな? だから、もう完全に世界構築の土台が崩れてしまっているわけだよ。これは深刻だよー。ワタシが朝松健の立場だったら、もう茫然自失のテイですよ……。もっとも、髑髏本尊を崇拝する邪淫教自体は実在した。どういうわけかその名称は伝わっておらず、この問題にこだわりを持って情報発信をし続けている宗教学者の彌永信美氏はこの問題の基本文献とされる『受法用心集』における表現を踏まえて「彼の法集団」と呼ぶことを提唱している。また真言宗醍醐派の阿闍梨でもある柴田賢龍氏は「内三部経流」という名称を提唱している。まあ、ワタシは、髑髏本尊を崇拝しているんだから「髑髏教」でいいんじゃないかと思うけどね。ともあれ、そんな名称未設定の邪教集団(という言い方をするとクーンツの『邪教集団トワイライトの追撃』が思い起こされて、なんかB級カルトホラーっぽい印象がしてしまうんだけれど……)は確かに実在したのだから、こちらをヴィランに仕立てれば……と、そんな簡単な話でもないんだろうな。なんたって「立川流と文観上人」で永らく作り上げてきた世界があるわけだから。それを急に「彼の法集団」or「内三部経流」or「髑髏教」とは……。

 ということで、本題。よしゃーいいのにまたウィキペディアに新しい項目を作ってしまった。今回、作ったのは「心定」。↑でこの問題の基本文献と紹介した『受法用心集』を著した人物。現在も福井県坂井市丸岡町に存続する圓福院というお寺の開山で『受法用心集』を著したのは文永5年(1268年)のこと。この書で心定は当時蔓延っていた名称不明の密教一派が掲げる髑髏本尊儀礼など性的儀礼を含む教義(詳細は「「彼の法」集団#教義」参照)を詳述した上でそれを「奈利(奈落)の業報なり」と厳しく批難した。で、それはいいんだけれど、おそらくは故意にこの書を誤読して件の教義と真言立川流を結びつけた人物がいる。それが立川流が永きに渡って髑髏本尊を崇拝する邪淫教だったと誤認される原因となった――と、ザックリ言えばそういうことなんだけれど、そんな人物の記事をなんでワタシが? 自慢じゃないけれど、ワタシは真言密教にも立川流にも特段の知見というものは持ち合わせていない。有り体に言えば、ド素人です。実際、よーわからんのだ。「秘密瑜祇等流法身三種の灌頂」なんて、どこで区切りゃーいいものか。「秘密・瑜祇・等流法身」? 「秘密瑜祇・等流・法身」? そんな感じなので、書いたは書いたんだけれど、内心、冷や冷やで。だったら、書かなきゃいいのに? まあ、ねえ……。ただ、『受法用心集』を読んだところ(『受法用心集』はインターネットで読むことができる。彌永信美氏が電子テキスト化してご自身のウェブサイトで公開しておられるのだ。1948年生まれというから、御歳74歳。それでいて、永年のMacユーザーだそうです)、越中人であるワタシが、おっ、と思わず身を乗り出す箇所が。実は2度ばかり「越中」という文字が出てくるのだ。いずれも心定が自らの37年に及ぶ修学の日々(曰く「小僧少年の昔より老後の今にいたるまで密教の功労をいたす事万里の嶮難をこえ、千尋の蒼海をわたるが如し」)を綴る中で、最初は「二十五歳にして延応元年の夏の比、越中国細野の阿聖あさりに秘密瑜祇等流法身三種の灌頂を受け、立川の一流秘書悉く書きつくし了ぬ」。えー、ここに出てくる「秘密瑜祇等流法身三種の灌頂」というのが、まあ……。2度目は「又三十六の年建長二年の夏の比」として縷々記した上で「其の後小僧又事の便り有りて彼の新善光寺に詣し時、弘阿弥陀仏の奄室に召請再三に及びしかば彼の室に望みて見れば経机の上に大なる袋を置けり。弘阿弥陀仏是れを開き巻物を取り出せり。其の数殆ど百余巻なり。小僧是れを開き見れば大旨越中国に流布する処の立川の折紙どもなり」。で、「此の中に彼の内三部経菊蘭の口伝七八巻交れり」と続くわけだけれど、多分、ここで「越中」という文字に遭遇することがなければ、ワタシがウィキペディアに「心定」という項目を作ることもなかっただろう。げに恐ろしきは郷土愛なり……?

 ともあれ、こうしてワタシは思いもかけず遭遇することになった「越中」という2文字に大いにココロを奮わされることになるわけだけれど、紹介した下りの内、真言立川流が邪淫教と誤認されるに至ったきっかけという意味で特に重視するならば後者の方ということになるだろう。というのも、その「彼の内三部経菊蘭の口伝七八巻」というのがモンダイの教典で、それが「立川の折紙ども」の中に混入していた――ということが、真言立川流が邪淫教と混同される必然性を提供することになったわけだから。ただ、越中人であるワタシの興味を鷲掴みしたのは前者の方。つまり、「越中国細野の阿聖あさりに秘密瑜祇等流法身三種の灌頂を受け、立川の一流秘書悉く書きつくし了ぬ」という、その「越中国細野」って、どこ? これについて彌永氏は「富山県下新川郡朝日町細野??」と注釈を付しておられるのだけれど、朝日町細野に「阿闍梨」と呼ばれるような高僧のいる真言宗の寺なんてあるの? そんなイメージはないけどなあ……。で、一応、「日本の神社・寺院検索サイト 八百万の神」で確認してみた。すると、朝日町細野にはないものの、同じ朝日町の南保や境にならそれなりの格式を誇る真言宗の寺はあるんだね。特に境にある護国寺は大同4年(809年)に弘法大師によって創建されたと言われる古刹で「シャクナゲ寺」の愛称で親しまれている――らしい。でも、朝日町細野と朝日町境じゃ結構離れているのでねえ。それに、朝日町境ってのは例の宮崎定範(何が「例の」かは「ある郷土愛者の超主体的「史跡」考②〜みやさきをゝいおとされたるよしきこしめし候ぬ。〜」をお読みいただければ)が幕府軍を迎え撃った近辺で、ワタシも行ったことがあるのだけれど、海岸沿いのなかなか風光明媚なところ。とてもじゃないけれど「秘密瑜祇等流法身三種の灌頂を受け、立川の一流秘書悉く書きつくし了ぬ」という、そんな秘密めかした感じのするところじゃないんだよね。いずれにしたって、境は境で、細野ではないわけだから。そして、朝日町細野には真言宗の寺がない――となると、延応元年、25歳の若き修行僧が立川流を受法した「越中国細野」とはどこなのか? これは、越中人たるワタシが何としてでも解いて見せなければならない「謎」……。

 で、「日本の神社・寺院検索サイト 八百万の神」で確認した限りでは、高野山真言宗の寺院で住所に「細野」の2文字を含む寺院は存在しない。ただ、富山の神社・寺院 > 高野山真言宗で表示される寺院一覧をためつすがめつしていたワタシは卒然としてある可能性に思い至った――そう言えば南砺市安居ってかつては福野町安居って言ったんだよなあ……。実は南砺市安居には真言宗の古刹がある。その名を安居寺というのだけれど、これが一体どれくらいの古刹かというと――南砺市の観光情報サイト「旅々なんと」に曰く「斉明天皇2年(656年)に地主地蔵尊を奉祀したことを起源とする古刹。その後、養老2年(718年)、インドから渡来した善無畏三蔵が、聖観音立像(国指定重要文化財)を本尊として奉安し、夏安居(げあんご)の修行を行ったことに因んで寺名とした」。ね、斉明天皇2年だの養老2年だの。多分、越中に数ある寺の中でも最も古い歴史を誇るのはここじゃないかなあ。でね、その所在地は富山県南砺市安居4941なんだけれど、南砺市というのは例の「平成の大合併」で東砺波郡の福野町、井波町、城端町、平村、上平村、利賀村、井口村と西砺波郡の福光町が合併してできた新らしい市で、それ以前の住所は富山県東砺波郡福野町安居4941だった。現在でも現地に設置された看板には「福野町安居寺」と記されている。で、細野と福野は1字違いだよね。もしかしたら「越中国細野」は「越中国福野」の間違いでは? と、まあ、ワタシの〝灰色の脳細胞〟が閃いたわけだ。

 こんなインスピレーションが働いたのには、ワケがある。実はワタシはこの寺にいささかの思い入れがあって。まず、この寺には長慶天皇の御陵とされるものがあるんだよね。長慶天皇というのは、南朝の第3代天皇で、永らくその在位をめぐっては議論があった。しかし、大正15年(1926年)10月21日、晴れて皇統加列の詔書が発布され、正式に第98代天皇として公認された。そんな長慶天皇の御陵とされるものがなぜ越中に? 実は長慶天皇の御陵とされるものは全国にある。その数は70箇所以上に及ぶ。このことがまた長慶天皇を謎に満ちた存在にしているわけだけれど……ともあれ、安居寺には長慶天皇の御陵とされるものがあって、御陵を管理する安居寺では長慶天皇は元中8年3月18日に同地で崩御したと伝えており、今でも3月18日には法要が行われているという。これはねえ、南朝シンパであるワタシが思いを惹かれないはずがない。また、別の理由でもこの寺はワタシの興味をそそってやまない。実は一連の越中一向一揆の大きな分岐点になった「田屋川原の戦い」において敗れた石黒氏側が主従16人が打ち揃って腹を切るという劇的な結末を迎えたのがこの安居寺なんだよね。で、この件には安居寺と長慶天皇とのユカリも微妙なかたちで関係している。これについては「越中真宗史異聞②〜文明13年砺波郡一揆をめぐるネトウヨ的思考法による考察〜」というケッタイなタイトルの記事にざっと書いておいたので興味のある方はご一読を。ともあれ、安居寺というのはこういうなにかとエピソードの豊富な寺なんだけれど、さらに善無畏三蔵の渡来伝説まであるわけだから。善無畏三蔵って、知ってる? インド・摩伽陀国の国王で716年、玄宗統治下の唐・長安に赴いて『虚空蔵求聞持法』『大毘遮那経(大日経)』などを漢訳した。そして、735年、彼の地で99歳で亡くなった――と、ウィキペディアコトバンクが記すところを要約するならばそういうことになる。ところが、「旅々なんと」では「養老2年(718年)、インドから渡来した善無畏三蔵が、聖観音立像(国指定重要文化財)を本尊として奉安し、夏安居(げあんご)の修行を行った」。実は善無畏三蔵の渡来伝説は日本各地に伝わっているとかで、これについてはウィキペディアにも「日本渡来伝説」として記載がある。「六国史などの公的な記録には無いが」とは言うものの、さーてねえ……。ともあれ、かく由緒もあり事跡も豊富な寺ならば25歳の若き修行僧が越前国(誓願房心定は健保3年、越前国で生まれたとされている)からわざわざ足を運ぶ寺としては申し分ないのでは? 問題は、善無畏三蔵の渡来伝説が伝わっているくらいなので、同じ真言宗でも醍醐派三宝院流の流れを汲むとされる立川流とはいささか縁遠そうに思えること。でも、そんなことを言っていたら「越中国細野」の候補地がなくなってしまう――ということで、ワタシとしては「越中国細野」は「越中国福野」の間違いでその場所は現・南砺市安居(旧・福野町安居)の安居寺である――と断定するに至ったのだけれど……それは、束の間の夢(?)だった。というのも、福野町が1964年に刊行した『福野町史』をひも解いたところ「福野町の旧町はむかしの野尻郷の一部で、一面の原野であった。それゆえ、この付近は野と呼ばれていた」。え、野? ただの、野? じゃあ、福野と呼ばれるようになったのは? これがよくわかんないんだけどねえ、一応、書いてあることを書き出すなら――「文明七年(一四七五)本願寺の蓮如が杉谷(井波)へのみちすがら、富野の普願寺に休んだと伝えている。富野とは二日町のことで、福野の町立て以前はここで二の日に市が立ち、のち二日町となった。福野の地名はこの富野にはじまり、富饒になることを念願して、野に福の字をかむせたといわれる」。で、その福野の町立ては慶安2年(1649年)だというんだよね。ということは、福野という地名が誕生したのも慶安2年、ということになるのかな? いずれにしたって、これじゃあ話にならない。だって、誓願房心定が「越中国細野」を訪れたのは延応元年(1239年)のことなんだから。「越中国細野」は「越中国福野」の間違いという可能性はここにうたかたの夢と消えたのであった……。

 ただ、こういう結果になっても南砺を捨て切れない自分がいて。きっとこの辺に違いないという妙な確信みたいなものがある。そして、実は「越中国細野」は安居寺からも遠からぬ場所であることがほどなく判明するのだ。これはねえ、かつて「東武皇帝」即位説をめぐって〝あてどないペーパー・ディテクティヴ〟を繰り広げたものが知らず知らず身に着けたカンの賜物とでも言いますか……。ここで、その場所を明かそう。その場所とは、南砺市細野。え、南砺にも細野って場所があんの? なんだい、だったらカンもヘッタクレもないじゃないか。ミステリーだったら完全に「フェアプレイ」に反してるぞ……。ただ、朝日町細野と同じでこちらの細野にも真言宗の寺なんてないんだよね。「日本の神社・寺院検索サイト 八百万の神」で見つかるのは細野熊野神社という熊野権現を祀る神社と西光寺という浄土真宗のお寺だけ。だから、ここは違うだろうと、早々に候補から外していた。そういう経緯があったわけで、そこんところをご斟酌いただいて……。ただ、南砺市福野の可能性が消えた時点で、念には念を入れて南砺市細野も調べておく必要はあるかなと。で、まずは細野熊野神社について調べてみたところ、本殿は市指定文化財だとかで、さらに所蔵の聖観世音菩薩立像・薬師如来坐像・御神像・狛犬も市指定文化財。で、その由来について南砺市文化芸術アーカイブスではこう記しているのだ――「細野熊野神社は集落を見おろす閑静な小高い丘の上にあり、参道脇に真宗寺院の西光寺がある。西光寺以前は西方寺又は光源寺という真宗寺院があったといわれる。この聖観世音菩薩立像と薬師如来坐像は、西方寺との関わりのなかで、熊野神社が蔵したものであろう」。さらに解説を読み進んで行くと――「また狛犬一対は江戸中期の作である。このおかっぱのような髪形の狛犬は、朝日町清水寺の狛犬と似ている」。この最後の「朝日町清水寺の狛犬と似ている」という部分にワタシの〝灰色の脳細胞〟が反応した。実はその「朝日町清水寺」というのは真言宗の寺なのだ。ワタシは↑で「同じ朝日町の南保や境にならそれなりの格式を誇る真言宗の寺はある」と書いたのだけれど、南保にあるのがこの清水寺(読みは「せいすいじ」)なのだ。寺のHPでは「現在は高野山(こうやさん)真言宗となっていますが、昔は法相宗で、本山は奈良の薬師寺ですが、何十年か前に当時薬師寺の高田好胤管長さんから「京都の清水寺は北法相と言われているのでこちらが東法相にあたるのでしょうね」と言われたいきさつがあります」。うーん、なんとも複雑というか……。ただ、現在は高野山真言宗大同山清水寺を名乗っているようなので、ともかく真言宗のお寺には間違いないんだろう。その清水寺と細野熊野神社の狛犬が似ている……。

 なんか匂うじゃないか。ということで、さらに調査を進めていくと、ほどなく決定的な情報に遭遇することになった。実は、さるブログにこんなことが記されていたのだ――

 早朝に単独ツーリングで城端を巡っています。
 今日は細野の西光寺の奥にある細野熊野神社、拝殿と鞘堂に収まった本殿があり、本殿は南砺市指定有形文化財です。です。

 ツクバネ山系を背後に抱えるこの神社、じつは…かつては細野一帯に真言密教立川流の大寺院 西方寺(光源寺)があり、奥の院(上の宮)だった可能性があります(社宝の薬師如来坐像は南北朝期の作)。

 西光寺由緒
 住古此地ニ真言宗金谷山光源寺トイフ精舎アリシガ、元暦文治ノ頃(注:誤伝)、平家ノ残党五ケ山中ニ逃走ノ砌当時ニ泊陣セシ為メ兵燹ニ罹リ一山悉ク煙滅ニ帰セリ。然レドモ「寺の間」「大門」「鐘撞田」「弁財天」「奥ノ坊」等ノ名所今尚存在セリ。之当院ノ前身ナリ。 〈城端町史24頁より抜粋〉

 川上(加波加美)郷を一望できる標高200mのこの地に立てば、南北朝時代争奪戦の渦中にあった700年前、人々が何を信じ何を思っていたのか感じられた気がしました。

 なんと、かつては細野一帯に真言密教立川流の大寺院があったと。しかも、南砺市文化芸術アーカイブスが真宗寺院だったしている「西方寺又は光源寺」がそれに当たると……。お書きになっているのは、南砺市城端で「きよべ呉服店」を営む清部一夫氏。↑はその2020年6月11日付け「店長のきもの日記」の全文なのだけれど、いやー、よくぞ細野熊野神社に行って下さいました。そして、よくぞ『城端町史』より抜粋して下さいました。あるいはこれは、越中人の勤勉さのなせる業……? なお、念の為に書いておきますが、記載内容については『城端町史』で確認したので間違いありません。「立川流の一廃寺」と題して「真言宗の一派でも、この地に立川流が栄えたという事実は、この城端史に最も異彩を放つ一つであらねばならぬ」という書き出しで約7ページに渡って綴られた記事は、当然のことながらと言うべきか、立川流を旧来の認識に基づいて「邪教」と位置づけた上で、それが「この地に栄えた」という事実を「この城端史に最も異彩を放つ一つであらねばならぬ」――と、これは相当に言葉を選んだ書き様ではあるよねえ。多分、本当のことを言うならば、こんなことは「なかったこと」にしてしまいたい、「黒歴史」として消し去ってしまいたい――と、そんなところだったのではないか? でも、あえてそうはせず、こうして多少の戸惑いを示しつつも『町史』に書き留めた――というのは、ヒストリアンとしてのあるべき姿ではあるでしょう。そして、その姿勢は報われたのだ――と、ここは強調しておきましょう。というのも、今や真言立川流に着せられた「邪教」という汚名は彌永信美氏らの研究によって晴らされつつあるわけだけれど、彌永氏はワタシも典拠とさせていただいた講演録「いわゆる「立川流」ならびに髑髏本尊儀礼をめぐって」の最後をこう締めくくっているのだ――「最後に付け加えておきたいのは、私がこの問題にこだわってきた理由には、ある種の義憤のようなものもある、ということです。それは、仁寛を祖とした真言宗の小さな法流が、不当にも「邪流」の汚名を着せられて、現代に至るまで一種の実体を欠いた恐れの対象とされてきていることです。繰り返しになりますが、私見ではそれは「無実の罪」であり、誤りだと思います。そのことをもう一度申し上げて、私のお話を終わらせていただきます」。そうした彌永氏の姿勢は「仁寛を祖とした真言宗の小さな法流」ばかりではなく、その法流が栄えた北陸の小さな集落の名誉までも回復して見せたと言っていい。そして、そんなことが実現したのも『城端町史』の編纂者が「邪教」との関りを嫌って金谷山光源寺にまつわる史実を「なかったこと」にするのではなく、多少の戸惑いを示しつつもしっかりと書き留めていたからこそ。そのことを強調しておくのもまんざら意味のないことではないはず……。えーと、ちょっと話が逸れたかな。ともあれ、これで『受法用心集』に記された「越中国細野」とは現在の南砺市細野(旧・越中國礪波郡細野村)であるとハッキリしたわけだけれど……それはそれとしてだ、南砺市文化芸術アーカイブスの解説をワレワレはどう評価したらいいものか? 最後の「朝日町清水寺の狛犬と似ている」という一文はワタシに大いなるインスピレーションをもたらしてくれたのは間違いない。でも、それ以前にちゃんと書いてくれていたらよかったわけだから――「西光寺以前は西方寺又は光源寺という真言宗寺院があったといわれる」と。

 ただ、まあ、わかったわけだから(笑)。これは、もう、城端町史編纂委員会、南砺市ブランド戦略部文化・世界遺産課文化振興係(南砺市文化芸術アーカイブスの運営母体)、清部一夫氏、そしてワタシを加えたオール富山の成果である――と、ここはそういうことにさせてもらってもいいよね? ということで、この「越中国細野」の件はウィキペディアの記事でも注釈で説明しております。これがあるとないとじゃ記事のクオリティが全然違う。つーか、これがないとそもそもワタシがこの記事を作成する大義名分がどこにあるのかという……。



追記 いやー、マイッタ。「この最後の「朝日町清水寺の狛犬と似ている」という部分にワタシの〝灰色の脳細胞〟が反応した」――なんて、なにをエラソーに……。

 試行錯誤を経て遂に特定した「越中国細野」。その現・南砺市細野(旧・越中国礪波郡細野村)に鎮座する細野熊野神社について『城端町史』では「(略)さらに坂路を登れば熊野神社がある。比較的新しい時代の造立であるが、社宝には古いものもあり、社地の様相からも或いは西方寺の鎮守であったかとも思われる」、また南砺市文化芸術アーカイブスでも「この神社が「細野熊野神社」と呼ばれるようになったのは明治時代初期で、それまで地元では「上の宮」と呼ばれていた」としており、どうやら明治初年の神仏分離までは神社と寺は一体だったことがうかがえる。確かにかつては「神仏習合」が一般的な形態で、今では伊邪那岐神と天手力雄神を祀る雄山神社もかつては阿弥陀如来もお祀りしており、岩峅寺には立山寺、芦峅寺には中宮寺という別当寺もあった。細野の場合もそんな感じだったのだろうと、そのこと自体には納得なのだけれど、でもなんで神仏分離の結果、誕生したのが細野熊野神社だったんだろう? と。熊野神社で思い浮かぶのは熊野那智大社の例大祭(那智の火祭り)や神倉神社の例祭(御燈祭)なんですが、細野で火祭りが行われているなんて聞いたことがない。まあ、熊野神社だから火祭りをやらなければならないってわけでもないんだろうけれど、でもなんか腑に落ちない。で、そもそも熊野信仰とは何ぞや? ということでグーグルにお伺いを立てたところ、京都にある新熊野神社(読みは「いまくまのじんじゃ」。なんでも後白河上皇の命により熊野から熊野権現を勧請して建てられた神社らしい。名前はチープだけれど由緒はスゴイ)のHPに熊野信仰について噛んで含めるように教えてくれる解説が掲載されていて、その中でこう書かれているのが目に留った――「また、熊野は修験道の聖地でもあります。修験道とは、自然神信仰と密教信仰が一つになった信仰で、修験者達は熊野の山奥に分け入り、那智の滝などの自然神(山の神)の前で読経し修行した。つまり、修験道を介して神道と密教が一体となった信仰、これが熊野信仰と言われる信仰です」。なんと、熊野信仰とは「修験道を介して神道と密教が一体となった信仰」であると……。多分、これくらいのことは常識だよ、という人も世の中にはたくさんいるんだろうけれど、生憎とワタシにはそんな教養は備わっておらず。もし備わっていればおそらく「日本の神社・寺院検索サイト 八百万の神」で細野熊野神社を発見した時点で「越中国細野」はココだと見当がついたはず。だからねえ、「この最後の「朝日町清水寺の狛犬と似ている」という部分にワタシの〝灰色の脳細胞〟が反応した」――なんて、なにをエラソーに……。

 もう一コ。今度は本文に記したことの捕捉というか、ま、↑の内容だとワタシの趣味・嗜好にいささか反するところがあって……。まず、かつて細野にあったとされる金谷山光源寺(ちなみに、同寺が修験道とも関りがあったとするならば金谷山という山号も修験道の総本山とされる金峯山寺に由来するという可能性も見えてくる。こうしていろんなことが少しずつ平仄を合わせはじめるというのは、面白っちゃあ面白いんだけれど、一方でそんなの最初から気がついとけよ、という話でもあって、ま、熊野信仰の件は尾を引いている……)は彌永信美氏が言うところの「本当の立川流」だったわけだけれど、実は越中国はもう1つの立川流――彌永氏が言うところの「いわゆる「立川流」」と決して無縁だったわけではない。これは誓願房心定が著した『受法用心集』を読んだだけではわからない。『受法用心集』には「越中」という2文字は心定が37年に及ぶ修学の日々を綴る中で2度出てくるだけなので。しかし、最盛期には「豊原三千坊」とも言われた越前国の巨刹・豊原寺(現在の白山神社。明治の神仏分離により仏教とは関係を絶ち、神社として存続する道を選んだのは当地の雄山神社と同じ)の別当寺である華厳院(当然、こちらも廃寺となっている)の院主家の後裔である豊原家に伝わる『白山豊原寺縁起』を読むと、遅くとも心定が「内三部経菊蘭の口伝」を入手した建長2年(1250年)頃には越前・加賀・越中の北陸3国では「邪法」が蔓延っていたことが裏付けられる――

粤建長之比於北国邪法正法、以外法内法族、当国并近国仁令充満之間、彼上人心定強歎此事、東寺醍醐加茂高野仁多年令住寺、烈公請修法之人数、件邪法之躰具以洛陽仁令披露之處、不正法之由、天気依之則当寺仁令下向、於国中之邪法者如所存血脈印信畢、加賀越中両国者仰付五人御弟子悉被之畢

 ざっと訓み下すと――「粤(ここ)に建長の比、北国に於て邪法を以て正法と称し、外法を以て内法と号する族(やから)、当国并に近国に充満令(せし)むるの間、彼の上人心定強く此事を歎く。東寺醍醐加茂高野に多年住寺令め、公請修法の人数に烈し、件の邪法の躰つぶさに以て洛陽に披露令むるの処、正法に混る可からざるの由、天気之在るに依て、則ち当寺に下向令め、国中の邪法に於ては所存の如く血脈を絶ち印信を破らせられ畢(おわらん)ぬ。加賀越中両国は五人御弟子を仰せ付け悉く之を破らせられ畢ぬ」。ま、こんな感じでしょう(細かい間違いがあっても、気にしない気にしない)。で、これが実に面白いというか。後に越前・加賀・越中の3国には浄土真宗が深く根を下ろし、遂には南無阿弥陀仏の6字の名号を唱えて時の政治権力に挑みかかることになるわけだけれど、その同じ人たちがそのざっと250年前、真言の上人から「況や又女犯肉食を本とし、汚穢不浄を行ずる事、曽て内法にも外法にも本説なき事なり」として「内法にも非ず、外法にも非ず。只徒に奈利の業報なり。尤も是れをあはれむべし」と断罪されることになる性的儀礼を含む「邪法」に身も心も溺れていたのかと思うと……なんとも愉快じゃないか。つーかね、ワタシは一心不乱に念仏を唱えるじーさんばーさんたちというのは陰々滅々という感じがして苦手なんだよね。大体、なにが「悪人正機」かよと。一向一揆ていうのは、言うならば「善人の反乱」でしょう。まかり間違っても「悪人の反乱」という感じではない。何一つ悪いことをしたことがない、ただただ実直に生きてきました、というテイの人たちが遂に圧制に耐えきれなくなって立ち上った――みたいな建て前になっている。でも三船@菊千代に言わせればだ――「はっはー! ははーんだ! いいか、よく聞け! 百姓てのはな、ずるで、欲張りで、けちんぼで、嘘つきで、泣き虫で、盗人で、その上……人殺しだ!」。もう1つ加えるならば、助平だ! ワタシはね、『白山豊原寺縁起』を読んで、かつてこの土地の人々が「邪法」に入れあげたことがあったことを知って、嬉しくなった、と言ったら語弊があるんだろうけどね、でもそんな感じですよ。ハッキリ言って、一向一揆なんかよりもこっちの方をわが郷土の歴史として誇りたいくらい。そもそもわが郷土はあの梅原北明を生んでいる! 『秘戯指南』なんて「奈利の業報」以外の何なのかと……。