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祝『日本ハードボイルド全集』完結
(と言いつつまたこんなことを書いてしまう。許せ)

 それにしても、わからんものだ。「コルトのジョーさ。命は貰うぜ、親分!〜城戸禮と「国産ハードボイルドの嚆矢」をめぐる一考察〜」を書いた当時、ワタシは城戸禮という作家のことをほとんど知らなかった。それが今や『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」に城戸禮が入っていないといって一悶着起そうかという勢いで(といっても、別に何もするつもりはないんだけどね、この記事を書く以外は)。一体、いつの間にオレはこれほどの城戸禮推しになったんだ? そもそも、城戸禮が『青春タイムス』に書いていた「現代仁侠小説」(「愛慾の弾痕」が『青春タイムス』1950年8月号に掲載された際に冠せられた角書き)って、それほどのモノか……?

 まあ、ここで正直なことを言えば、本来、城戸禮というのは『日本ハードボイルド全集』に収録されるような作家ではないんですよ。むしろ、この作家は、戦前、好んで書いていた海外を舞台とするエキゾチックな探偵小説や秘境探検小説にこそ見るべきものがある。それに比べれば『青春タイムス』に書いていた「現代仁侠小説」なんてイマジネーションにおいてはるかに劣ると言うべき。つーかさ、今やワタシの城戸禮についての認識はそこまで行っているということで。今さら「愛慾の弾痕」がどうとか「悲恋拳銃無宿」がどうとか、正直、どーでもいいんですよ。ただ、今回、こうして『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」を入手して、そのラインナップを一瞥して、いわゆるカストリ雑誌に掲載された小説が1作も入っていないというのはいかがなものかと。だって、もし『米国ハードボイルド全集』なるものがあったとして、そこにパルプマガジンに掲載された小説が1作も入っていないとしたらおかしいでしょう。それはさ、ハードボイルドなるものの成り立ちを考えたって、ありえないことですよ。それと同じようなリクツが『日本ハードボイルド全集』にも当てはまるとするならば、やはりカストリ雑誌に掲載された小説が、最低、1作は入っていなきゃ。その場合、城戸禮というのはいい選択肢だと思うんだよ。カストリ雑誌に書いていたにしては、それなりに〝身元〟は確かだし。つーかさ、デビューは『新青年』なんだから。しかも、水谷準が編集長だった時代の。あのモダニズム華やかなりし。加えて、赤木圭一郎主演の『拳銃無頼帖』シリーズの原作者という知名度もある(この際、ワタシが知らなかったことはワキに置いておく)。また、そんな作家が、戦後の一時期、カストリ雑誌にこんな小説を書き殴っていた、というドラマ性もね。そして、これが決め手となるわけだけれど、そんな作品を掲載することは、アメリカのハードボイルドがパルプマガジンから生まれてきたように、日本のハードボイルドはカストリ雑誌から生れてきた、ということ(ま、歴史のアナロジーというやつかな)の格好のデモンストレーションになりうるじゃないか。もうね、いいこと尽くめですよ。そのチャンスを逸したというのは、正直、もったいないなあ、と。

 でだ、もしワタシが『日本ハードボイルド全集』の編者だったら、ということで、城戸禮が1949年から1952年にかけて『青春タイムス』に書いた小説の中から第7巻「傑作集」への収録作品を選定するなら、やはり第一候補は「悲恋拳銃無宿」(1951年7月号)ということになるだろう。これが後の『日本拳銃無宿』(『拳銃無頼帖』シリーズの第1作『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』の原作)につながるわけだから。あと「急襲東京麻薬街」(1951年4月号)も候補にはなりうるかな。これ、いわゆるGメンものなんだよね。もしかしたら、その最初期のものかもしれない(1947年から1948年にかけてその名も『Gメン』なる雑誌が刊行されていたようですが、山前譲編『探偵雑誌目次総覧』によれば「当初の『Gメン』は防犯を強く意識した編集で、終戦直後の混乱期らしい雑誌である。ルパン物が連載されるなど、しだいに探偵小説中心となり、『X』と改題した第3巻からは、よりスリルと怪奇を中心とした雑誌となった」。目次を見た限りでもそんな感じで、これで『Gメン』とは「看板に偽りあり」としか……)。惜しいのは「夜の女豹」(1950年7月号)で、主人公は牧信輔という新聞記者なんだけれど、47ページの挿し絵(閲覧には国立国会図書館の利用者登録とログインが必要)に描かれたその姿は完全に私立探偵ですよ。また「銀座のドンファン」と渾名されるキャラクターもいわゆる軽ハードボイルドの主人公の要件を十分に満たしている。ただ後半がドロドロでとてもハードボイルドとは言えなくなる……。一方、「傑作集」の収録作品としてはどうかと思うけれど、「ラク町女族」(1951年1月号)は一種のスケバン小説とでもいうか、田中小実昌の「上野娼妓隊」にちょっと似ている。いや、飛び交う卑語の活きの良さはこっちの方が上かも知れないよ。同じ時代、アメリカで盛んに書かれた(読まれた)非行少年小説の日本版という見立てもできそうで、捨て去るのがちょっと惜しい……と、そんなこんなで、なかなか迷うところではあるんだけれど(なるほど、やっぱりオレはこの作家を買ってるんだなあ。『日本ハードボイルド全集』に収録されるような作家ではないとか、イマジネーションにおいてはるかに劣るとか書いておいて、結局のところはこうして持ち上げているわけだから……)、ここは思い切って「女體の罠」(1949年8月号)と行こう。実はこれが城戸禮が『青春タイムス』に寄稿した最初の作品。城戸禮のハードボイルド作家としてのデビューを1949年まで前倒しできるのならば、それこそ大坪砂男とも全く遜色がない、ということになる。もっとも「女體の罠」の主人公(ジミーこと濱田譲二)は色事師で探偵でもなければギャングでもない。ろくなアクションシーンもない(田中小実昌曰く「がたがたアクションなんてハードボイルドじゃない」)。しかし、それでもこれが『日本ハードボイルド全集』第7巻「傑作集」の収録作品に値する(とワタシが思う)理由は主人公の冷酷な人物造形と最後にその主人公を見舞う結果の非情さにある。実はこの「愛慾小説」(「女體の罠」に冠せられた角書き)では最後に主人公が女(クララ)に復讐されて終るんだよ。こういう女をさ、ハードボイルドの世界ではファム・ファタールと呼ぶわけだけれど、よもやカストリ雑誌でこんな魅惑的な〝お女性〟に出会おうとは……。完全なるネタバレにはなりますが、ま、ネタバレとは読む(見る)つもりでいる人の愉しみスポイルすることで、この小説にはそんな配慮は無用だろうと判断してここは結末部分を紹介するなら(一部、文章におかしなところがありますが、すべて原文のままとします)――

『歸るわ』
『えつ、歸る?』
『女への惡魔、「色事師ジミー」なんて、バカな女どもが大騷ぎするから、どんなに大した男かと思つて、ちよいと遊んでみたら、聞くと見るとは大違い。あんまり、だらしがなさ過ぎて、愛想が盡きたのよ』
 くつくつと面白そうに笑つた。
『尤も、隨分前の事だけど、あたしも、そのバカな女の一人、あんたに抱かれて泣いた事もあつたんだけれど……』
『えツクララ、お前が?』
 初耳だ。この女と以前寢た事がある……全然記憶にない。
『覺えてない?。そうでしようね。女體遍歷の猛者のあんだですものね。ちよつと物語めくけれど、そうねえあれから、四年や五年になるかしら?。あんたに處女を捧げたバカな女が居たのよ』
『え、それはクララ、何處でなんだ?』
『新橋の「パピヨン」』
『パピヨン』
 記憶の糸を目まぐるしく、手繰つた。
『あツ、そうか、あの女?』
 名は忘れた。しかし、身を投げ出した女を知らず征服してみて、處女と初めて知つた。その頃は、ジミーもまだ若かつた。しかし、その女の面影のかけらすら、このクララからは感じられない。
『想い出したわね。泣いてすがつて追いかけた女を、無情にあなたは棄てた。俺を喘ぎ狂わせる女になれたら、相手にしてやるよ……これが、あんたの最後のセリフを純情のその女が心に固く決心したの。あんたを敗かす女あんたを征服する女……になつてやろうとね。そうしてたつた今、あんたを立派に敗かし征服したのよ』
『クララ、判つた。歸るな。待つてくれ』
『いいえ、歸るわお氣の毒だけど、征服され泣き聲をあげた男には、あたしの方で用がないのよ。これ上げるわ』
 ぽんと膝の上に、分厚い札束が飛んで來た。
『何んだ?。これは?』
『サービス代。體軀を借りた御禮をするのは、あたしの信條なのよ。ほつほつほつ』
 きらりと皓い齒を見せると、妖しい夜鳥の鳴聲を想わせる笑い聲を殘して、ひらりと扉の蔭にクララは消えた。
 じーんと耳の底に殘るその笑い聲を、隱しようのない慘めな敗北感のうちに、ジミーはしみじみと噛みしめたのだつた。

 このクララが女スパイに化けると中田耕治の『真昼に別れの接吻を』や大藪春彦の「女豹シリーズ」になる、と言ったら言いすぎだろうか? しかし、最後に主人公を見舞う非情さは十分にハードボイルドですよ。どんなもんでしょう、世のハードボイルド通の皆さま……?



 ところで、本文でワタシは「むしろ、この作家は、戦前、好んで書いていた海外を舞台とするエキゾチックな探偵小説や秘境探検小説にこそ見るべきものがある」と書いたわけだけれど、実はこれは少し問題があってね。もしかしたら、それらの作品は城戸禮が書いたものではないかも知れないのだ。この件についてはウィキペディアの「城戸禮」にも「城戸禮と城田シュレーダー」として書いたんだけれど、改めてその要点を記すなら――城戸禮が城戸シュレイダー名義でデビューしたのは1931年のこと。デビュー作の「決闘」は『新青年』1931年2月号に「新人十二ケ月ノ二」(「新人十二ケ月」と題した企画の第2弾)として掲載された。ところが、その後、城戸シュレイダーは『新青年』の常連作家となったかというと――なっていない。なんと、城戸禮が城戸シュレイダー名義で『新青年』に寄稿した作品は「決闘」のみ。いや、『新青年』ばかりではなく、同時代に発行された他の探偵雑誌にも城戸シュレイダー名義で発表された作品はない(もっとも、調査は専ら『探偵雑誌目次総覧』に依存しており、同書がカバーしていない雑誌については断言できない。だから、ここは慎重を期して、『探偵雑誌目次総覧』がカバーする探偵雑誌には、としておきますが……まあ、多分、間違いないでしょう)。一方、城戸禮が城戸シュレイダー名義でデビューしたのと同じ時期に『探偵』『犯罪実話』『犯罪公論』などの〝エログロ犯罪雑誌〟に海外を舞台とするエキゾチックな探偵小説や秘境探検小説を書いていた城田シュレーダーという作家がいた。この城田シュレーダーについてミステリー文学資料館編『幻の探偵雑誌⑨「探偵」傑作選』(光文社文庫)では「確認はされていないが、戦後、大衆小説作家として活躍した城戸禮と同一人物と思われる」としている。しかし、大衆文学研究家で『城戸禮 人と作品』という著書もある末永昭二氏はそれを「妥当な線」としつつも一方で別人説も棄て切れずにいた。その理由は、城戸禮名義で発表された後の作品(とは↑で紹介したような「愛慾小説」のことではなく、『新青年』1938年12月号に発表した「防共結婚行進曲」のようなユーモア小説のこと。戦後、貸本作家として再出発した城戸禮が最初に手がけたのもユーモア小説だった)と城田シュレーダー名義の作品では「まったくと言っていいほどテーマや文体が違う」こと。それやこれやで「彼らは同一人物ではないかもしれない!」と(以上は末永氏が『彷書月刊』2002年2月号に寄稿した「昭和出版街第九回 城田シュレーダーとはナニモノなのか?(上)――城戸礼と城田シュレーダー」より)。そんな末永氏の元に耳寄りな情報が寄せられる。戦前、大日社なる出版社から刊行されていた『大日』なる雑誌の1934年7月下旬号に「愛する母國日本の爲に――日本人を母に持つ一獨逸人の遺著――」(閲覧には国立国会図書館の利用者登録とログインが必要)と題された記事が掲載されており、著者の名は「シドニー・シユレダー」。また、記事の冒頭には大島盛一なる人物による解説が付されており――「本稿の筆若〔ママ〕シドニー・シユレダー氏は父を獨逸人、母を日本人として日本に生れ、日本の敎育を受け、長じて法政大學に學び、世界近世史殊に獨逸及び日本近代史の造詣深く、史家として世に立つべく專念硏鑽しつゝあつたが、不幸にも昨秋二十九の壯齡で病魔の爲に斃れた。本篇は其の遺著である」。実は城戸シュレイダーはデビュー作「決闘」が掲載された『新青年』1931年2月号の編集後記で「作者シユレイダー氏は独逸のかたださうである」と紹介されていた。また末永氏によれば「城田作品は、基本的に「城田青年」が主人公(語り手)である。城田青年は日独の混血児(父がユダヤ系ドイツ人)で、ケンブリッジ大学を卒業したインテリだが、病弱で厭世的なので外出ができず、他人から聞いた話を小説にしているという設定である」。これには末永氏ならずとも「偶然の暗合にしては気味が悪いほどだ」(まあ、法政大学とケンブリッジ大学じゃちょっとアレだけどね、と法政OBのワタシが)。さらに城田シュレーダー名義で発表された最初の作品は『探偵』1931年9月号の「宝石師」で、末永氏の調査によれば、その後、『犯罪公論』1933年12月号の「横浜狒々御殿」まで27作品が確認できるという。しかし、「昭和九年以降、シュレーダーは忽然と姿を消す」。シドニー・シユレダーが亡くなったのは1933年(昭和8年)秋とされるので、シドニー・シユレダーこそは城田シュレーダーと考えるならば、1934年(昭和9年)以降、城田シュレーダー名義の作品が書かれていないことの説明はつく(以上は末永氏が『彷書月刊』2002年3月号に寄稿した「昭和出版街第十回 城田シュレーダーとはナニモノなのか?(下)――シュレーダーがいっぱい」より)。ただ、そうなると、城戸禮と城田シュレーダーは別人ということになるわけだけれど、城戸禮が城戸シュレイダー名義でデビューしたのも1931年。同じ年に全くの別人がわずか一字違いのペンネームでデビューすることの不自然さを考えるならば別人説は説得力を欠く状況で、末永氏は「城戸とシドニーがどこかで出会っていて、何らかのかたちで協力関係を築いていたのだとしたら……」としているものの、それを裏付けるには至っていないという。

 ――と、ワタシがウィキペディアに書いたのはここまで。その後、末永氏の方で何らかの進展があったのかどうかは承知しておりません。ただ、考え方の方向性みたいなものは大体見えているんじゃないかな? ポイントは、2つ。末永氏が言うように2人が「何らかのかたちで協力関係を築いていた」として(たとえば、2人がフレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーのような関係にあったとか)、問題となるのは①城戸シュレイダー名義で晴れてデビューを果たしながら(あの当時の『新青年』でデビューを果たすというのは相当に晴れがましい出来事ではあったはず)その年の内に城田シュレーダーと改名したのはなぜか?②1933年を以て忽然と姿を消した城田シュレーダーが1938年になって執筆活動を再開するに当たってデビュー当時のペンネームに由来する城戸禮と名乗ったのはなぜか? この2つの「なぜ」に対し苟も探小読みを自認するものならばおそらくは10人が10人、同じ答を出すはず。すなわち、城戸シュレイダーは上原曻(城戸禮の本名)とシドニー・シユレダーの共同ペンネームで城田シュレーダーはシドニー・シユレダーの単独ペンネーム――。これならば末永氏が指摘する「(城戸禮名義で発表された後の作品と城田シュレーダー名義の作品では)まったくと言っていいほどテーマや文体が違う」という謎も説明ができるし、1938年になって執筆活動を再開するに当たってデビュー当時のペンネームに由来する城戸禮と名乗った理由も説明がつく(城戸シュレイダーが上原曻とシドニー・シユレダーの共同ペンネームなら彼が城戸禮と名乗る資格はあるけれど、城田シュレーダーはシドニー・シユレダーの単独ペンネームなのだから彼に城田禮と名乗る資格はない)。

 ということで、ワタシ的にはこれで間違いないとは思うんだけれど(もっとも、こんなこと、ウィキペディアには書けません。だからここで書いた、という側面は確かにある……)、1つわかんないのは、こうした〝真相〟を城戸禮は最後まで明かすことがなかったんだよね。ワタシが城戸禮ならばいずれかのタイミングで明かすけどなあ。そして、シドニー・シユレダーという人知れず亡くなった友人のことを知ってもらおうとするだろう。そうしたことを城戸禮がしなかったというのがどうも腑に落ちない。あるいはここはこの記事の趣旨に則ってこう言うべきなのだろうか? この城戸禮(城戸シュレイダー)と城田シュレーダーにまつわる憶測に最後まで沈黙を貫き通した彼こそは言葉の真の意味でハードボイルドであると……?