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そして今日もハードボイルド小説を読んでいる③

 まあ、そう簡単に見つかるものではないとは思っているけれど、なかなか出てきませんねえ。どんな稀覯本よりも、実はこういうのがいちばん手に入りにくかったりして……。

 さて、夏文彦が自作の発表媒体とした〝エロ雑誌〟に『ザ・ベストマガジン』がある。ベストセラーズ社発行の月刊誌で、夏の「女戦士」シリーズ第4作『女戦士 エロスの煉獄』は『ザ・ベストマガジン』に連載されたもの(こちらは連載第1回が掲載された1988年7月号)。この雑誌には北方謙三が「男はハードボイルド」なる語り下ろしエッセイを連載していたこともあるし(1985年、ベストセラーズ社より「ワニの本」として書籍化)、船戸与一が対談のホストを務めていたこともある(1994年、ベストセラーズ社より『諸士乱想:トーク・セッション18』として書籍化)。さらには、創刊以来、山下諭一が「ホット・ノベルス」と題した書評コラムを連載――と、同誌はハードボイルドともなかなかに親和性の高い雑誌だった言っていい。そんな雑誌なんだから、夏文彦が自作の発表媒体とするのも何の不思議もない――と話は転がって行きそうなものなんだけれど、少しばかり事情が違っていて。というのも『女戦士 エロスの煉獄』はハードボイルドではないのだ。連載時点で「読切りバイオレンス」と銘打たれていたし、ベストセラー・ノベルスとして書籍化された際も「凌辱と復讐のバイオレンス小説」と謳われていた。そう、これぞ「バイオレンス小説」というやつなのだ。

新宿濁流

 で、『ザ・ベストマガジン』には他にも「バイオレンス小説」が連載されていたことがあって、谷恒生の『新宿濁流』もそう。谷恒生が1991年に立ち上げた「警視庁歌舞伎町分室」シリーズの1作(ワタシがカウントしたところ、第8作に当たる)で、『ザ・ベストマガジン』1992年2月号から1993年3月号まで断続的に連載された(こちらは連載第1回が掲載された1992年2月号)。この『新宿濁流』もベストセラー・ノベルスとして書籍化された際には「バイオレンス・ハードエロチカ」と謳われおり、やはり正真正銘の「バイオレンス小説」ということになる。そもそも谷恒生という人は『魍魎伝説』によって「伝奇バイオレンス」というジャンルを創始したとされており、あの当時の「伝奇バイオレンス」ブームなるものの中心人物だったという位置付けも可能。「警視庁歌舞伎町分室」シリーズなんてのはそんな谷恒生が「伝奇バイオレンス」で培ったスキルを注ぎ込んで大沢在昌に一泡吹かせようと立ち上げたもの――というのは、文芸ジャーナリズムの認知するところとはなっていないと思うので、軽ーく受け流していただいて結構です。ともあれ、『ザ・ベストマガジン』には夏文彦の「凌辱と復讐のバイオレンス小説」に加えて、谷恒生の「バイオレンス・ハードエロチカ」も載っていたということであり、ここで1つの感慨めいたことを述べるなら――純然たるハードボイルド小説(ただし「通俗ハードボイルド」と呼ばれる相当の変わり種ではあったけどね)が男の欲望の副食の用を為していた『ユーモア画報』の時代から下ること30年。男の欲望の副食の用を為すのはハードボイルド小説から「バイオレンス小説」に変わっていた……

 と、まずこんなことを書いた上で――その夏文彦と谷恒生なんだけどね、実は彼らはある種の盟友関係にあったと言っていい。谷恒生の作家キャリアの振り出しが海洋冒険小説であったことは拙サイトの読者ならご存知だと思いますが、その実質的なデビュー作に当たるのが『喜望峰』と『マラッカ海峡』(それ以前に『野性時代』新人文学賞佳作となった「冬の前線」などがある)。新人でありながら2作同時刊行というド派手なデビューを果たしたこの〝快挙〟に大いに刺激を受けたのが夏文彦で、2人の縁結びの神のような役割を果たした原田芳雄(谷が東北沢の原田の家に頻繁に出入りする一方、夏は一時期、原田のマネージャーを務めていた)が語るところによれば――「彼がまだ船に乗っている頃で、小説書く前ですけど、よく家にも来ていて、しばらくして『喜望峰』書いたあたりでばったりトミイと出会ってしまうんです。『喜望峰』と『マラッカ海峡』の処女作が両方ともいきなり直木賞の候補に残っちゃった(引用者注:厳密には直木賞候補となったのは『喜望峰』だけで、翌年、それとは別に『ホーン岬』が候補となっている)。彼の刺激はトミイにはすごくありましたね」(『映画芸術』1993年4月号の「対談・夏文彦追悼 映画のタイトルが、遺言だった」より)。なんでも井家上隆幸(夏の映画論集『映画・挑発と遊撃』の編集者で原田の対談相手)によれば夏にはもともと小説家志望があったそうなんだけれど、その前に新人でありながら2作同時刊行というド派手なデビューを果たした人物が現れたんですよ。そりゃあ刺激にもなるでしょう。一方で谷にとっても夏は頼れる相棒だったようで、『マラッカ海峡』が集英社文庫から文庫化された際、解説の役を割り振ったのが夏文彦(ちなみに『マラッカ海峡』に先だって文庫化された『喜望峰』の解説は北上次郎に振られている。実はこちらも谷恒生とは浅からぬ縁があった。なにしろ、谷が北上の結婚式に出席する一方、北上は谷の自宅に泊まったこともあるってんだから。詳しくは北上の著書『書評稼業四十年』参照)。で、解説の役を仰せつかった夏はというと――「仕事部屋の机の上に『喜望峰』から『錆びた波止場』までの、八冊の本を置いてみる。谷恒生の、1977年春から80年夏にかけての、三年間の仕事ぶりが、留守番電話のセットに拮抗する、小さな山になっているのを見るのは良い気分だ」「『マラッカ海峡』と共に、KKベストセラーズから刊行された『喜望峰』には、原田芳雄と中村敦夫という、二人の俳優が推せん文を寄せており、ぼくは、谷との共通の友人である原田芳雄宅で、さり気なく置かれていた校正刷に眼を通す機会を得たのだ。/それ以降、谷恒生の作家としての歩みをつぶさに見てきたぼくには、改めて並べてみた八冊の本が、小さな山を築いている事実に、感嘆せずにはいられない。谷恒生は頑張ったな、と思うのだ」。もうこれは「解説」というよりも1人の友人としての谷のこの3年間の頑張りに対する「慰労」だよね。そして、結果としては同作に対するまたとない「解説」になっているという……。

 そんな夏文彦は(おそらくは谷恒生に背中を押されるかたちで)自らも創作に乗り出す。そして『喜望峰』『マラッカ海峡』の刊行よりも少しだけ早い1976年10月、『新学期だ、麻薬を捨てろ』で小説家デビューを果たすことになる(谷のデビューは「2冊同時刊行」というベストセラーズ社が打ち出した破天荒なプロモーション戦略のため、2作目の『マラッカ海峡』の脱稿まで1年以上繰り延べされた。結果、夏のデビューの方が早くなった)。で、大事なのはこっからで。実は、その後の2人の〝人生航路〟を検証してみると、ははあ、お互いに意識しあっているなあ、と。そんな印象を禁じ得ないんだよね――。デビュー以来、良質な海洋冒険小説を書きつづけていた谷恒生が突如として「伝奇バイオレンス」などという脂っこい(?)ジャンルに舵を切ったのは1982年のこと。その2年後、夏文彦はそれまで取り組んでいたジュブナイル小説に見切りをつけて「女戦士」シリーズを書き始める。同シリーズには伝奇的要素は認められないものの(ただし「女戦士」が右の乳房を切除しているという設定はギリシャ神話のアマゾネス伝説に依拠しており、作中には襲撃者の右の乳房がないことを知った男が「アマゾネスだ」と口走るシーンもある)、夏文彦が『魍魎伝説』に刺激を受けて「女戦士」シリーズを着想した、という可能性は十分にあり得るのでは? 一方、谷恒生が夏文彦に刺激を受けたと思われる側面もあって、1981年、夏はそれまでの東京暮し――というか、実態としては新宿暮らしかな?――を清算し、岐阜県大野郡清見村に移住している。なんでも人形製作をしている女性が同伴していたとかで、原田芳雄によれば「岐阜時代は束の間のハネムーンというか、トミイが一番生活上の充実感があった時期ですね」「岐阜だけで終わったんですけど、彼女も人形製作の製作意欲が旺盛な時期で、トミイも小説を書こうと思っていたから、そういう二人なら一緒に住めると思ったみたい。彼は世俗的な関係をはねのけている人だったから」。で、この4年後、今度は谷恒生が栃木県黒磯市に移住している。谷が1995年に上梓した『カッコウの啼く那須高原の森陰から』ではその理由について「子供が二歳になり、カミさんにもう一人できると、やはり、環境のよいところに住まいを移そうと私なりに考えはじめた」――と、ずいぶん小市民的な説明をしておりますが、本当のところはどうか? ちなみに同書には東京時代の仲間に思いを馳せたこんな一節もある――「ゴールデン街に足をはこんでいたころを想うと、なんとなくほろにがい。/「マエダ」のママが死に、薔薇のトミイが死に、「黄金時代」のおみっちゃんはブラジルに行って、東京に戻り、いまでは伊豆大島に住んでいる。私を拾いあげてくれた編集者のテンコは、私の下の娘とおない年の娘さんをかかえて頑張っている」。ちょっとした〝東京战争戦後秘話〟ですよ。いずれにしても、夏文彦も谷恒生も(それから「「黄金時代」のおみっちゃん」も)ただ「環境のよいところ」をめざして東京を脱け出したんではないと思うけどなあ。〈東京脱出〉は1970年代のシュトゥルム・ウント・ドラングを経験したもののある程度共通した感情ではあったし……。

 ――と、夏文彦と谷恒生の関係は概ねこんな感じだったわけだけれど、そんな2人が相前後して『ザ・ベストマガジン』で「バイオレンス小説」を連載することになるわけだね。で、ここでぜひ着目してもらいたい事実がある。それは、「薔薇のトミイ」こと夏文彦が死んだのは、まさに谷恒生が『ザ・ベストマガジン』に『新宿濁流』を連載していた最中だったこと。日付は、1992年8月25日。死因は、夏の死後に追悼出版された『ロング・グッドバイ』巻末の「冨田幹雄(夏文彦)年譜」によれば「分化度の高い扁平上皮癌」。夏は1986年6月に高山赤十字病院で舌部歯肉腫瘍手術を受けて以来、癌との闘病をつづけており、1987年4月には癌研究会附属病院(現・がん研究会有明病院)で10時間に及ぶ中咽頭腫瘍手術も受けている。そうした壮絶な闘病の果ての48歳の死だった(ちなみに最期を看取ったのは原田芳雄だった。これがなんとも悲痛でねえ――「最後の三〇分前に書いた原稿があって、映画の企画の題名が書いてあるんだけど、それが読めない。企画、芳雄まで読めるんだけど、最後はそれを書いて三〇分……」)。

 この死が谷恒生に及ぼした影響というものをどうしたって考えざるを得ない。そりゃあ、ねえ、人という生き物のコトワリとして、影響がないなんてことはありえませんよ。で、そういう目で谷のビブリオグラフィを検証すると、1992年から93年あたりを分岐点として創作活動に重大な変化があったことが見て取れる。まず「警視庁歌舞伎町分室」シリーズは一見したところ間断なく書きつづけられているように見えるのだけれど、実は1993年4月に刊行された『新宿濁流』と1997年12月に刊行された『処刑警視』の間には4年近いインターバルがある(ウィキペディアのビブリオグラフィだとわかりにくいと思うので、こちらでご確認いただければ。ワタシが国立国会図書館のデータなどを元に全26作を刊行順に並べたリストです。なお、2004年2月刊行の『淫鬼』は死後の刊行ということになる)。それまではほぼ間断なく書きつづけていたような塩梅だったのだけれど……。また1980年代の「伝奇バイオレンス」ブームを牽引した伝奇小説の分野でも1992年刊行の『紀・三国志』以降、長い沈黙状態に入っており、再び谷がこの分野に手をつけるのは2000年になってから。さらに谷の本来のお家芸であるべき冒険小説の分野では1991年刊行の『スフィンクスの涙』を最後に事実上の断筆状態……。その一方で谷は1993年を起点として猛烈な勢いで架空戦記ものを書きはじめており、2000年までの7年間に積み上げられた総刊行点数は43冊を数える。しかも、その文体たるや、相当に〝個性的〟だったようで、曰く「「ガガーン!! ガガーン!! ガガーン!!」「ダダダダダダダダダ」といった大量の擬音で行数を稼ぐ作風」(アニヲタWiki(仮))。んでもって「擬音の谷」なる異名も頂戴したっていうんだけれど……これには戸惑いを覚えざるを得ない。かつては直木賞候補にも擬せられた作家が……。ここはどうしたって「自暴自棄」というような言葉も思い浮かんでしまいますですよ。

「警視庁歌舞伎町分室」シリーズ

  • ◦『警視庁歌舞伎町分室』徳間書店 1991.8
  • ◦『新宿地獄』勁文社 1992.2
  • ◦『魔女と復讐鬼』徳間書店 1992.3
  • ◦『新宿魔界』勁文社 1992.7
  • ◦『警視ムラマサ』祥伝社 1992.7
  • ◦『三国志の殺人』徳間書店 1992.10
  • ◦『新宿野獣』勁文社 1993.2
  • ◦『新宿濁流』ベストセラーズ 1993.4
  • ◦『処刑警視』祥伝社 1997.12
  • ◦『刺客邪骨道人』徳間書店 1998.7
  • ◦『魔性の肌の復讐』徳間書店 1998.8
  • ◦『地獄の華』徳間書店 1998.10
  • ◦『香港マフィア13K』徳間書店 1998.11
  • ◦『黒魔術師』徳間書店 1999.1
  • ◦『鬼畜の群れ』徳間書店 1999.4
  • ◦『新宿魔黒』勁文社 1999.7
  • ◦『新宿魔獣』勁文社 1999.11
  • ◦『新宿暴力街』勁文社 2000.3
  • ◦『新宿復讐街』勁文社 2000.6
  • ◦『新宿我狼街』勁文社 2000.9
  • ◦『闇呪』徳間書店 2000.12
  • ◦『新宿暴虐街』勁文社 2001.2
  • ◦『新宿砂楼街』勁文社 2001.7
  • ◦『新宿・傷だらけの野獣』勁文社 2001.11
  • ◦『新宿・地獄の殺人者』勁文社 2002.4
  • ◦『淫鬼』徳間文庫 2004.2

 でね、やっぱりこたえたんだと思うんだよ。もうしたたかに打ちすえられたんだよ。そして、それまで通りの創作活動はできなくなった……。そう考えるなら、「擬音の谷」もあながち批判できないなあ……。ただ、読むんなら、1992年までに書かれたものだと思う。夏文彦に刺激を与え、夏文彦からも刺激を受けて創作活動が続けられた時代――、それは、谷恒生が谷恒生であった時代、でもある――。いずれにしたって、人というのは、人の死にしたたかに打ちすえられる生き物なんだよ。そのことを、今、わが身のカラダで感じつつ……。