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そして今日もハードボイルド小説を読んでいる⑤

 今頃になって、じんわりと来たな、「喪失感」てやつが。
 母のお骨は、家に在る、今はまだ。しかし、3月24日に予定されている骨送りが終わったら……。その前に、家を出ようか、母のお骨を持って――。そんなストーリーを思い描いてみる……。


 西村寿行は、鬼子だった。「西村「ハードロマン」の特徴は「激情」であって、「非情」を旨とするハードボイルドとは明らかに「宗旨が違う」」――、「そして今日もハードボイルド小説を読んでいる④」ではそう書いたが、しかしここになんともアイロニカルな事実があって。西村寿行は生島治郎にすすめられて『君よ憤怒の河を渉れ』を書いたというのだ――「『君よ憤怒の河を渉れ』を書こうと思いたったのは、去年の五月であった。そのしばらく前に生島治郎さんにお目にかかったとき、冒険小説を書いたらどうかとすすめられていた」(トクマ・ノベルズ版『君よ憤怒の河を渉れ』あとがき)。それまで『安楽死』『屍海峡』のような社会派ミステリ(と見なされる作品)を書いていた寿行が、今、ワレワレが知る「西村寿行」へと変貌を遂げていくことになる、そのさきがけとなったのが『君よ憤怒の河を渉れ』であり、かつその『君よ憤怒の河を渉れ』は冒険小説でありながらハードボイルドとしてのテイストも多分に合わせ持っていた。たとえば、北海道での杜丘冬人と矢村警部の会話。この時、矢村は羆に襲われ、間一髪で救ってくれたのが杜丘だった。要するに2人の間には「貸し/借り」が生じていたわけだけれど、そういう状況で「おれが横路加代を殺したと思っているのか」と問う杜丘に矢村は「ああ」と答えた上で「しかし、そのことについては何もいうな。いまはフェアな立場ではない。いずれ、逮捕したときに訊く」。もうほとんど志田司郎ですよ。こうした志田司郎タイプの人物は他の寿行作品にも登場する。『化石の荒野』の主人公・仁科草介なんて正にそうだし、『娘よ、涯なき地に我を誘え』の副主人公・小西友永だってそうでしょう(実は『君よ憤怒の河を渉れ』には主人公の杜丘冬人がこんな台詞を吐く場面がある――「追い詰めてやる」。これなんて明らかに『追いつめる』へのオマージュですよね)。だからね、社会派ミステリから路線転換して暫くの間、西村寿行は生島治郎の影響下にあった、とも言えるんですよ。しかし、そんな西村寿行はほどなく徳間書店によって「ハードロマン」と名付けられることになるきわめて特異な小説世界の王となる。で、その「ハードロマン」を特徴づけるものは何かといえば、それは「激情」でしょう。ちなみに、これは寿行の元担当編集者が語っていることなんだけれど――「あるとき原稿を見たら、涙の跡がポタポタあるわけ。ああ、きっと泣きながら書いていたんだなって。感情移入が激しすぎるくらいの人だから」(『本の雑誌』2018年7月号の「ぶっちゃけ座談会:寿行番編集者大いに語る」より)。感移入がしすぎるってんだから、正に「激情」ですよ。で、そんな「激情」が迸る「ハードロマン」は「非情」を旨とするハードボイルドとは明らかに「宗旨が違う」――と「そして今日もハードボイルド小説を読んでいる④」の記載へとつながるわけだけれど、でも社会派ミステリから路線転換して暫くの間、西村寿行は生島治郎の影響下にあった。それを思うと、なんともアイロニカルと言わざるを得ない――。

 私見によれば、1967年に生島治郎が『追いつめる』で直木賞を受賞して以来、わが国のハードボイルドが曲がりなりも享受してきた文芸ジャーナリズムにおける認知度向上というモーメンタムは西村「ハードロマン」の爆発的なヒットによって完全に過去のものとなったと言っていい。実際、かつてならば「ハードボイルド」の商標で売り出されていたはずの本も「ハードロマン」というレッテルを貼り付けて売り出されるようになる。その中には、なんと、生島治郎の本も! これねえ、生島ファンとしてはなかなかつらいものがありますよ。そもそも『砕かれる』はどう斜め読みしたところで「ハードロマン」ではない。しかし、「ハードロマン」と謳った方が売れる、という判断が出版社サイドにあったんだろうね。結局、ニッポン人はハードボイルドの「非情」ではなく「ハードロマン」の「激情」を選んだ、ということであって、それが(本の売り上げというかたちで)明らかとなった以上、もう文芸ジャーナリズムはハードボイルドに見向きもしない。だからね、わが国のハードボイルドは西村寿行によってコロされた、と言えなくもないんですよ。生島治郎にすすめられて『君よ憤怒の河を渉れ』を書き、暫くは生島治郎の影響下にあった西村寿行によって――。西村寿行は、鬼子だった――というのはそういうことであって……。

上海無宿

 さて、その生島治郎なんだけどね。最近、うれしいことがあって。1995年に中央公論社から刊行された『上海無宿』がプリント・オン・デマンドというかたちで復活したのだ(→)。今や生島治郎の本で新刊として入手できるのは2020年刊行の『頭の中の昏い唄』(竹書房文庫)、2021年刊行の『日本ハードボイルド全集 1 死者だけが血を流す/淋しがりやのキング』(創元推理文庫)以外だと『浪漫疾風録』(中公文庫)くらいしかないのでは? そんな中、『上海無宿』がプリント・オン・デマンドというかたちではあれ復活したのだ。これは慶事ですよ。手がけたのは大陸書館という個人事業の出版社で捕物帳専門の出版社「捕物出版」の別屋号だそうです(「屋号」はアメリカふういえば「インプリント」ですね)。で、その捕物出版はというと――「亭主が入稿と本造りをして、女房が校正と経理という矮小な出版社です。おそらく今後もちっぽけなままで、大きく成長することはないでしょう」。そんな捕物出版が中国語文化圏を舞台とする探偵・冒険小説――というのは公式HPの説明ですが、これではやや言葉足らずかも。ここはワタシなりに言葉を補うと――かつて大日本帝国が版図とした時代の中国語文化圏を舞台とする探偵・冒険小説――に特化した大陸書館なる別屋号を立ち上げたのは2021年のこと。この「(かつて大日本帝国が版図とした時代の)中国語文化圏を舞台とする探偵・冒険小説に特化した」というコンセプトは生島治郎の「鉄の棺」も収録されている『外地探偵小説集』全3巻(せらび書房)にも通ずるものがあって、なかなか良いと思うなあ。1930年代というのは探偵小説の勃興期でありかつ〝植民地〟というのは渾沌の坩堝だったわけだから探偵小説の舞台としてはうってつけ。実際、多くの探偵小説や冒険小説がこの時代の中国大陸を舞台として書かれた。そういえば『外地探偵小説集』の「満洲篇」には城田シュレーダーの「満洲秘事天然人参譚」が収録されているんだった。しかし、これが某密林のマーケットプレイスあたりだと目を疑うような値段がつけられていて、とても良識あるニンゲンの購買対象となるようなシロモノではない。しかし「日本の古本屋」にも商品登録がないし。よほど刊行部数が少なかったのかねえ……。城田シュレーダーが書いた海外を舞台とするエキゾチックな探偵小説や秘境探検小説は相当な数になるので(末永昭二氏によれば、城田シュレーダー名義で発表された作品は全部で27。しかし、そのすべてが中国大陸を舞台としたものではないので、実数は不明。ただ、相当な数には違いない)、それらをまとめて大陸書館で書籍化してくれれば間違いなく買うけどなあ。どんなもんでしょう、大陸書館サン……? ともあれ、『上海無宿』が復活したというのはメデタイ。実は、ワタシ、この『上海無宿』を溺愛しておりまして。集中の1編「歯痛と決闘」はかつて「もしワタシが『日本ハードボイルド全集』の編集委員だったら」という想定で第1巻「生島治郎集」の収録作品を選考した際(こちらです)、躊躇なく選出したくらい。そういえば、上述の「鉄の棺」も選んだんだっけ。では、『上海無宿』の魅力は何かというと、それは「話が小さい」ことですよ。え、「話が小さい」ことが魅力になるの? なるでしょう。これは「そして今日もハードボイルド小説を読んでいる④」でも書いたことだけれど、ワタシは「大きな物語」というやつが苦手で。「国家」とか「社会」とか「時代」とか。そんな大きなモノを主題に掲げた物語ね。主題が大きいだけに、往々にしてヴォリュームも長大になって、ことによると全ウン巻なんてことにもなりがち。で、作家というのは、どういうわけか、こういう「大きな物語」に手を染めたがるんだよ。特に、作家キャリアの終盤にね。当然、意図されているのは、オノレの作家キャリアの集大成にしよう、ということなんですが……これをやられるとね、回りは何も言えなくなる。もうね、ただ、ははーっとひれ伏すしかない。作家本人もそういう機微はわかっているはずで、それでもやるというのは……まあ、ひれ伏して欲しいんでしょう。そう考えるしかない。そこに見えるのは1人の「先生」とそれを囲む「取り巻き」連中の構図……。

 生島治郎が『上海無宿』を中央公論社刊行の月刊文芸誌『小説中公』に連載したのは1993年から94年にかけて。生島治郎が亡くなったのは2003年なので、もう作家キャリアの最終盤に差しかかっていたと言っていい。そんなタイミングで生島治郎はこんな軽いものを書いたのだ。そう、『上海無宿』は、軽いんだ。『上海無宿』というのは、上海の私立探偵・林愁介を主人公とする連作短編集ですが、「歯痛と決闘」なんて林愁介が歯痛に苦しんでいるというのがモチーフになっていて、もうしょーむない話ですよ。しかし、最後はそんなしょーむないワタクシゴトがちゃんとストーリーに活かされるかたちで一件落着へと至る。こういうのをウェルメイドの小品と言うんでしょう。で、生島治郎が1990年代に書いたモノにはこの種のウェルメイドな連作短編集が多々ある。学習研究社刊行の月刊女性誌『フェミナ』に1992年から93年にかけて連載した『最も危険な刑事 女極道警部秋吉真美』もそうだし(ちなみに、タイトルでは「女極道警部秋吉真美」がフィーチャーされておりますが、主人公は秋吉真美ではなく、元マル暴の刑事・南雄二。生島治郎は最後まで「男」を描きつづけた作家だった)、実業之日本社刊行の週刊文芸誌『週刊小説』に1992年から94年にかけて連載した『暗黒街道』もそうだし、やはり『週刊小説』に1995年から97年にかけて連載した『女首領 チャイニーズ・ゴッドマザー』もそう(こちらも主人公は「女首領」こと新宿歌舞伎町の中国人高利貸し・謝金令ではなく、その下で秘書として働く日野真二)。こうしたウェルメイドの連作短編集を量産した1990年代とは作家・生島治郎にとっての紛れもない「ハーベストタイム」だった。なにも「大きな物語」を書き上げることだけが作家にとっての「収穫」ではないはず。一代のハードボイルド作家が(80年代の迷走を経て――と、ここはあえて書き加えておきましょうか。80年代を代表する生島作品といえば例の「現代の神話」を別にすれば自伝小説的色合いの濃い『異端の英雄』と『総統奪取』ということになるでしょうが、どちらも当時の冒険小説ブームの中で喝采を浴びるものではなかった。特に『総統奪取』はなまじ話柄が大きかっただけに「冒険小説作家・生島治郎」の力の衰えを見せつける結果に。時代の空気に煽られて「大きな物語」を書こうとして無残にも失敗したケース。そんな80年代の迷走も経て)こんな力の脱けた小品を生み出すに至った――、それはこの上もなく豊かな「収穫」ですよ。今、ほぼほぼ30年の時を経て復刊なった大陸書館版『上海無宿』を読みつつ、そうしみじみと感じ入っている……。