PW_PLUS


そして今日もハードボイルド小説を読んでいる⑥

 「そして今日もハードボイルド小説を読んでいる」というタイトルでもう1本だけ書く。実は、これは読まなければならない、と思っていた小説があって。それは、志水辰夫の『負けくらべ』。志水辰夫にとっては、これが実に19年ぶりの現代小説となる。で、ワタシがこの作家の小説を読むのも実にウン十年ぶりということになる。実はワタシ、この作家(あるいは、この作家を中心とする4人衆)にはいささか複雑な思いを抱いておりまして……。ま、これについては後ほど。ともかく、ワタシがこの作家の小説を読むのはウン十年ぶりということになるんだけれど、そんなワタシをしてこの小説を「読まなければならない」と思わせた理由。それは、主人公が介護士であること。ワタシが知る限り、介護士を主人公とするハードボイルド小説ってこれが嚆矢じゃないかなあ。介護士を主人公とする小説はあると思うけれど、ハードボイルド小説はね。で、これはなかなかいいところを突いてきたなあ、と。ワタシの経験に照しても、介護士はハードボイルド小説の主人公になりえますよ。つーかね、ハードボイルド小説の主人公にうってつけの介護士をワタシは知っているんだ。それは、母が最後にお世話になった富山市藤木にあるナーシングホーム・スマイルジョジョという介護施設(住宅型有料老人ホーム)の施設長。Sさんという人で、これがもうね、人間力のカタマリのような。眼がキラキラしているんだよ。ちょっと若い頃の南方熊楠に似ているというか。誰だってあの眼には魅了されると思うんだけれど、Sさんも同じような眼をしていた。しかも、そのプロフィールがまたその眼にふさわしいというか……。まず、名刺をいただいた時点で、介護福祉士でありながら浄土真宗本願寺派の僧侶であることに驚かされた(名刺にハッキリと「浄土真宗本願寺派僧侶」と記載されている上に、お名前がね。個人情報なのでここには記しませんが、仏教徒にとっては特別に重みのある姓を名乗っておられます)。さらに、見るからに頑健な肉体をされているので(特に前腕の筋肉の張りがハンパない)何かスポーツをされてたんですかとお尋ねしたところ、空手をやっていたと。しかも、流派は極真空手だという。これには、ええ、ですよ。さらに驚かされたのは、19歳の時だったかな? 全国大会で優勝したこともあるという。介護福祉士でありながら浄土真宗本願寺派の僧侶で、なおかつ極真空手の達人で、全国大会で優勝したこともあるという……。もう、なんじゃそりゃ⁉ の世界ですよ。しかし、サプライズはこれで終りではなかった。なんと、前職は自衛官だというのだ。自衛隊で防災士をやっていて、某県(富山県ではない)の防災計画は私が作りました……。この時点でワタシは志水辰夫が介護士を主人公とするハードボイルド小説を書いていることは知っていましたが、現実にこういう介護士がいる以上、介護士を主人公とするハードボイルド小説は十分にありだなあ、と。つーか、さすがは志水辰夫だ、いいところを突いてきたなあ、と。そんな感じだったわけだけれど……

 これがね、思っていたのとは全然違うんだ。確かに『負けくらべ』の主人公・三谷孝は介護福祉士であるとされている。また、現に「三谷ホームサービス」なる介護事業所を経営もしている。ただし、65歳を機に事業所は娘夫婦に任せ、自分自身は個人資格で訪問介護をしているという設定。でね、三谷は自らが提供する訪問介護サービスの利用者を「クライアント」と呼んでいるんだよ。曰く「芝崎園枝は、三谷がこれまで接してきたクライアントのなかで、もっとも手強かった女性だった」。はたして介護事業の分野で利用者を「クライアント」と呼ぶことってあるんだろうか……? あとね、三谷は介護福祉士と言いながら、一般的な訪問介護でやるような食事や入浴の介助、おむつ交換、口腔ケア(口内の健康を保つためのケア。自分の口で食べる能力を維持するための咀嚼や嚥下のトレーニングなども含まれる。ちなみに、人が自分の口で食べることができなくなったときはどうなるか? そうなったとき、なによりも家族が難しい選択を迫られることになる。老人医療の世界には「自分の口で食べることができなくなったときが寿命」という考え方があって、その考え方に従えば「何もしない」という選択もありうるわけだけれど、それもなかなか厳しい選択である……。そんな難しい選択をワタシは去年の11月に求められることとなった。ワタシが下した選択は「中心静脈栄養法」。首の静脈にカテーテルを挿入して高濃度の栄養輸液を投与する方法。これが最適解という確信があったわけではないものの、ネットに情報を求めたところポジティヴな情報が多く見られたため。ところが、カテーテルの挿入を終えた後になって、この方法を「最悪の選択」と決めつける医療関係者の動画を見てしまった。発信しているのが医療関係者だけに、うわ、間違ったか⁉ と大いに悩まされることとなったわけだけれど……結果から見れば、選択は間違いではなかった。それがナーシングホーム・スマイルジョジョの代表Sさんとワタシの一致した見解です)とかは一切やらない(そういう描写がない)。じゃあ、何をやっているかというと――

 ひなたぼっこをしている園枝の肩や背中に、よく蝶が止まった。園枝がじっとして動かないからだった。
 三谷は園芸店に出かけて行き、ツツジ、アザミ、アブラナなどを買ってきて植えはじめた。蝶は自分の子孫を残すため、これらの植物に産卵するのだ。孵化した卵はその新芽を食料にして成長する。
 ある日気がつくと、園枝が三谷の眼前になにか差し出していた。
 ヘビの抜け殻だった。シマヘビが脱皮したあとに残していった殻である。
 脱皮しているところを見たことはないが、抜け殻なら子供のころ何度も見ているし、拾ったこともある。
 しかしまさかいまごろ、こんな都心でお目にかかろうとは思いもしなかった。
 どこで拾ったんですかと目で問いかけると、園枝は庭の隅の生け垣を指さした。
 敷地のいちばん外側はコンクリートの塀になっているが、外周の一部は目隠し用のウバメガシの垣根になっていた。人やけものなら出入りできないが、ヘビのような生きものなら出入りが可能だろう。世田谷でもとくに緑や生け垣の多い、岡本界隈ならではの出来事だった。
「へえー、お庭にヘビがいたんですか。これをわたくしにくださると。ありがとうございます。財布に入れて、お金が貯まるのを楽しみにしますよ」
 三谷は声を上げて受け取った。
 ヘビの抜け殻を財布に入れておくと、金が貯まるという伝承は、各地に残されているのだ。
 気のせいか、園枝が目を細めて三谷を見ていた。
 きわめてわずかな変化ではあったが、園枝はそのとき、たしかに微笑んでいた。
 自分を受け入れてくれたと、はじめて感じたときだった。

 これねえ、介護とは違うんじゃないの? むしろ、セラピーとかに近い。いささかスピリチュアルな匂いも感じられる。でね、実は三谷はいわゆる「ギフテッド」とされているんだ。そのことは東大の細田という脳神経外科医の「詳細で緻密な調査」によって明らかにされている。細田は日本痴呆症学会(現・日本認知症学会)の会報に掲載された一民間医の投書――家族が音を上げるほど症状のひどかった87歳の認知症の老人が一介護福祉士の活動によって家族の顔を見分けられるまで回復した、というレポートに強い共鳴と感動を覚え、その介護福祉士――三谷孝を訪ねる。そして、三谷の了解を得て「詳細で緻密な調査」を実施する――「聞き取り、問診、脳波検査からMRIスキャン、PETスキャン、血液、脳脊髄液など、あらゆる身体的スペックを計測し、データを収集した」。その結果、わかったのは、三谷の知的能力、いわゆる頭のよさは平均レベルをやや上回る程度にとどまること。しかし「知力や才能の分野とはちがう本能的能力、察知感覚、それを形成していると思われる記憶力、判断力といったものになると、常軌を逸したレベルにあることがわかった」。もっとも、こうした三谷に先天的に備わった能力が認知症の改善にどう役立ったかまでは博士の調査でも明らかになっていない。それは「現代の医学レベルでは知ることのできない課題として、将来へ持ち越すしかなかったのだった」。で、三谷の「介護」なるものもこの三谷に先天的に備わった能力をフルに活用したものとなっているわけだけれど、実は三谷にはそれとは別にもう1つの顔があった。なんと、この三谷に備わった能力に目をつけた内閣情報調査室(の外郭団体)から協力を求められ、身元調査や人物鑑定などの仕事を手伝っているのだ。その見返りに三谷は「クライアント」の紹介を受けている。内閣情報調査室(の外郭団体)から紹介される「クライアント」なので普通の身分ではない。現在抱える3人の内の1人、下村勇之助は「二年前に引退した与党の大物政治家だった」……。

 はたして、これがいま求められているハードボイルドなんだろうか? 志水辰夫は「本よみうり堂」のインタビューで「いま自分が書くのであれば、時代に合ったテーマを探さなくては」。で、見つけた題材が、認知症だった――とされているのだけれど、別に認知症は物語の中心的主題とはなっていないんだよね。単に三谷孝の為人(ひととなり)を説明する中で語られるだけ(芝崎園枝も下村勇之助も物語の本筋とは無関係)。この小説の主題はタイトルが示唆するように誰も勝者がいない現代社会の虚ろさ(経済的には成功しているように見える人物も角度を変えれば「負けている」というメッセージ)――だと思う。そういう主題の小説の主人公に介護福祉士を当てるというのは大いにありだとは思うんだけれど、しかし現に描かれている「介護士」が介護士よりもセラピストに近い……というのは、この4年間、身近に介護士と接してきたワタシのようなニンゲンからすれば若干の腹立たしさを覚えないでもない。だってさ、もし仮にチューリップ苑(母が昨年12月に一旦、介護療養型医療施設――いわゆる「お別れホスピタル」――に入院するまでお世話になった介護老人保健施設)のHさんだとかナーシングホーム・スマイルジョジョのSさん(代表も施設長もイニシャルにするとSさんですが、ここは施設長の方。代表の方のSさんは元富山県立中央病院の看護師さん。今は肝っ玉母さんという感じですが、若い頃の写真はデビュー当時の髙樹のぶ子にちょっと似ている。そういえば『光抱く友よ』はオレも読んだなあ……)だとかが介護士が主人公ということに惹かれてこの小説を読んだとしたらガッカリすると思うよ。だって、介護士のことも介護現場のことも何も書かれていないもの。そんなんだったら、介護士を主人公になんかするなよ、と……。

 でね、こっからは「そもそも論」みたいなことになってしまうんだけれど……そもそもワタシは志水辰夫を読むのはウン十年ぶり。で、その志水辰夫はといえば、いわゆる「冒険小説の時代」の中心的作家で、デビュー作『飢えて狼』が刊行された1981年に日本冒険小説協会が設立されていることを考えるならばその申し子的存在だったと言ってもいいかも知れない。で、同じ1981年に『弔鐘はるかなり』で二度目のデビューを果たした北方謙三(北方はそれまで純文学作品を書いており、『弔鐘はるかなり』はそんな北方がエンタメ分野に路線変更して書いた最初の小説)や船戸与一(1979年デビュー)・逢坂剛(1980年デビュー)らとともに「冒険小説の時代」を牽引することになる。ちなみに日本冒険小説協会が選出する日本冒険小説協会大賞の受賞者は第1回から第7回まではこの4人で占められている。つーか、この4人に佐々木譲を加えれば第10回までの受賞者が占められてしまう。あんまり健全な状況とは言えないよなあ。船戸与一なんて書けば大賞だよ。確か日本文学大賞は大御所の間で大賞がたらい回しされているという批判が出て廃止になったはずだけれど……そういう声を上げるツワモノが内藤陳の回りにいなかったのかねえ……。ともあれ、「冒険小説の時代」の中核を担ったのは志水辰夫ら4人の作家だったと言っていいわけだけれど、この4人の作家はのちに揃って歴史/時代小説を書くようになる。先陣を切ったのは北方謙三で、1989年に後醍醐天皇の第8皇子で「征西大将軍」として九州平定に当たった懐良親王を主人公とする『武王の門』を発表。以降、南北朝時代を舞台とする歴史小説を連打。これらは総称して「北方太平記」と呼ばれている(そうです)。これに続いたのが船戸与一で、1995年、江戸時代後期に東蝦夷地で起きたアイヌの蜂起「クナシリ・メナシの戦い」を題材にした『蝦夷地別件』を発表。これは相当に攻めた作品だったと言っていいと思うんだけれど、そんな船戸与一の思いが空回りしたか、発表直後、漢字にルビとして当てられていたアイヌ語に相当の間違いがあることが北海道アイヌ協会からだったかな? 指摘され、急遽、修正版が出されるというハプニングがあった。ワタシの記憶だとこれは船戸与一が参照したアイヌ語辞書が間違いだらけだったというのがコトの〝真相〟だったような……? なお、船戸与一には『満州国演義』という全9巻を数える歴史小説の大著がある。さらに逢坂剛は2001年から時代小説「重蔵始末」シリーズに着手。そして、2007年には志水辰夫も『青に候』で時代小説に参入。しかも「今後は時代小説に専念するつもり」と、時代小説専業となることを宣言。ここに「冒険小説の時代」の中核を担った4人の作家が揃って歴史/時代小説に「転向」するという事態が生じたわけですが……これがなんともザンネンというか。かつて五味康祐や柴田錬三郎の時代があり、司馬遼太郎や池波正太郎の時代があり、山本周五郎や藤沢周平の時代があり……というか、これはいまでも続いているわけだけれど(つい先日もNHK BSで『だれかに話したくなる山本周五郎日替わりドラマ』というのをやっていて、なんでも2021年に放送されたシリーズの再放送だそうですが、きっと根強い人気があるんでしょう。またCSの時代劇専門チャンネルは見ると大体『三屋清左衛門残日録』をやっている。もちろん「個人の印象」ですが……)、そうしたものへの〝反逆〟がハードボイルド小説や冒険小説に取り組む意識の根底には間違いなくあったはず。それを呆気なくかなぐり捨てて……と、まあ、そんなような気分がね、ワタシの中にはあって。で、あまり好きにはなれないというか(ワタシは「気がついたら夏が終っていた(ワタシだけの『日本ハードボイルド全集』を編んでみた)」で選定した「ワタシだけの『日本ハードボイルド全集』」にこの4人の作品をリストアップしていない)。で、志水辰夫を読むのもウン十年ぶりということにはなったわけだけれど(実際のところ、それが何年ぶりとなるのかはウィキペディアのビブリオグラフィを見ても判然としない。押し入れの段ボール箱を漁ったら講談社文庫版の『飢えて狼』と『裂けて海峡』が出てきて、いずれも発行は昭和61年。だから、この当時は読んでいたんだよ。ただ、昭和61年というと、オレ、「心の内戦」を戦っていた頃で……)、そうして読んだ小説がこれなんだよ。そう、これなんだよ。多分、志水辰夫を読むことはもう二度とないだろうなあ……。

 しかし、ザンネンだな、こんなふうになるなんて。今回、改めて『裂けて海峡』を読んで見たんだけれど、実に見事な「センチメンタル・ハードボイルド」(『飢えて狼』の解説で北上次郎がこう評している)ですよ。よく知られた最後の3行もむしろ清々しいくらいで、ワタシはちっとも「大キザ」(こちらは『裂けて海峡』の解説で内藤陳が書いている。曰く「もし読後にこのファンレターを読んでいる諸君、今一度、じっと両の瞼を閉じて、大キザに決めたエンディングの余韻を味わってくれ」)とは思わない。これはね、なんとなくなんだけれど、「冒険小説の時代」を担った4人の内、志水辰夫とだけはもう少し違ったつきあい方ができたんじゃないかと、そんな気がね。ま、いまさら言っても詮ない話だけどね。でも、シミルんだよ、

 天に星。
 地に憎悪。
 南溟。八月。わたしの死。

 か……。